第12話
三條が出社しなくなって一週間が経った。
(…やっと来たか。)
その日、牟田は事務所のドアノブに手をかけたまま、ニヤケが止まらない口元を左手で押さえた。
事務所の鍵が、開いていたのだ。
喜び勇んでドアを開けたと悟れないように、そっと深呼吸を繰り返し、牟田は表情を殺してドアノブを回した。
ゆっくりと、室内が露となっていく。
「………」
「………」
そして事務所の中、三條のデスクで頬杖をついてこちらを見ている白銀の長い髪をした女と目が合った。
おそらくハーフと思われるその女は牟田にニッコリと微笑みかけた。そのまま徐に立ち上がり、ピンヒールを響かせ牟田に近づく。
ヒール分もあってか背がとても高く、牟田の正面に来たとき、牟田の目線がほんの少し上がった。
「………」
近くで見る女は
その口がゆっくりと開く。
「はじめまして。牟田暁雅さん。」
「……どうも。」
女は、牟田の名前を知っていた。
事務所を突き止めて不法侵入してくるくらいだ。驚くことでもない。だがやはり、薄気味悪さに顔がニヤつく。
女は一瞬緑がかった目を丸めた。
「まあ。見ず知らずの私があなたの名を知っていたとしても、驚きもせずに嬉しそうに笑うというのは、どういう了見ですか?」
「え?海に釣糸垂らして魚が食いついたら、人は喜ぶもんなんじゃないのか?」
「…あなたは、それが鮫だとわかっていても、釣糸を垂らしたというのですか?」
「ははっ、」
牟田は堪えきれずに声を出して笑った。
「こんなしがない町の相談所さえも敵視してくれるなんてのは、ありがたいと思うべきか。しかし、権力も権威もありながら、炉端の石で転ぶかも知れねぇから蹴り飛ばしに来るとか、…過保護だねぇ。」
刹那牟田は顔に張り付いていた笑みを消し去り、
「火種ほどの小さい火でも確かに『火』は点いたんだ。なら、…なかなか消せないかもしれなくないかい?」
黒く細い目をいっそう細めた。
途端に女は蠱惑的な笑みを浮かべる。
「火種を消すのがそもそも私の仕事です。とはいえ、先に土足で他人の領内に踏み込んでおいて、自身の正義のみを主張なさるのは些か愚の骨頂ですが、まあ、いいでしょう。」
そして白く細長い指を、牟田のヨレヨレのスーツの上から心臓めがけて指差す。
「あなたのおっしゃられる通り、私たちにとって、転びはしないにしても歩行の邪魔だから蹴り飛ばそうとしている炉端の石が、例え噛みつこうとしているミドリガメだったとして、蹴り飛ばすことには変わりありません。」
「うわぁ、ちょっと美女には蹴られてみたい気もするが、今時これも、コンプライアンスとか女性蔑視に繋がるのかなぁ?」
声音のみおどける牟田は表情のないまま女の腕を強く払いのけた。
「助けを求められたら助けるってのが、何でも相談所の基本スタイルなんでね。俺は俺の流儀を通させてもらうよ。」
「あはははは、」
すると女はたまらず身を屈めて声を立て、笑い出した。
「勝機もないのに我々に挑むのですか?それってもしかして努力と根性論ですか?なんと愚かで前時代的な中年男性特有の思考!あなたの周りだけ、時が進んでらっしゃらないのかしら?」
「…まあ、そうかもね。」
それはさすがに牟田も認めるところらしく、薄く微笑む。そのまま牟田は言葉を紡いだ。
「釣り上げた魚が鮫だろうとも腹が減りゃ食うさ。…助けを求められた以上は、相手が組織だったとしても、俺は挑むし依頼人を救う。」
「まあ男らしい、と言っておきましょうか。あなたの時代に合わせて。」
「美辞麗句を並べ立てないと、ほら、ビビってるのがバレるだろ?」
「身の丈をご存じだからビビるのでしょう?それは立派な防衛本能です。従うのが道理だと思いますが?」
「煽られたら噛みつきたくなるのがミドリガメの闘争本能なんじゃねぇのかな?それが勝るんだからどうしようもないなぁ。…だからさぁ、おねえさん、この案件から手を引いてくれない?」
「それはこちらの台詞でしょうにっ」
牟田の言葉に、女は可笑しそうに目尻から流れる生理的な涙を拭う。そして嘲の混じったままの声で、笑いながら言った。
「そうですね。まあ手を引くのは無理ですけど。あなたこそ蹴り飛ばされてしまう前に手を引かないと、少々面倒なことに巻き込まれますよ?」
「いやぁ、無理かなぁ。君らから守りたい人がねぇ、ちょっと多すぎてさ、引くに引けないんだよねぇ。」
「まあ。本当に、清々しいほどの身の程知らずですね。」
「それはどうも。」
そして牟田は女を真っ直ぐに見据えたまま、背後の事務所のドアを後ろ手にゆっくりと開け放ち、
「じゃあそろそろお引き取り願おうか。お陰で目的がはっきりしたし、もう君には用はないからさ。」
口角のみをもたげて微笑んだ。
女はゆったり微笑み返し、一歩足を踏み出した。
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