第16話 帝都ワルシアス
走り続けること、約1日……
エルドライヒ帝国首都ワルシアスにようやくアリッサはたどり着く。そのころには汗や泥で衣服は汚れており、衛生環境はあまり良い状態とは言えなかった。アリッサ単独であって、ここに来るまでに、異常なまでの回数でモンスターとの遭遇戦があり、それらが、消耗の原因の一つにもなっていた。
街道を走ってその影響を受けたため、帝国は一般的な地域安全確保に力を入れていないことは明白であり、そのせいで物流が滞りがちにもなっていた。
だからこそ、先に待機していたルルドの指示を受け、下水道から侵入した後に開かれた街並みで、アリッサは一度口を紡ぐことになってしまう。
視界に飛び込んできたのは明確なスラム街である。乱雑に並んだ建築法などない建物の数々……。整備されていない道路に散乱するゴミと動物の死骸の山……。それらが放つ腐臭と共に、生活しているやせ細った人々……。
確かに、ブリューナス王国にもスラム街は存在し、首都ですら治安が悪化している区画も存在する。しかし、エルドライヒ帝国程ではない。何故ならば、エルドライヒ帝国首都ワルシアスのスラム区画は……あまりにも広すぎるのである。
「お嬢は……こういうところは初めて来ましたか?」
アリッサが困惑していると、事前に帝都での準備を整えてくれていた密偵のルルドが後ろを振り向かないまま尋ねてくる。それに対し、アリッサはルルドともに足を止めないまま、静かに首を横に振った。
「何回かある……でも、こんなに酷い場所ではなかった」
「そうっすか。残念なことに、もう少し歩きますよ……。なんせここ、そういう区画整理をされてますから」
「——————区画整理?」
アリッサは疑問を口にしながらルルドの横に並び立つ。あまり大きな声でしゃべっていては目立ってしまうからである。すると、ルルドはそれに驚くことはなく、一呼吸おいてから話の続きを切り出した。
「そうっすね……。簡単に言えば、このワルシアスは、三つの区画に分かれているんっすよ」
「三つの区画……貧民、平民、貴族……みたいな?」
「まぁ、概ねその通りっす。……で、今、俺たちがいるのがその中の貧民区画っすね。これが、ワルシアスの面積の約50%を占めてます」
「50!? 流石に盛りすぎじゃない?」
「別に盛ってないっすよ……。だって、外壁から目の前に見えるあの一つ目の高い内壁まで……つまり、外周区画すべてが貧民区画なんですから……」
アリッサはルルドが目線で指差した内壁を凝視する。薄汚れた高い内壁は外界からこちらを途絶し、まるで見て見ぬふりをしているようにも見える。つまるところ、政府は、この区画を完全に見捨てている……ということになる。
『どうしてこうなったのか』『なぜこうなってしまったのか』などということを今現在は調べている余裕はないが、近いうちに調べなければならないような予感だけはしていた。
その後のルルドの説明を聞く限り、ワルシアスは3層の構造になっており、外周区画には説明を受けた貧民区画が設けられている。そしてその内側の層には最低限度の生活をこなしている平民の区画が存在していた。
そのさらに向こう側。円状の街の中心に一番近い区画……漆黒を取り囲むように配置された壁の向こう側には、貴族たちが生活する華やかな区画があるらしい。
ただし、アリッサたちに関しては、わざわざそちらで休む目的もないため、内壁の崩れたところから中に入り込み、今は、平民区画の宿を借り受けて一度、肩の荷を下ろした。
窓の外から見える平民区画は先ほどの貧民区画に比べて、世界が変わったように臭いや人々の見た目は良くなり、アリッサがよく知るような街並みに近づいていた。
そんな街の中の宿屋で、アリッサは着替えとシャワーを済ませつつ、疲れを一時的に洗い流した。しかし、動き続けた体には未だに疲労が残っており、あまり良い状態とは言えなかった。
気が付けば、窓の外はすっかり日が落ち、閉め切っていなければ冷たい風が入り込んでしまうため、アリッサは自然な動作で二重窓とカーテンを閉じてしまっていた。
「それで……お嬢……そろそろ、お嬢だけが先に到着した理由……聞かせてもらえるんっすよね?」
「あれ? 言わなかったっけ?」
着替え終わったアリッサがコーヒーを入れつつ、一息をついていると、椅子に足を組んで腰かけたルルドが横暴そうに口笛をふかし始める。
「襲撃を受けて、見事に依頼失敗になったとこまでは聞きました。それなのに、どうしてまだ依頼を続けようとしているのかを言ってないっすよ」
「あー、ごめんごめん……。託されちゃったからさ……姫様のお手紙を——————」
「それに何の意味が……」
「読んでないからわからないよ。でも、手紙っていうのは届けないと意味がないからね。この手で直接届けるところまで行う」
「じゃあ、次の俺の任務はアレっすか? 皇帝陛下に謁見の申し出をすることっすか?」
「そういうこと。できれば、明日でお願いできる?」
「無茶を言う……」
「できないの?」
ルルドは苦笑いで呆れたような態度をしながらも、アリッサの言葉に否定はしなかった。むしろ、次にやるべきことを考えているようにすら思えた。
「できるうる限りのことはやってみるっすよ。まったく、お嬢は従者使いが荒すぎる……」
「あはは、ごめんごめん……」
「————————大丈夫っすか?」
「うん? 何が?」
ルルドの唐突な言葉にアリッサは戸惑い、小首をかしげる。体は疲労こそあるが無事そのものであり、特に問題はない。
「無理してないかって事っすよ。なにかヤバいことでもあったんですか? 今のお嬢の顔は、そういう顔です」
「そーかなぁ……いつもと変わらないと思うんだけど……」
「そうっすか……お嬢がそういうのならいいっすけど……」
ルルドの鋭い視線に、アリッサは苦笑いで誤魔化しつつ、二人の間のしばしの静寂を噛みしめる。ルルドには基本的に嘘は通用しない。それは嘘をつくことが得意ではないアリッサに対してはほぼ確実であり、今回のことも見抜かれている。
それでも、ルルドが追及をしないのは、アリッサがそれを拒否しているからである。
「ごめんね……。少しだけ……休ませてもらえないかな……」
「そうっすか……了解っす。じゃ、俺は別のところに行きますんで————————」
ルルドはため息交じりに、椅子から立ち上がり、わざと退出したことがわかるように音を立てながらドアを閉めて部屋から出ていく。その光景をアリッサはベッドに腰かけながら眺め、しばらくの間放心していた。
そうして、しばらくした後、何かの糸が切れたかのようにそのまま、仰向けにベッドに倒れ込んだ……
大の字に広げた両手だけでなく、体全体が鉛のように重く、動かそうとしてもいうことを聞かない……。走っていた時は体を動かしていたが故に感じなかった感情の波が一気に流れ込む。
そうして、しばらくそのまま固まっていると、アリッサの意識はいつの間にか、深い深い闇の中へと落ちていった。
◆◆◆
翌日……
動き出した朝の街の喧騒により、アリッサは目を覚ます。いつの間にかベッドにきちんと寝ていたことに驚きを隠せずにいたのだが、眠る前よりは頭がすっきりしているように思えた。
しかしながら、胸に突き刺さった棘のようなものは抜けることがなく、未だに痛みを発し続けている。しかし、このままでいてもどうすることもできないため、アリッサは気分を紛らわすために、朝食を済ませた後、街に繰り出すのであった。
街に出て再認識するのは、やはり……技術力の高さであろうか……。ブリューナス王国では、あまり、高層の建物を建築する文化がないのか、住宅街に関して、摩天楼はできていない。しかしながらこちらは、狭い土地を有効活用するために、上に土地を伸ばしている建造物が目立った。
見上げるだけで首が痛くなるような建造物たち……優に10階は超えているため、アリッサの前世の知識で言う高層マンションに近いのだろう。それらが立ち並んでいるため、当然のことながらビル風が酷く、実際の気温よりも余計に寒く感じてしまう。
そんな肌寒さを、自らの荒んだ心と重ねて、吐く白い息と共に街を歩いていたその時だった。
「ひとつ、ふたつ、みっつ……ってわかんねぇよ!! もっとわかりやすく説明しやがれ!!」
朝の街の喧騒すら日にならないほどの大声が響いてくる。アリッサがそのあまりの大声に思わず両耳を塞いで、何があったのかとそちらの方を見てみれば、何やら大柄な男性が、初老の男性に詰め寄っていた。
刺々した赤い髪に、獲物を穿つサメのような鋭い瞳。分厚い防寒着の下からでもわかるほどのしなやかな筋肉からしても、明らかに普通の街の住人でないことは手に取るように分かった。
「だからよぉ。白髪で赤い目をした女のガキの寝床はどこかって聞いてるんだ、わかってんのか!? あぁん!?」
「で、ですから……三つ目の右に曲がった先の突き当りの店で昨日見ただけだと……」
「三つ目って何個目だぁ、ゴラァ!」
「ひぃ……三つめは……みっつめ……みっつめなのでは?」
「わかんねぇこと抜かしてんじゃァねぇぞ!!」
アリッサは何を言わずとも、その男の言葉を聞いて、脳内で一瞬のうちに理解した。この男は『バカ』であると……
「もういいぜ! 情報だけありがたく受け取っておくぜ!! 爺さん!!」
戸惑う住人に痺れを切らしたのか、そのバカの男性は住人の手の中に何やらお金らしきものを握らせて、その場から堂々と立ち去ろうとする。しかし、その立ち去ろうとしている方角は、住人に指示された方と逆方向であった……
「————————って、ぇぇ……逆方向に行くのか……」
「おい! テメェ、今なんつった?」
「あ、やば————————」
アリッサは体が反射的に行ってしまった言葉に思わず口を紡ぎつつ、何事もなかったかのように背を向けて立ち去ろうとした。
しかし、瞬きの間に、鼻と鼻が触れるか否かという距離まで詰められ、アリッサは驚きのあまり、数歩よろめいてしまう。
「何逃げようとしてんだ、ゴラァ」
「に、ニゲテナイデスヨ」
「嘘つくのがへたくそかテメェは!」
「方向音痴なあなたに言われたくないですー」
「誰が方向音痴だゴラァ! 家になら普通に帰れるわ!」
「さっきから大声でベラベラベラと……うるさすぎるにもほどがある……。というか、初対面の人間に対して失礼過ぎるし、あなたのパーソナルスペースどうなってるのかって聞きたいんですけど……」
「ぱ……難しい言葉使うんじゃねぇ!!」
喚くような大声に耳を塞ぎながらアリッサが受け答えしていると、大柄な男は、激昂しながらも、自らの懐から紋章のようなものを取り出し、アリッサに見せびらかして来る。アリッサはそれが何だかわからず当然、首を傾げた。
「こちとら、帝国軍特殊部隊のアガネリウス少佐じゃい。テメーこそ、失礼じゃあねぇのか?」
「ごめん、話が急に飛んでわけわかんない。頭の中で勝手に流れを飛ばさないでくれるかな」
「テメェが誰だかわからねぇって言ったから名乗ったんだろうがよぉ! 名乗ったのにテメェが名乗らないとかどんな教育受け取るんだぁぁん?」
「いや、私は軍役してないし……名乗る義務ないし……逮捕しますか?」
「する分けねぇだろ!!悪くない人間に手を出すわきゃねぇだろ!」
「あ、そうですか。じゃあ私は行きますね」
アリッサは会話の成り立たなさに四苦八苦しながらも、なんとか無視し、アガネリウスと名乗った帝国兵をかわすように歩き始める。しかし、まるで獲物を捕らえた水中生物の如く、アガネリウスはアリッサの後を付きまとい、後ろで騒ぐことを止めようとはしない。
「おいゴラァ、待てゴラァ!!」
「なんです。ストーカーとして通報しますよ」
「やめろゴラァ! おま、おま……そういうことしたらダメだって教わらなかったのかよ!!」
「なら、ついてこないでもらえます?」
アリッサはアガネリウスから逃げるように街角を曲がり、さらに早足で歩きだす。しかし、それに負けじと、アガネリウスも歩調を合わせてしつこく食い下がってきた。
「オレ様はただ、道を教えてもらいたいんだけなんだがよぉ。たのむぜぇ……」
「それは私じゃなくても良くないですか?」
「そりゃダメだ。だってよぉ……」
「だって……なんです?」
刹那————————
アリッサの背中に嫌な汗が伝ったと同時に、アガネリウスは右こぶしをアリッサに向けて振り下ろしていた。アリッサは、冷静に対処し、振り向きながら、その拳を左手の平で受け止め、同時に、両足で踏みとどまるように地面を蹴り飛ばした。
直後、拳により圧縮された空気がT字造られた住宅街の交差点に駆け抜け、周辺全ての建物の窓ガラスを揺らし、ビリビリという音を奏でた。踏みしめたアリッサの足元のレンガは当然のことながらめくれ上がり、土の一部が露わになっている。
そんな状況を作り出したアガネリウスは、自らの拳を受け止めたアリッサを見て、まるで動物のように笑い、尖った歯を輝かせた。
「だってよぉ……お前……普通の人間じゃァねぇじゃぁねぇか……」
アガネリウスは楽しそうに鼻歌を歌いながらアリッサを見下ろし、そう言い放った——————
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