第88話・巴御前の采配。
曽根弾正
山中様が紀伊田辺方面に兵を出すのに同行が叶った。そちらに勢力があるのは、千ほどの兵を持つ山本氏と二千の兵と広い田辺湾を抑える目良(めら)氏、南には千の兵と以前には熊野水軍を抑えていた安宅氏がいる。
こちらにいる山中の部隊は五百、それに山中様の護衛隊二百がいる。皆鍛え抜かれた精兵で、特に護衛隊の実力は抜きん出ている。
そのうち出撃したのは三百と護衛隊の二百で、護衛隊はすべて騎馬だ。民兵を入れて二千近くなる山本に対して、二百を遊軍としてこちらに残す余裕があるのだ。全軍を動かさないのは、籠城させて戦を長引かせたくないためだ。
この遠征軍の指揮をするのは、なんと山中様の奥方様だ。
皆が巴御前様と呼ぶ奥方様は木津二万石の女城主で、実践調練でも見事に隊を指揮して武術稽古では敵う者がいない程の女武芸者なのだ。
お二人のなれ初めは、少数で進軍して来た山中様に単騎で挑み、敗れて妻になったのだと聞いた。
ふっふふ、なにやら氏虎殿と似ておるな。
いやはや、山中様の話を聞けば聞くほどとんでもない事が出てくる。氏虎殿も相当の変わり者だと思っていたが、山中様の比では無い、世の中とは広いものだな。
「妾は騎馬隊で先行する。残りは荷駄隊と一緒に来て。急ぐ必要は無いわ」
と朝霧のなか、騎馬隊は進発した。案内は街道普請で道を良く知った兵だ。某は話し相手として奥方様の傍にいる。精強な護衛隊の中で、さらに保豊殿とその配下の者が周囲を固めている。
「何故、御大将が先行するのでしょうか?」
「弾正、何故だか考えてみて」
もし待ち伏せなど敵の罠が施されていたのなら先行する者は危険だ。そこを大将自ら敢えて危険を冒して先行する意味が解らぬ。
「曽根殿、危険は御座らぬのです。この辺りに滞在していた兵が街道の安全を確かめているのです」
「保豊殿、たとえそうであっても・・」
「弾正、感覚で動く氏虎と違って山本はしごく慎重な性質らしいぞえ」
「慎重な性質?」
「周囲の国人衆の勢力や戦の進め方から敵将の性格や考え方・好みや家臣の顔ぶれなど細かく調べて、攻略の仕方を考えるらしいのです」
「山中様の事も調べていると?」
「いいえ、大和の者と戦うなど想像外でわが家の事は何も知らぬらしいのです」
「それが、今回の事に繋がりますので?」
「曽根殿、山本の身になって考えてみられよ」
「・・・そうか、敵の動揺を誘うためか」
前も見えない霧の中、敵隊が来た。、それは前知識のない山中の隊と将だ。それも女の武将の率いる騎馬隊が危険な先頭で突出して来たのだ。
情報を集めて何事も慎重に考えて行動する山本だが、今回はこれだけで山中隊を判断するしか無い。
おそらく山本には、奥方様の動きは考え無しの不心得者とうつるだろう。組易い敵とみて侮るに違いない。
それこそが、付け目なのだろう。
「止まれ!!」
先頭を行く者が鋭い声を発した。某はそれで我に帰った。と同時に背中に冷たい汗が流れた。戦場に向かっている我らは敵襲をいつ受けてもおかしく無い、考え事などしていれば命に関わる状況なのだ。
「何者だ、姿を見せよ!!」
誰何の声に霧中から数人の男らが出て来た。皆日焼けした顔に粗末な衣、付近の農民と思われる。
「ここらの村人か、我らはその方らの領主に敵対する大和山中の部隊だ。だが村や村人には手を出さぬ。安心して良いぞ、それにお城に注進しても構わぬぞ」
と、諭すように言う。山中隊は領民に乱暴はしない。敵軍の民兵を殺さぬように気を使う隊なのだ。事実、尾鷲ではそのように動いたお蔭で戦後の民心の掌握も驚く程早く進んだのだ。
「山中様、お願えです。城にいるおらの女房らを助けて下され!!」
村人は去らずにその場で土下座をして言い募った。
「心配するな。我らは戦に勝っても、城にいる者達を殺しはせぬぞ」
「そっでは無えです。山中様の事は心配してねえです、十津川で多くの民を命懸けでお助け下さったのは伝え聞いてますだ。だっども城の侍らが・・・」
「城の侍がどうしたな?」
「戦に負けた城の侍どもが、女房らを無事帰すわけねえで。だっども、わしらには何ともしようがねえ・・」
「その方、名は何という?」と、お方様が聞く。
「へえ、上地村の吾作で」「おら下地村の佐吉で」「わしは中地村の権佐衛門で」
と、村人が次々と名乗る。いずれも近くの村の者だ。
「水田、話を聞いてあげなさい」
お方様が命じて、村人の元に将が行ってしっかりと話を聞いて報告した。
それによると、
山本という男は自分勝手な暴君だ。領主とその側近の者は、領民や家臣の気に入った女房がいると強引に召し出して慰み者にする。
領主の龍松山城、田上某の小郷城、熊代某の岩田城にはそんな女衆が捕えられて飽きたら家臣に下げ与えるか売られる運命だ。戦に負けてやけなった侍らが女房をどうするか不安だ。女房らを殺して逃げるか、城に火をかけ自死するかも知れない。彼らから女房らを助けて欲しいと。
話を聞いた奥方様が唇を噛んだのが分かった。相当に怒っているようだ。
「保豊、三城に兵を。徒隊から適当な者を連れて行きなさい!」
「はっ」
保豊殿が周囲の者に何事か告げる。その者は素早く背後に消えた。
「妾も人の女房です。山本らの所業は許せませぬ。其方らの望みどおり、女たちを救いに三城に兵を向かわせました。その代わりに其方らにも働いて貰いたい」
「へえ、わしらに出来る事であれば、何なりと」
「待ち受ける敵軍の前衛には多くの民兵が配置されている。まずは民兵を前線に出して、我らの数を減らすつもりでしょう。民兵の中には其方らの村の者らがいる筈。彼らと密かに繋ぎを付けて、我らとぶつかる直前に武器を置いて背後に逃げよと伝えなさい」
「へえ、だっども、それは・・・」
敵前逃亡は重罪である。後で見つけ出されて首を刎ねられるのは間違いが無い。家族も同じ運命をたどるかも知れぬ。村人らが尻ごむのも分かる。
「言っておきます。山中は五十万石を越える国主です。すぐに百万石になるでしょう。山本などという小勢など問題にはなりませぬ。我らは必ず勝ちます、それは間違いが無いことです」
「ひゃ、百万石・・・分かりました必ず伝えます」
百万石か、実に想像も出来ない大きな話だ。だが、奥方様はいたって本気だ。それを聞いている周囲の者にも動揺は無い。
実際、山中様の石高はどのくらいなのか、兵はどのくらいいる?
ま・まさか真に百万石に届くのか・・・
それから足元しか見えない霧の中を部隊は驚くべき速さで進み、半刻ほど過ぎたところで霧の中から人が出て来た。
「この先の平原に敵が布陣しております。前方に待ち伏せる敵は五百、背後の山に五百と左岸の山に五百。背後の山に敵将の山本がおります」
「隊を停めなさい。ここで徒隊を待つ、円陣を作りなさい」
「停止。花の陣に!」
騎馬隊が我らを中心にして円形に並んだ。この陣形は奥方様が考えられて、山中様が名を付けた花の陣というものだ。上から見ると桜の花の形に似ている。
山上からこれを眺めれば、奥方様の色鮮やかな朱色の鎧を中心とした花が咲いたように見えるであろう。
「徒隊、前に!」
徒隊が到着したのは半刻ほど後だ。花の陣を守る様に前方左右に斜めに布陣する。半数の百五十名程が三城に向かったようで、二列のところが一列に半減している。
だが兵にはいささかも動揺は無い。
「馬を降りて皆楽な姿勢で待ちなさい」
「下馬せよ、戦いに備えて休め!」
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