第十揺 「笠原玄二」 前編

 

「あ、笠原サン!おはようございます!」

「ささ、席についてくださせぇ!」

「今日は誰かシメる予定あるんすか!」

「…ねぇよ。あと、その言い方やめろって言ってンだろ。組長みたいじゃねぇか」


 学校に足を踏み入れた途端、取り巻きに囲まれて溜息をつく男。


 笠原玄二。今年で高校三年生の17歳だ。


 高校生とは思えないくらいの頑強な体躯に、大の大人に見間違うくらいには成熟した顔。金髪にピアス、制服の中にはカラーシャツという、正に不良、という格好をしている。


 ちなみに、本人曰く、自分は不良ではないとのこと。少なくとも、本人だけはそう自負しているのだ。周囲は完全な不良だと認識しているが。



 きっかけは些細なことだった。


 バイト先の飲食店で理不尽なクレームをつけてきた不良高校生に注意(…?)をしたことがあった。逆ギレしてきた彼らをぶっ飛ばしたところ、仲間を呼ばれてしまい、大喧嘩に発展した。


 多対一の圧倒的不利な状況に関わらず、全員をK.O.させた結果、彼らに「番長」として慕われてしまい、このようになっているわけである。

 玄二の冷たい態度もあってか、最初に比べれば人数は減ったが、それでも三人の男がいつも付き纏ってくる。


 玄二は、この番長という立場に嫌気が差していた。


 玄二の体は、あらゆるバイトができるように鍛えたものだ。

 決して他人を傷つけるためではないし、ましてや暴力で解決したことを褒められることなど、吐き気がする。


 見た目が不良っぽいのは、また別の理由があるのだが…


「…なァ、もういいだろ。別に俺ァお前らの番長じゃねぇし、なりたいとも思わねぇ。お前らが俺に期待してることは絶対にやらねぇ。分かったら、どっか行け」


 取り巻きが何か言おうとした時、チャイムが鳴る。玄二は「戻れ戻れ」と手をひらつかせ、取り巻きは渋々各自の教室に帰っていった。


「なンでこうなった…」


 天井を仰ぎ見ていると、自然に言葉が漏れた。


 小さく舌打ちをし、正面に向き直る玄二。


「皆さん、揃っていますか?出席をとりますよ」


 物腰の柔らかい老教師が、教室に入ってくる。



 笠原玄二の長い1日が始まった。




 ***




「それでは、笠原君。ここの問題の解法の一つとして何がありますか?」

「…yを文字固定して、実数解条件で範囲を出す」

「はい。正解です」


 にっこりと笑う老教師。

 玄二のクラスの担任である老教師は数学を専門としており、今はその授業の真っ最中である。


 老教師の問いに対し、ややぶっきらぼうながらも、しっかりと答える玄二。その真面目さを買ってか、老教師は他の教師に比べて玄二への風当たりが弱く、なんなら好まれている気配すらあった。


 玄二は教師陣からの評判は高くない。


 見た目がヤンキーだというのもそうなのだが、元々顔つきが凶悪な人間だ。

 そんな人間の周囲に普段の素行が悪い者達が集まっているとなれば、「不良に慕われているとは、やはりアイツはやばいやつだ」と評価されるのが普通だろう。その点を疑問に思ったことは無かった。


 やはり、あの老教師が特殊なのだ。

 今もニコニコと玄二を見つめる彼に、きまりの悪さを覚え、玄二は顔を伏せる。


 正直、人から悪評価をされるのに慣れている玄二にとっては、こういった類いの視線はむず痒い。


「…なンですか」

「いえ、よくできましたね」

「……」


 再び板書をし始める老教師に、玄二は不満そうな顔をするのだった。




「テスト返却しますよー」


 数学は終わり、続いては現代文の授業。


 テストなどは基本、机に備え付けられたパソコン型のデバイスで答案を入力して行うのだが、現代文などの国語系の授業では、問われている漢字などが予測変換で分かってしまうため紙のテストで行われる。


 データ化が進んだ義務教育の場でも、アナログが完全に消え去ることは無かったという訳だ。


「えー、…柏さん、はい。次は…………笠原くん」


 現代文の教師は20代の女性だ。

 教育実習を終えたばかりで授業では初々しいところを示す彼女だが、玄二のテストを返却する時になると、体を強張らせた。


 玄二は立ち上がって教壇まで歩く。

 女教師は顔を横に背けたまま、玄二の答案を差し出す。

 目を合わせたくないのだろう。あからさまに玄二を怖がっているその様子に、むっとする。


(…取って喰うわけじゃねぇンだから、そこまで怖がらなくてもいいだろうがよ)


 つい、そう言いたくなる玄二だったが、そんなことを言っては更におびえさせてしまうだろうと思い、ぐっと堪える。


「…ども」


 小さく言って、足速に席に戻る。その間に様々な人の席を横切る訳だが、誰一人として目を合わせようとしない。


(…ま、いいけどよ)


 誰かに好かれることを目的としていない玄二にとって、友人がいないことは大したことではない。

 とはいえ、冷たい態度を取られて全く傷つかない訳ではない。

 玄二だって、一人の人間なのだ。


 席について、返してもらった自分の答案を見る。

 100点中79点。悪くはない数字だが………



「アイツには到底かなわねぇ、な…」



 自然と漏れた自身の一言に、疑問を感じる玄二。



 ―――「アイツ」とは誰だ。



 頭の良いやつなら、この学校にだっている。

 だが、そうじゃない。もっと、深いところにある感嘆の声だったのだ。


「アイツ」という言葉に、親愛と尊敬の気持ちが込められていた。この学校の成績優秀者で、玄二がそう呼びたい人間はいない。


(なンだ…?「アイツ」ってのは、誰だ…?俺は、何か)



 拭いきれない気持ち悪さがあったが、「アイツ」を思い出すことができず、結局諦めたのだった。




 ***




「笠原サン!一緒に帰りましょう!」

「……テメェ、人の話聞いてたか?」


 放課後、朝に玄二から「どっか行け」と言われたにも関わらず懲りずに姿を見せた男達に、玄二は少し怒気を孕んだ声で対応する。


「俺はテメェらのリーダーじゃねぇ。テメェらが俺の周りをウロウロしてるのが、こっちにとっちゃあいい迷惑なンだよ。俺は今日用事がある。ついてくンじゃねぇぞ」

「えー!笠原さん、いつもそれ言ってるじゃないっすか!今まで用事がなかった日がねぇっすよ!」

「毎日予定を入れてっからな。暇があっても、テメェらに割く時間はねぇよ」


 通学バックを肩に担ぎ、教室を出る玄二。男達は玄二を追いかけようとした。


「ま、待ってくださいよ!」


「黙れ。ついてくンじゃねぇ。殺すぞ」


「「「っ……!」」」


 玄二に本気で睨まれ、あまりの迫力にたじたじになる男達。

 そうこうしている間に、玄二は姿を消していた。


「また失敗だ…」

「…用事って、なんなんだろうな」

「分かんねぇ。きっと、隣町の番長でもシメに行ってるんじゃねぇか?」

「!も、もしかして…シメに行くのが危険だから、俺達の身を案じて一人で行ったのか…!」

「ま、まじかよ!俺達が危険に晒されないように、わざと強く言ったってことか…!?」

「……やっぱ、かっけぇな。笠原サンは」

「「間違いねぇ!!」」


 満面の笑みで勝手に玄二を信仰し始める取り巻き達。


 謎の勘違いで男達が盛り上がっている、その頃。


 一方で、玄二は自転車で「ある場所」に向かっていた。





 玄二の通っている学校から10キロ程離れた場所のあるコンビニ。


 彼女ーー笹木玲奈ささきれいなは、そこでアルバイトとして働いている大学一年生だ。


 そこそこに名のある大学であり、彼女は中でも成績優秀な学生である。

 性悪女でもなければ、良識もあるし、思考力もある。

 ルックスも中々のもので、彼女のポニーテールに誘われて愛を告白した男の数など数知れない。あんこうもビックリの擬似餌っぷりだ。

 ……いや、別に彼女は捕食しようとしてポニーテールにしているわけではないが。


 そんな彼女は、アルバイト先のそのコンビニで、パニック状態に陥っている。


 その原因は、目の前の人物。


「今日からウチで働くことになった、笠原君よん。先輩として、いろいろ教えてあげてねん?」


「笠原玄二です。よろしくお願いします」



(ヤンキーだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああッッッ?!)



 身長190センチはあろうかという巨体の男。

 金髪、イアリング、面構えを始めとした体の全てに凶悪さを帯びている男を見上げながら、玲奈は内心で冷や汗をダラダラ流す。



(なんで店長こんな人雇ったのよぉぉぉぉぉおお!?)


「どう?かっこいいでしょん、彼?私ね、彼にシンパシーみたいなのん感じちゃって!すごく男前だし、即決しちゃったん!」

「ご丁寧に理由解説どうもっっっ!!」

「え?」


 思わず突っ込んだ玲奈の様子に、首を傾げる店長。


 なんとなく発言で分かると思うが、ここの店長はオカマである。

 玄二とタメを張るくらいな高身長の彼(?)は、尖った男がタイプなのだと、玲奈に以前言っていた。その時は何も思わなかった玲奈だが、それが現在の惨状をまねいているのだ。

 人の性癖とはやっかいなものである。


(でも、店長が雇っちゃったんなら、どうしようもないし…えぇい!腹を括れ、笹木玲奈!)


「ええと、笠原君…だっけ?ここのバイトリーダーをしている笹木玲奈です。よろしくね!」


 過度の緊張から不自然なことを言ってしまわないかとヒヤヒヤしていた玲奈だが、きちんと挨拶ができたことに「やった!ちゃんと挨拶できた!」と小さくガッツポーズをする。


「はい、よろしくお願いします」


(あれ、意外と普通……?)


 見た目にそぐわぬ、しっかりとした物言いに驚く玲奈。


(結構、上手くやってけそうかも!)


 玲奈は持ち前のポジティブさで気持ちを上げ、早速玄二にバイトの指導を始めるのであった。





 結論から言おう。


 笠原玄二、とっても有能だった。


「笹木さん、倉庫裏の商品の整理しておきました」

「お待ちのお客様、こちらへどうぞー」

「お客様。お客様が今お使いになられている箱のサイズですと配送料が高くなってしまいますので、このビニール製の配送パックを使った上で、こちらの配送サービスを利用した方がお得になり」



(めちゃくちゃ手際良いいぃぃぃぃぃぃぃいいい!?)



 テキパキと作業と導線誘導をこなし、未だに玲奈すら覚え切っていない商品に応じた配送サービスの料金、その節約方法を瞬時に考えて提案する。


 有能すぎる。最早、玲奈が教えることは無さそうだ。


「す、すごいね笠原君。他にバイトとかやってた?」

「はい、色々と。ここに来る前はケーキ屋でバイトしてました」

「ケーキ屋?!」


 強面の男が、かなりメルヘンなバイトをしていたことに驚愕する玲奈。

 そこに追い討ちをかけるように、玄二の更なるバイト遍歴が語られる。


「その前はラーメン屋と…レストラン」

「い、飲食店ばっかりだね…」

「その前が引っ越し業者」

「唐突の肉体労働!?」


 百戦錬磨のバイト戦士を目の前に恐れ慄く玲奈。

 予想以上の経験豊富さに驚いていたが、玲奈はふと気づく。


「それだけ仕事ができるのに、

「…それは」


 玄二はその質問をされて、眉間に皺を寄せる。

 躊躇いながらも、その続きを言おうとした、その時。


「あのー…すみません」


 レジの前に立っていた老いた女性が、おずおずと玄二達に話しかける。


「あ…どうされましたか?」

「お金のおろし方がわからなくてねぇ。教えてくれないかい?」

「笹木さん、俺が行きますンで、レジよろしくお願いします」

「あ、うん。わかった」


 話の先が気になったが、客が最優先だ。

 レジを出て、お婆さんを誘導する玄二。

 ふぅ、と少し息を吐いて気持ちを切り替え、玲奈は業務に戻るのだった。





「お疲れ様ん!今日はもう上がって良いわよん!」


 日も落ち始めた時間帯、店の奥からオカマ店長がにこやかな表情で現れる。


「あ、店長。お疲れ様です」

「ええ、玲奈ちゃんお疲れ様ん。玄二くんもね!あなた初めてなのに凄く仕事ができて、アタシびっくりしちゃったわよん!惚れちゃいそうだわん!」

「………お気持ちだけで」

「あ゛あ゛ん!!イケズねん!!」

(なに今の声?!こわっ!?)


 店長の「漢」の部分が垣間見える野太い声を聞いて、顔を引き攣らせる玲奈。


 ちなみにだが、玲奈は心で絶叫し、それが表情筋で表すタイプの人間である。

 喜びの絶叫を内心でしているときは晴れやかに笑っているし、恐怖で絶叫しているときは思いっきり顔が青ざめる。

 心の叫び具合でコロコロと表情が変わるので、『表情筋二十面相』と友人からは呼ばれていたりする。

 そういった無邪気なところが周囲に好かれる理由の一つなのだが。


「…そういえば、さっき店長が『シンパシーを感じた』って…」


 先程は、身長以外に共通点を見出せなかった玲奈だが、今なら分かる。


 店長がシンパシーを感じたのは、おそらく「見た目で周りから凄く怖がられる」ところであろう。


 店長は普段から口紅をさしているので、振る舞いなどを見ても、明らかにオカマだ。高身長ムキムキオカマは怖がられる傾向にあるのが世間の風潮である。


 店長と玄二とで方向性は違うが、どちらもはたから見れば一般人とかけ離れた外見をしているのだ。


 けれど、彼らの内面は優しいものだ。

 その優しさに気づいてもらえず、外見のみで人々から距離を取られてしまう点で、彼らは共通しているのだ。


「誤解受けそうな見た目してるもんなぁ…」

「「?」」

「あ、いえ、こっちの話です」


 もう一度店長に挨拶をし、コンビニ奥の更衣室に入る。

 玲奈はコンビニの制服から普段着に、玄二は学校の制服に着替えて、コンビニを出た。


「今日はお疲れ様!笠原君は…」

「俺はこっちです」

「じゃあ逆方向だね。それじゃ!」


 玄二は自転車を漕いで信号の向こう側に行き、それに手を振って別れる玲奈。

 コンビニ先に顔の濃い面子が増えたなぁ、としみじみする玲奈だったが、その時思い出した。


「そういえば…なんでバイトを転々としてるのか、聞いてなかったな」


 まぁ、明日以降に聞けばいいだろう、と結論を出して、玲奈は帰路につくのだった。




 ***




 玄二は、晴れの日に学校から帰る時の自転車が好きだった。


 ほのかにオレンジ色に染まり始めた西日が、空の青と絶妙なコントラストを作り上げ、紫のぼんやりとした境界線が空に引かれている。

 そんな情景の中、自転車の上で風を感じながら、その匂いを鼻腔いっぱいに吸い込む。少し冷たい空気が肺に送られ、どこか清々しい気分になれる。


 今だけは、自分は風になれる。


 今だけは、現実を考えなくていい。


 今だけは、逃避ができるのだ。



 だが、その時間も終わりを告げる。

 玄二は既に家の前に着いてしまったからだ。

 家賃3万の小さな旧式アパート。

 2085年の今になっても、こんな古いタイプの家に住まなければならないくらいには玄二の家は貧乏だ。


 所々錆びついた自転車を停め、アパートの一室の鍵を開けた。


「ただいま、お袋」

「あら玄二。おかえりなさい」


 居間から首を出して答えるのは、笠原佳苗かさはらかなえ――つまり、玄二の母親である。


「今からお風呂洗うわね。ちょっと待ってて」


 パタパタと足音を鳴らせて浴室に入っていく佳苗。

 その後に続いて脱衣所に入り、玄二は洗面台で手と顔を洗う。


「どう?今度のバイトはうまく行きそう?」

「…いつも最初は上手くいってンだよ。問題はこの後だ」

「……今度は、あんなことにならなきゃいいねぇ」


 浴室から聞こえる水音に紛れて聞こえてくる佳苗の呟きに、玄二は顔を歪ませた。


「…今日、大家さんに家賃払う日だろ。払ってくる」


 それだけ言い残して、テーブルの上にあった金の入った封筒を持ってアパートの一階にある大家の部屋に向かう。

 インターホンを鳴らすと、中から「はぁい」という老婆の声が聞こえ、ドアが開く。


「大家さん、今月の家賃です」

「はいはい、確かに受け取りました。お母さんは?」

「今は部屋に居ます」

「そうかい。今日はお仕事ないんだねぇ。いつも忙しそうにしてるけど、ちゃんと元気にやってるかい?」

「えぇ、それなりに」

「なら良かった」


 しわくちゃの顔をさらに皺だらけにして破顔する大家の老婆。

 東京の、それも都心に近い位置にあるこの地域で、家賃三万円で住めているのは、彼女が玄二達の境遇を考慮して家賃を特別に安くしてくれているからだ。今の環境を作ってくれた彼女には、本当に頭が上がらない。


「玄二君がここに来たのは何年前だったかねぇ」

「俺が中1の時なんで、6年前です」

「そうかぁ…そんな昔だったかい…時が経つのは早いもんだねぇ」


 頷きながら懐古の念にひたる大家の老婆。


「あの頃は玄二君は細かったのにねぇ…いつの間にこんなムキムキのいい男になっちゃって。どうしてそんなに鍛えてるんだい?」

「最初に鍛えたのはバイトするためで…えっと、引っ越し業者って凄い体力使うンです。鍛えてた方が現場で評価されるだろうって理由だったンですが…」

「そうだったのかい……私は、あのゲス男をぶん殴る為だと思ってたよ」


 ふ、と頬を緩ませる玄二。

 それは、その予想が当たっているということを暗に示すものだ。


「最初の理由は違いましたが、今ではそれが理由です。あのクソ親父から別居し始めてから、あの男は媚びへつらう様にお袋の下に来るようになりました……金を貰うために」

「ヒモってことだね……あの男、仕事はしてないのかい?」

「昔はしてましたが…今は知らないです。でも、お袋と一緒に稼いだ金を全部、賭博やらパチンコやらに溶かしやがッた」


 憎々しい相手を思い出して、玄二は顔を険しいものにする。

 以前よりもアイツが現れる頻度が下がった今でも、あの顔と声は思い出してしまう。


『親父になんて口をきくんだ?これは教育が必要だなぁ!』

『なぁ、佳苗。今回で最後だからさ。パチンコで全部スッちまったんだよ。だからさ、すこーしだけ、金貸してくれない?』

『なぁ玄二、諦めろよ。俺はお前の親だぜ?「血」っつー、世の中で一番強い繋がりで結ばれてんだよ。お前は、俺から逃げらんねぇんだよ……一生、な』


 小さい頃、理不尽な理由で殴られたことが何度もあった。佳苗だってそうだろう。

 そのくせ、金が無くなれば猫撫で声で佳苗の温情にすがる。


 許されない。あの男だけは、許してはならない。


「俺が大きくなって、バイトで筋肉をつけてから、あの男は俺のいる時に家に現れなくなッた。俺が怖くなッたンだ。怖がッてアイツが俺達から離れるンなら、俺は何でもする」

「……」

「筋肉だッてつける。その為の努力は惜しまない。金髪とかピアスとかしてヤンキーの姿にだッてなるし、顔だって悪人ヅラになッてやる」


 でも、玄二があの男にとって恐ろしい存在になったところで、玄二がいつでも佳苗の側に居られる訳ではない。もっと、根本的な解決が必要だ。


「あの男から完全に縁を切るために、扶養を抜け出して引越しをする為の金を貯めてる最中なンです。その金さえあれば、あの呪縛からお袋を解き放てる」


 そうすれば、佳苗にヤンキー息子は必要なくなる。

 佳苗は対応力の高い人だ。職場先の人間ともすぐに仲良くなるし、それに美人だ。きっと、新天地でも上手くやっていける。


「お袋は色んなことを抱え込みすぎてしまうタイプです。仕事だって俺に黙って大量に入れるし、クソ親父のことでストレスだって溜まってるはずだ。でも、俺のことを必死に育てようとしてくれる。きっと、体と心は限界に近い。このままじゃ、遅かれ早かれお袋は


 夕焼け空を見上げ、玄二は自信の決意を語る。


「そうなる前に、俺がお袋を救ってやらなきゃいけないンです。俺にとって、お袋の幸せは最優先事項だ」

「玄二君……」

「そンな顔しないで下さいよ。俺がやりたくてやってることです」

「…わかった。私にできることなら何でも言うんだよ。力になってあげるからね」

「…ありがとうございます」


 夕暮れ時。

 アパートの前に人影2つが、ゆらゆらと揺れていて。



 その様子を窺っている人間が三人、電柱の側で身を隠していた。




 ***




 5月27日、11時。化学の授業中。


 バイト疲れでウトウトし始めていた、昼前のこと。


 それは、突然だった。


 廊下から人が走る足音がしたかと思うと、教室の扉がいきなり開いた。


 何事かと、クラス中の人間が扉の方を見る。


 そこにいたのは、例の数学教師。

 いつもは穏やかな表情をしているが、今の顔からそういったものは一切感じ取れない。鬼気迫る、といった様子だ。


 焦りに満ちた彼の目が見据えたのは、玄二の姿。


「笠原君っ!!」


 今までに聞いたことの無かった、老教師の大声。流石に驚き、玄二も含めた生徒全員が椅子から少し飛び上がった。



「え、何―――」





「お母さんが倒れました!先程、病院に搬送されたそうです!」





 ―――血の気が、引く音がした。

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