別れ

 いよいよ、俺がこの町を去る日が訪れた。

 朝陽がカーテンの隙間から差し込んできて、その眩しさから、自然と意識が覚醒した。

 目覚めた時には、隣で寝ていた絃羽の姿はなかった。下に降りても彼女の姿はなく、代わりに作り置きされた朝食がテーブルの上にあった。ベーコンエッグと簡単なサラダとトースト……それは、彼女が初めて俺に作ってくれた朝食と同じメニューだった。

 どこに行ったのか聞くと、美紀子さん曰く、「朝ご飯作ったら外に出て行ったわよ。寂しいんじゃない?」との事だった。

 今夏最後の朝食だというのに、つれないな、と思わないではなかった。ただ、確かに顔を合わせるとしんみりしてしまいそうだったから、絃羽の気持ちもわからないでもなかった。

 美紀子さんの車で送られて、駅まで行く。

 すると、そこには──皆がいた。昨日集まってくれた近所のおっさんおばさん達、美紀子さんにお熱のおっさんに、漁師のじいさん、そして、武史と帆夏。結構な人数だ。


「なんか、今回はユウ兄が帰るのなんて信じられねえな。ずっと一緒に居た気がするしよ」


 武史が鼻を啜らせて言った。

 何でお前が泣きそうになってるんだよ、と思ったが──そういえば、こいつはいつも、俺が帰る時にこうしてベソをかいていた。大人になったと思ったが、子供っぽいところも残っていて、少し安心した。


「あんたはお兄ちゃんとたくさん遊んでたもんねー。あたしなんて、ほとんど遊んでないんだからね?」


 一方、ふくれっ面を作っているのは、帆夏だ。

 確かに、帆夏は部活もあったし、武史の作戦で意図的に遠ざけていたところもあったので、彼女と過ごす時間は少なかった。それだけが今夏の心残りでもあった。


「まあ、帆夏は部活あったしな。今日はいいのか?」

「見送った後いくつもりだよ。今日は遅刻していくって伝えてあるし」

「そっか、悪いな」


 帆夏は首を振って、微笑んだ。


「今年、お兄ちゃんが来てくれて、よかった。絃羽だけじゃなくて……あたしもそう思ってるよ」


 言いながら、帆夏もうっすら目に涙を溜めていた。

 そういえば、俺が帰る前に泣いていたのは、武史だけじゃなくて帆夏もだったな、とこの時思い出した。でも、その涙の意味はただ別れが寂しいだけじゃなくて、未練とか、諦めとか、呪縛からの解放とか、色々あるのだろう。帆夏も帆夏で、自分に素直になれなくて、それは半分自分で自分に掛けてしまった呪いの様なものだった。

 でも、それに対して俺は何も触れられない。触れて良いはずがない。だから、たった一言だけ……色々な想いを込めて、こう言った。


「ありがとう、帆夏。今度はもっと遊ぼうな」


 しっかりと瞳を見据えて伝えると、どんどん彼女の瞳から涙が溢れてきた。


「あ、あたしにとって、お兄ちゃんはお兄ちゃんだけなんだからね! 絃羽にだって……そこだけは絶対に譲らないんだから!」

「おう。帆夏は俺の妹みたいなもんだからな」


 そう言って、彼女の頭を撫でてやる。きっと、これが俺に掛けてやれる彼女への唯一の言葉で。これ以上の言葉は彼女を苦しめるものにしかならない。

 泣いてもらえるほど好いてもらえるって、幸せなんだなと思う。その反面、その気持ちに応えてやれないのが辛くて、申し訳なくて、やるせない。


「次来た時は、うんとイケメンの彼氏紹介してやるんだから……! 後悔しても、知らないんだから!」


 涙声になって、堪えられなくなった彼女は両手で自らの顔を覆った。その傍らでは武史がぐずぐず泣き出している。

 ああ、畜生。目頭が熱くなってきた。そんな風になられたら、俺だって泣きそうになってくるだろうが。こういうしんみりした別れは望んでいなかったのに。


 ──それに……ほんとのところは、こいつらがいてくれた御陰なんだよな。


 絃羽が立ち直れた事、俺がこうして前を向けた事、そのどちらもが俺達二人だけでは出来なかった事だ。

 武史が居てくれて、帆夏が居てくれたからこそ、そして彼らもまた前を向こうと思ってくれたからこそ、俺と絃羽も前を向けた。武史と帆夏には、どれだけ礼を言っても足りない。

 今回は帆夏以外の三人で遊んでいたから、四人では遊べなかった。皆で遊べたらよかったのに。本当は遊びたかったのに。それだけが悔いとして残っている。

 でも、悔いが残るのであれば、それはいつか晴らせば良い。それを達成する為に、俺はまた、この地に戻ってくるのだから。来年の夏は、四人で遊ぼう。そう心の中で誓った。

 二人ともが泣き出して俺も泣きそうになってしまったので、それを隠す為に左右それぞれの腕で武史と帆夏をがしっと抱えてやる。


「ああ……楽しみにしてるよ。あと、お前らあんまり喧嘩すんなよ」


 こくこくと二人が嗚咽を堪えながら頷く。

 絃羽の事を宜しく、とは言わなかった。それはわざわざ俺が言わなくても伝わっているだろうし、彼らがどんな関係を構築するのかは彼らの問題だ。俺がそこまで口を出す事ではない。

 それからも、他のおっさんおばさんじいさんばあさんからも、別れの言葉を送られる。今度会う時はお前の叔父になっているぞ、等と美紀子さんガチ勢のおっさんが言っているが、当の美紀子さんからは笑い飛ばされていた。

 こんなにもたくさんの人に見送られた経験など人生で初めてで、感極まってしまう。

 来る時は独りだった。独りで道を歩いて、独りで家まで行ったのに、帰る時はこんなにも見送りがいるなんて思わなかった。

 俺は、この夏を生き切れただろうか。この町で走り抜けられたのだろうか。

 そう自分に問いかけて、何を言っているんだろうな、と苦笑を浮かべた。

 生き切れたに決まっている。走り抜けられたに決まっている。今あるこの光景は、この夏の証。俺がこの夏を生きた証だ。それは間違いない。

 でも、そこにはこの夏を最も彩った人の姿が欠けていた。


 ──絃羽は、やっぱり来てないのかな……。


 きょろきょろと見回すが、あたりにそれっぽい人はいない。


 ──俺が起きる前に家から出て行ってしまうのだから、待っているはずないよな。


 そう思った時だった。

 一瞬だけ視界の隅に、ふぁさっと天使が翼を広げたような白い何かが見えた。

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