第36話 わたしの妻
「かわいいでしょう。あなたがいない間に、いろいろ楽しんでいたの」
「わたしの妻で遊ぶな」
睨み付ける
「わたしの、妻……」
慶一郎の言葉を、
「お前はわたしの妻だろう。違うのか」
冷淡に言われ、志乃は慌てて頷く。
アメリアは呆れて肩を竦めた。
「その言い方。もう少し優しい言い方はできないのかしら」
「あの、
おそるおそる尋ねると、慶一郎はにやりと笑った。
「我が家の化け物屋敷を甘く見るな。……まあ、だが意外に頑張ったほうだ」
慶一郎が語り、そして、後に噂されたことによると。
志乃が家を出た途端、怪異は始まったのだという。
地震かと思うような揺れが頻繁に続き、廊下では突如手鞠が跳ね、二階からは、人が居ないというのに誰かが歩き回る音がする。
厨房でお茶の準備をしようとしたら、ヤカンに入れた水がすべて真っ赤に染まり、盆の上には突如、大きな甲虫がぼとり、と落ちた。
三十分どころか、十分おきに、屋敷の至るところから悲鳴が上がり、次第に、誰もが居間に集まった。
家事や料理どころではない。
この屋敷にはなにかいる。
それが、自分たちを取り囲んでいる。
女中と下男、それに郁代がひとかたまりになって、がたがたと震える始末。
そこに、天井からどすんどすん、と跳ね回るような音が聞こえ、いきなり紙風船が多数降ってきたあたりで、彼らは一斉に恐慌状態に陥った。
仕方なく、慶一郎が雪宮の家に使いを出し、車夫や馬車、挙げ句の果てには人力車に乗った医者がやって来て、郁代達の一団は帰っていったのだという。
「なんてこと。慶一郎の家はヘルハウスだったのねぇ。一度もそんな目にあったことはないわ」
愉快げにアメリアは言うが、メイド達は一斉に十字を切った。
「あんな目にあったら、もう二度と嫁に来るとは言わないだろう」
慶一郎が、はは、と冷淡に笑い、志乃はほっと息をついたものの、はたと気づく。
「では、夕飯どころか、お昼ご飯もまだ召し上がっておられないのでは? 急いで帰らなければ」
志乃はおろおろと視線を走らせる。自分の着物はいったい、どこに行ったのだ。着替えなくては。
「お祖母様のご飯については、出前を取ったから心配するな」
「まあ。では、夕ご飯の準備を……」
「だったら、おばあさまをこちらにご招待しましょうよ。みんな一緒に食べましょう」
アメリアが手を合わせて華やいだ声を上げるが、慶一郎はきっぱりと首を横に振った。
「いや、帰る。もう、ゆっくりしたい」
「あら、そう。残念」
「夕飯も、寿司屋に頼んである。志乃も、帰ったらゆっくりすればいい」
「……そう、ですか」
ほ、と胸をなで下ろし、それから頬が緩んだ。
帰れるのだ。
あの、家に。
志乃が慶一郎たちと暮らす家に。
「では、帰りましょう」
言ってから、あらためて気づく。
着替えてからの方が良いだろうか。
「「あの」」
志乃と慶一郎の声が重なる。
着替えて帰るので、お時間をいただきたいのですが、と申し出ようとした志乃は、きょとん、と慶一郎を見上げた。
彼もさっき、「あの」と言った。
一体、何を言おうとしたのだろう。
「帰る前に、その……」
慶一郎はちらりとアメリアやメイド達に視線を走らせた。
その顔は、非常に気まずそうだ。
なんだろう、と彼女たちも、訝しげに彼を見遣る。
特に、メイド達など、慶一郎がいきなり母国語に切り替えたものだから、戸惑っていた。意味が分からないのだ。
そんな中、慶一郎は、意を決したように、志乃に向かって話し始めた。
「正直、仕事にかまけて、結納だの、祝言だのをすっぽぬかしたことは、こちらの落ち度だ。そのことで、今回のように傷つけたり、迷惑をかけたことは、申し訳ない」
なんのことだろう、と志乃は目を瞬かせた。その後ろで、アメリアが小声でメイド達に通訳をしている声がする。
「志乃」
「はい」
にっこり笑って返事をすると、慶一郎はいきなり自分の前で片膝をついた。
驚く志乃に向かって、背広のポケットから、小箱を取り出し、開く。
「改めてお願いしたい。わたしと、結婚してくれるだろうか」
鳶色の瞳がまっすぐに自分に向けられている。
息をするのも忘れて、志乃は慶一郎を見つめた。
突如、悲鳴が上がる。
ひぃ、と肩を震わせると、アメリアとメイド達だ。
「イエスよ! イエス! 志乃、イエスって言いなさいっ」
「志乃様、お返事なさって!」「なんてこと! なんてこと! 早く、イエスとおっしゃって!」
「なんで、お前等が先に言うんだっ」
慶一郎が一喝するが、志乃はそんな彼に、勢いよく抱きついた。
「うおっ!」
跪いたままの姿勢で志乃を受け止め、仰向けに転倒する。
「はい!」
志乃は慶一郎の胸に額をこすりつけ、何度も何度も「はい」を言い続ける。
「そうか。よかった」
慶一郎が愉快に気に笑う。
「では、帰るとするか、愛しきヘルハウスに」
床に転がったまま、志乃の背中をぽんぽんと撫でた。
室内では、アメリアとメイド達が、まだ、きゃあきゃあと騒いでいた。
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