夏が動き出した時

 翌日、少し異変が生じた。

 いつもの様に絃羽いとはを学校まで送り届けて、美紀子みきこさんと帆夏ほのかと共に昼食を居間のテーブルに並べていた時である。

 ガシャン、という自転車を叩きつける音と共に、武史たけしの「くそッ!」という苛立った声が玄関から聞こえてきたのだ。


「どうしたの、武史? 何かあった?」


 ほどなくして居間に現れた武史に、帆夏が訊いた。

 武史の表情は怒りに満ちている。悔し涙さえ浮かべそうなくらいだ。


「くそッ! あいつら、最悪だ! 自分らがレギュラーになれなかったからって!」


 いつもなら昼は部室に置いてきているスポーツバッグを床に叩きつけていた。

 もともと喜怒哀楽がある奴ではあったが、武史がここまで怒っているのは初めて見た。


「まあ……とりあえず、お茶飲んで落ち着きなさい。それから、ちゃんと事情を説明して。怒ってちゃ何もわからないわ」


 美紀子さんが麦茶を入れて、武史に手渡した。

 武史はお茶をひったくるようにして一気に飲み干してから、俺達に事情を話してくれた。

 端的に言うと、野球部の先輩部員の喫煙が校長に見つかり、不祥事扱いとなって部活動の停止処分が下されたらしい。秋の大会も辞退する事になったそうだ。

 レギュラーになれて次から自分達の番、と思っていた武史からすると、寝耳に水も良いところだろう。絃羽を学校まで送ったついでに野球部の練習を眺めていたので、彼がどれだけ必死に野球に熱意を持っていたかも分かっている。真面目に頑張っている奴らが損を見る良い例だ。

 そういえば一番最初に練習を見た時もタバコの臭いがする野球部員とすれ違った。おそらくあいつらが原因だろう。あの時武史に教えてやれば、この不祥事も事前に防げただろうか。


「ああ……野球部でちょっと素行の悪い先輩いたもんね。うちの部でも煙たがられてたなぁ」


 帆夏が溜め息を吐いた。どうやら学校でもワケありの連中だったようだ。

 大体あいつらは、と未だ怒りが収まらない武史に対して、帆夏はちらりと時計を見る。彼女の方はゆっくりもしていられないのだろう。


「とりあえず、あたしは午後練あるからさ……お昼食べない?」

「そうね。お腹にモノを入れたら、少しは怒りも収まるから。怒るのはそれからにしましょ」

「だな。あと、俺もそろそろ腹が鳴りそうなんだ。このシチュエーションで腹をぐぅぐぅ言わすのは避けたい」


 帆夏、美紀子さんに続いて俺がそう言うと、三人が一瞬固まって、同時に噴き出した。


「それなら、ユウ兄に恥かかせる前に昼飯食うか」


 武史が笑って、そのまま俺達は所定の場所について昼食を取った。

 食事が終わった頃には、武史から怒りは消えていた。予想以上に高校生男児は胃袋に従順だ。それを見抜いていた美紀子さんも、さすがだな、と思うのだった。


 ──でも、可哀想だよな。


 食後、帆夏と美紀子さんを見送ってから片付けをしている間、居間でごろんと寝転がる武史を見て思う。

 いつもなら食べ終わってすぐに学校に戻るのに、部活そのものがなくなってしまい、する事がない。唐突に目標を失って、手持無沙汰となっている様子だ。

 今は扇風機の近くでぼんやりと天井を眺めていた。

 空腹が満たされて怒りこそ沈んだけれど、失意の念に苛まれる事には変わりない。いや、むしろ純粋に失意と向き合わなければならない今の方が辛いだろう。

 部活が休止するのも、秋の大会に参加できない事ももう確定事項だ。喫煙を見つけたのが校長というのも運がなかった。野球部顧問の責任問題にも繋がるので、それを覆すのは難しいだろう。

 校長が部活停止と大会辞退を決定した以上、武史や他の野球部員は、諦めるしかないのだ。


「暇そうだな」


 洗い物を終えてから、居間で寝っ転がったままの武史に声を掛けた。「まあなー」と力のない返事が返ってくる。


「家に帰ってもやる事ねえし、今年の夏も秋の目標も、全部なくなっちまった。どうすりゃいいかわかんねえ」


 風鈴の音が薄暗い居間を夏色に彩り、午後の気怠さに拍車を掛けた。

 武史からしてみれば、理不尽極まりないだろう。自分には何の非もないのに、楽しみも目標も奪われてしまったのだから。

 だが、世の中はそんな理不尽で溢れている。自分の帰責の有無とは無関係に、自分の人生を左右されかねない出来事が起こる。それが生じる事そのものには抗えない。自分の予想外のところから、そういった問題は襲い掛かってくるからだ。美紀子さんの旦那さんの死然り、流産然り、絃羽の両親失踪然り、歌耶かやの浮気然り……予測できない事には、対処できない。

 でも、起こってからなら立ち直る方法はある。きっと皆、理不尽さを経験して、その方法を学ぶのだ。


「よし、武史。何かして遊ぶか」


 俺は唐突にそう言った。

 失意と向き合うのが今は辛いなら、それを紛らわすしかない。


「遊ぶって……何すんだよ。昔みたいに鬼ごっこかかくれんぼでもするか?」

「うーん……鬼ごっこは運動部のお前に勝ち目ないし、かくれんぼは二人でやってもつまんないしなぁ」

「おいおい、マジでやるつもりかよ」


 冗談だと思っていたらしい武史が心底呆れた口調で言う。


「マジだよ。何かないか? 動けるやつがいいな」


 俺の提案に対して、武史はごろりと寝返りを打って背を向けた。大きな溜め息を吐いている。


「えー、やだよぉ。今そんな気力ねぇし。つか何もやる気出ねぇ」


 突然の失意に、無気力感に苛まれているのだろう。

 俺だって二十二年間生きている。そういった経験がないわけではないし、気持ちもわかる。でも、そこで腐っていたら、もっと腐ってしまう事になるのも、明らかなのだ。

 何か高校生が釣れそうなもの……ないかな。


「俺が負けたら、ハーゲムダッツのアイス奢ってやるよ。二つ分」

「え、マジ⁉」


 適当に言ってみたら、即食いついてきた。アイスでいいのかよ、お前は。


「マジだ」


 にやりと笑みを浮かべて頷いてやると、彼がすくっと立った。


「もう昔みてーにガキじゃねえから、負けても後悔すんなよ?」

「おう、望むところだ!」


 武史が扱い易い奴で良かった。アイスで合意が得られるとは思っていなかったが、確かにハーゲムダッツって高校生の事に自分の金で買おうとは思わないので、丁度良かったのかもしれない。

 それにしても、さっき食ったばかりだというのに、もう食い物で釣れるのか……さすが食欲旺盛な高校生だ。

 しかし、ハーゲ厶ダッツ二個分は決して安くはない。大丈夫かな、俺。

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