第95話 つながって、つらなって 3
24時間前……モーブレイ。
裏通りの安宿でひとりの女がベッドから起き上がると、裸のまま宿の沐浴場まで行き、大きな樽に張られた冷たい水に迷うことなく足から身を沈める。
「くぅー…つめってぇー」
樽には川から引いた綺麗な水をかけ流しているが、本来ならバスタブのように体を浸すような使い方はしない。してはいけないし、ましてや氷のように冷たい川の清流に身を沈めようなどとは誰も思うわけが無い。
そしてまた、ひたひたと水が垂れるがまま部屋に戻ると、たっぷりと香油を擦り込んで冷え切った肌をいたわった。
「いい眺めだが…」
陽の薄明かりに照らされている美しいエキドナをにやにやと眺めていたのは、まあ当然ながらパーソンズ上級尉官だった。
「ふん、眼福だろう?」
「ああ、だが、こんな時期、こんな時間に水浴びとは…まともじゃあ無いな」
エキドナは小悪ににやりと笑うと、
「気持ちいいぞぉ、心臓がきゅっとなってな。試してみろよ?」
「死ぬからやだ」
「ああーん?オレを抱きたきゃいつ何時でも身も心も共に一片のシミも無くキレイにしておけよっ?じゃなけりゃ蹴り飛ばすぞ?」
「おお、だから俺は毎日共同浴場に行くさ…」
「軟弱ぅー」
エキドナは次々と服を着込みながらパーソンズをせせら笑っている。
「さてと…恥かきついでに、早々と何処かに行っちまいそうなお前を引き留めたいが…」
エキドナは着替える手をふと止める。
「そりゃ、ムリだろ……こんなカップルはそもそも成立しないが、それに今はちょっと忙しくてな」
「そう、か…」
あっさりと引き下がるその姿にエキドナはため息を吐いた。
「おいおい、物分かりがいいのか?覚悟が足りないのか?ホント男前じゃねーなー」
「?」
「そんな時はなー、とにかく抱きしめるとか、意地でも引き留めようとするとか、まあそれで嫌がる相手にしつこくしても、そりゃあ逆効果だけどな?」
止めていた手を上衣にかけた。
「……まあでも、それが正解だよ、オレ達が棲む世界とお前達が住む世界は…違いすぎるからな」
エキドナの目にはベッドに座っているパーソンズと自分の間に、普通の人間には越えることのできない深い谷が口を開けているのが見える。底が見えないほど深く、想像できないほど果てもなく続いている。
互いの顔を見合わせることはできても、互いの声は届かないし、互いの正真に触れ合うことは叶わない……
エキドナの顔にそんな現実が映ると、パーソンズが指を指して言った。
「そうそう、その顔だよ……!」
「あん?」
「お前のその、ひとりぼっちみたいな顔だよ。いや、それを嘆いてるわけじゃ無さそうだし、むしろ自恃を信条に置いているんだろうが…何か放っておけない気がしてな」
「ほおう?」
嬉しそうにエキドナが笑った。
「いや、大先輩に対して敬意が足りないかな?」
「まったくだ、でも情けの押し売りも悪くはないさ、相手によってはさ。ひひっ……」
人を喰ったように笑い声を残してエキドナはまた、消えた。
「勝手な生き物だ……」
パーソンズは引き留めようとしたその手で自分の頭を掻くしかなかった。
宿に戻ると、トリィアは棚に置かれた燭台にヒモを結んで垂らそうとしていた。
「えーと…きゅっきゅきゅー……」
「トリィア、的を吊り下げるならもっと高い所になさいな?」
「え?なぜですか?」
「なぜって…的を外すくらいなら良いけど、大きさを誤ったら自分の首を落としかねないんじゃない?」
「くびっ?」
びくっと両手で首を抑えると結びかけたヒモを思わず落としてしまった。
「い、いえーまさか、いきなりそんなことには…」
「本当?むしろあなたのことだから部屋ごと私達も真っ二つにしそうなんだけど?」
「えー?私がですかー?…………で、出来るでしょうか?」
ウレイアは真顔で頷いてから、笑顔で答えた。
「ええ、出来るわよ。あなたなら……」
トリィアはふるふると身震いしながら、たかぶるやる気を全て味わい尽くしてゴクリと飲み込む。
「よおしっトリィア頑張りますっ!」
「ええ、私も頑張るわ」
(でも、やっぱり苦手なのよね…私は少しやり方を変えないと)
見えないし、感じることもできないモノをイメージする。そんな無茶な課題をトリィアは諦めることなく繰り返し続ける。ぶら下がったヒモを見つめたり、部屋の中をうろうろしたり、ごろごろと寝転がったりしながらも、何度も何度も繰り返す。
その姿をウレイアは満足気に眺めながら、エキドナのことも逃さぬように監視を続けていた。
互いに続けているうちには陽も落ちて、疲れたトリィアは眉間にシワを作ったまま寝落ちしてしまったようだ。
「よく頑張ったわね」
着替えもせずに眠っているトリィアを撫でると、にへらと笑って眉間のシワものびた。
「くす…」
(いっそのこと、このまま何もせずに遠くの地へ移ってしまえば…しばらくは安全に暮らせるかもしれないし、トリィアがもっと強くなる時間を得られるかもしれない。1年、いや2年費やして全てを投げ打てば、国を相手取っても負けないほどの準備もできる。でも…それが精一杯……)
おそらくエルセーを説得することも出来ないし、後ろ盾も無い彼女達が籠城するような戦い方をすれば、いずれは追い詰められる結果になる。だからこそ時間をかけて闇に葬るやり方を好んで選択してきたのだが…
(エルセー、私も同じです。私達の脅威になるなら尚のこと排除せずにはいられない。この子のためにも…)
この夜も苦労は報われず、エキドナを見つけることができなかった。読み間違えたのか、うまくすり抜けられてしまったのか?
(ふぅ…エキドナ……どうやら考えを改める必要があるわね?)
ウレイアは窓から遠くを見た。
「おはようございます、お姉さまー……ああ、すいません」
「んん?なにが?」
目を覚ましたトリィアが体を起こすなり申し訳なさそうな顔をしている。
「一晩中眠ってしまうなんて…」
「随分頑張っていたものね、お腹も空いたんじゃない?」
鼻を一回すんとすすると、毛布を体に巻いてウレイアの隣に座った。
「うーん、そうですねー…お姉様は?」
「少しね、何か食べに行きましょうか?」
トリィアは体を寄せて巻いていた毛布を一緒に巻きつけると、ウレイアにもたれた。
「エキドナさんは来ないのでしょうか?」
「来ると思っていたけれど…もしかしたらもう…上手いこと抜けられちゃったかもね?もう1日待ってもいいけれど、そろそろエルセーも進捗が気になっているんじゃないかしら?」
「それじゃあ、やはりボーデヨールへ?あ、いえ、待ってください……もしかして、身支度をしておいた方が良いですか?」
「ふふふ、エルセーのことが分かってきたみたいね?」
せっかちなエルセーなら多分、今頃は馬車でこちらに向かっているだろう。とりあえず、今日はエキドナを警戒しながらエルセーを待つ。
「早い店ならもう空いているでしょう。もしかしたらその頃にはエルセーも来るかもね」
まずは消費したエネルギーを補充することにした。
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