第87話 追ってくるもの 4

「お姉様、私は…お姉様に会えた13歳だったあの時…大好きだったお父さんと…お、お母さんを……っ刺して、殺してしまったんです」


「っ!」


「もちろん、自分の意思では無いです……強要されました…ある男に……」


 トリィアは硬くなった身体から少しずつ絞り出すように静かに話し続ける。


「あの男は…お父さんとお母さんに言ったんです。『お前達を娘が刺し殺せば…娘は見逃してやる』って。信じられるわけなんか…無いのにっ……それでも、それでもふたりは…」


「トリィア…無理はおやめなさ……」


「私はっ……お母さんにナイフを握らされるのを嫌がって…でも、あの時、本当にほんの少し…自分は殺されるんだと思ったあの時っ、海の水のほんの一滴ほどでしたけど……私はっ迷ったんです…………っ」


「大好きだったのにっ…お父さんもお母さんも愛してくれたのにっ!…あれが……あれが本当の自分だったなんて……っっ!」


 いつまでも彼女達を蝕み続ける記憶…前世と言って良いか分からないが、生まれ変わってまで色あせてくれない恐怖や痛みは、心を深くえぐり続ける抜けない針となって、彼女達に苦痛を与え続けている。


「断言できるわ。それはあなたの心から湧いてきた揺らぎでは無いわ。それは生き物全てが持つ生存本能なのよ?」


 強くつよくっ、ウレイアはトリィアを説き伏せるように強く擁護する。


「本当に……っ?…でも、それでも私は許せませんっ。忘れられませんっ。ふたりを殺してしまったことも…」


 ウレイアはトリィアの肩を強く抱き寄せて、流れ続ける涙が止まるように、手で両目をそっとふさぐように頭を引き寄せる。


「っ…く、お姉様に出会えて、新しい人生に優しく抱かれても、やっぱり忘れることは出来ません。この痛みはずっとずっと、続くのでしょうか…?」


「その痛みは癒されて…薄れてはいくけれど……忘れることも消えることも無いと思うわ……160年生きていてもね」


「癒える…のですか?こんな罪がっ……許されるのですか?」


「ええ。でもこれは……多分自分では癒せなかった。エルセーやあなたの前の弟子達やあなたが、この傷を癒してくれたの、今でもね……………エルセーは怒りと復讐の泥沼から拾い上げて心に刺さった針を抜き、傷から流れる血をぬぐってくれた。2人の弟子も私を誇りと言って、その手で傷を覆ってくれた」


 ウレイアは目をふさいだ手をトリィアの胸に押し当てた。


「そしてあなたは…私を癒してもくれるけれど、なにより前に進む力を与えてくれる」


「前に?私が?……前に進むと、どうなるのですか?」


「過去の歩みは遅いのよ。立ち止まっていると追いつかれてしまうけど、ゆっくりでも進んでいれば、捕われることはないの。そしていつか、追うのに疲れて追ってこなくなる」


「いつか……?」


「そう、いつの間にか遠くとおくに離れている。それでも忘れることは出来ないけれど、前に進んでいるうちに…それよりも大切なことが増えるうちに、たまに古傷が疼いて悲しく思い出すくらいには…なったのかしら………?だからあなたも前に進みなさい、私が傷をおさえておいてあげるから。それにきっとエルセーやセレーネもあなたを癒してくれるはず、いえ、あなたも癒しているはず。誰かを癒せば同じだけ、自分も癒してもらえるはずよ?」


「私は、いまだにお姉様に寄りすがって、癒されてばかり…それでもお姉様を癒せているのですか?」


「私にひざ枕をしてくれた時、どうだった?」


「!、癒されました…それに…嬉しかったっ」


「そういうことよ」


 トリィアが語る以上のことをウレイアから詳しく聞くつもりは無い。どんなに精一杯に語っても、今のトリィアは全てを語ることはできないだろう。


 おそらくトリィアの両親は自分に向けたナイフをトリィアの手と一緒に握りしめて…………


 この子は自分と両親、3人分の痛みと苦しみをその心に刻み込まれ、自分を否定し、恥じて生きてきた。


(その男が今も生きているのかは分からない、でもトリィアが望んでくれるのなら、探して、捕らえて、毎日骨を一本づつ砕いてやるのにっ!)


 ウレイアの胸に復讐の怒りが込み上げた時、うつむいていたトリィアがふっと顔を上げた。


「……ああ、ありがとうお姉様…私の復讐は今果たされました…」


「!、……え?」


 トリィアは全身を預けて黙りこむと、そのまま眠ってしまった。






 やがて空が白み始めると、雨を降らしていた雲も散って消えていた。


「お…お姉様、お、おはようございます」


 ウレイアが湯を沸かしている間にトリィアは目を覚ました。しかし何か遠巻きな態度でもじもじとしている。


「どうしたの?」


「あ、いえ、何か今朝はちょっと……気恥ずかしいような感じで…」


「ん?あなたちょっとこっちにいらっしゃい」


「え?あ、はい…」


 ウレイアはキレイなタオルを取り出して水を含ませると、トリィアの頬に残った涙の跡を顔と一緒に拭いた。


「ん…」


 顔を拭かれながらも、トリィアはじっと上目づかいにウレイアの顔を見ている。


「お姉様?」


「なに?」


「今、癒されてますか?」


「…ええ、とっても」


「へへ、良かった…」


「はあ、でもあれね…ちょっとエルセーの所のお風呂にでもつかりたいわね?」


「はいっ、私も今、同じことを思ってました。ちょっとでは無くかなりっ」


 トリィアを拭いたタオルを自分の顔にあてて考えた。


「今回は屋敷に行くつもりはなかったのだけれど…」


「けれどぉ?」


「ううむ…」


 そんなこともあって、再び動き出した後のペースは自然と昨日よりも速くなった。そしてクリエスを過ぎた辺りで、ウレイア達は教会の神兵とすれ違う。


「いい?お前達はこの岩陰から絶対出ちゃダメよ!」


 通じているのかウレイアには分からないがトリィアは当然のように馬に指示を出している。


「どうですか?お姉様……」


「もう少し先になるかと思ったけれど、意外に早かったわね。全部で8人…テーミスと思われる者はこの中にはいない、か…」


(エキドナか…エキドナを倒した相手への増援だとしたら…あなた、大分侮られているわね、エキドナ?そして彼女が敵なら…私達に対してはこの程度で倒せるとは思わないはず……だとしたら、やはりエキドナは敵では無いのかしら?)


「まあ、これが全てでは無いかもしれないけれど?」


「はい?」


「まだ後から来るかもしれないということ。気を付けて進みましょう」


「やり過ごしても良いのですか?」


「ええ、先に進みましょう」


 その後は他の増援部隊を見かけることは無く、結局テーミスらしき姿も確認することはできなかった。


 そしてウレイア達がその後、真っ先に向かった場所は当然……


「何?……2人ともどうしたのっ急に…?」


 マリエスタ邸である。


「お風呂を借りに来ました」

「お風呂を貸してくださいっ!」


「まあ……っ?!」


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