第190話 20-5 講道館鏡開き(1)

 1月9日は、講道館に行くために武蔵境5時9分発の電車に乗って市ヶ谷まで、市ヶ谷で地下鉄南北線に乗り換えて後楽園駅へ。

 後楽園駅から2分ほどで講道館に到着できます。


 招請状には午前9時40分までにおいで下さいとあったが、道着に着替えをするために、早めに到着することを柔道部部長の榊義信と語らっており、寒稽古に柔道部員を参加させていただきたいということと、優奈も拝見したいと事務局に連絡すると了解が得られたのでした。


 一応出発の時間を知らせておいたので、武蔵境からむくつけき柔道部の学生三人と一緒に電車に乗ったのでした。

 日曜とあって未だ暗い早朝の電車は空いています。


 そんな中でも太目の少し大きなお兄さん3人が優奈のすぐ傍についていると良い虫よけにはなりました。

 武道館に到着して事務局に挨拶し、そのまま更衣室を借りて道着に着替えることにしました。


 柔道部員は柔道着に着替え、優奈はいつもの薄い桑の実色の胴着と袴に着替えたのです。

 足元はレディス用の雪駄にしています。


 運動靴と衣装は、スポーツバッグに入れて事務局に預かってもらいました。

 その上で事務局員が案内してくれて道場へ向かったのです。


 未だ外は暗いというのに結構な数の男女が稽古を始めていました。

 一緒に来た榊義信達三人は柔軟運動をし、受け身から稽古を始めていた。


 周りの熱気に押されて三人のテンションも随分と高そうです。

 そんな榊達を横目に見ながら、優奈は黙々と柔軟体操を行い、十分に身体が温まると道場の片隅に正座してほとんど身じろぎもしないでいるのです。


 そんな優奈の姿を二階席の見所からじっと見ている男が居ました。

 第五代館長の上村春樹であった。


 暖房の無い真冬の道場は酷く寒いのだが、柔軟運動とストレッチを30分ほどもした後は全く動かない優奈を上村はある意味で畏怖の目で見ていた。

 彼女の正座している場所は畳の上ではなく板の間である。


 その上に正座したなら今の若者は30分も持たないだろう。

 しかしながら、時間をおいて見に来てもその姿勢は全く揺らいでいなかった。


 講道館柔道は他流派との私闘を禁じているが、交流を禁じているわけではない。

 但し、現在ではほとんど交流が無くなっているのが現実である。


 講道館柔道が席巻してしまったのが最大の理由だが、逆に講道館柔道が他の流派を下に見る風潮があるのも否めない事実である。

 柔道は、ボクシングや空手と異なり、組まずに相手を倒し、制圧することはできない。


 その意味で規則に縛られた安易なスポーツに代わってしまっているので他との交流も無いのだ。

 勝手に決めたルールで交流を求めても相手が嫌がるだけなのだ。


 だが、優奈の姿勢は違う様だ。

 本当の意味で必殺技を持ち合わせているにも関わらず他流派との演武では相手の土俵に立って安全な技をかけているのだ。


 上村も警視庁の公安局長から話を聞いており、優奈がアサシンと呼ばれる刺客との死闘で相手を一撃のもとに打倒して殺害したことを知っている。

 しかも相手は毒刃のナイフを両手に持ち、暗闇の中に潜んで待ち受けており、ほとんど目には見えない特殊な衣装で全身を覆っていたという。


 その死闘の模様は科警研でも分析して、電子的な3D映像で再現されているが、凄まじい動きであったそうだ。

 公安局長曰く、人があれほどの速さでしかも精緻に動くのを初めて知ったよと言っていた。


 上村もその映像を見たかったが、生憎と極秘扱いで警察でも見られるのは極々限られるのだという。

 何れにしろ、寒稽古は7時から9時半まで続けられ、その後鏡開きの式典と模範演技が予定されている。


 それが終わると道場一杯に広がって、汁粉を食べるのが仕来りである。

 本来であれば11日に行うのが望ましいのだが、講道館の場合は戦後に決めた1月7日以降の第二日曜日に鏡開きを開催することを伝統としているのだ。


 そのための早朝稽古であるが、わざわざ来てもらっても練習もできないのは同情を禁じ得ない。

 まぁ、柔道着ならばともかく異彩の放つ道着と袴では門下生で手合わせを求める者は居ないだろう。


 そうして9時半前に人をやって迎えに行かせたのだが、やはり優奈はその道場の片隅で正座したままじっとしていたようだ。

 優奈は館長室に案内されていた。


 優奈が入室の際にすっとお辞儀をしてはいって来た。

 上村は、ソファの脇で立って待っていたのである。


「お初にお目にかかりますな。講道館館長をしています上村春樹と申します。

 この度は急なお知らせにもかかわらず、招きに応じて早朝から来ていただき誠にありがとうございました。

 心よりお礼を申し上げます。」


「加山優奈でございます。

 こちらこそ柔道部員までご招待いただき、誠にありがとう存じます。

 久しぶりに熱気の籠った稽古を拝見いたしました。」


「加山さんは、朝7時前にその姿で道場に入られ、柔軟体操をした後はずっと道場の板の間に正座し、稽古をご覧になっていたとか。

 暦の上では春とは申せ、未だ厳寒の時期、寒くはございませんでしたか?」


「一旦、身体を温めてしまうと後はどうにでもなります。

 気を巡らせれば身体を動かさずとも温めることも可能となります。

 ですから寒くはございませんでした。」


「ふむ、心頭滅却すればというわけではなさそうな感じですが、ある意味そこに通じるものですかな?」


「快川和尚の言葉では己をなくすことに意味がありますが、先ほど申し上げたのは逆に己の存在を高めることにあると言ってもいいと思われます。

 ただのやせ我慢だけでは困りますけれど・・・。」


 優奈に言われたことの意味が良く分からなかったが、漠然と達人の域に達するとそのようなこともできるのかもしれない思うことにした。

 その上村はにこやかな顔で優奈を見て言った。


「ところで、なぜ、その出で立ちに変えられましたかな?

 稽古をなさらぬのであれば、道着に着替える必要はなかったように思いますが。」


「もし不味ければ洋装に変えて参ります。

 生憎と和服は持ってきておりません。

 それに道場での鏡開きには道着が一番自然かと。

 但し、私は講道館の門下生にはあらず、止むを得ず、私の持つ唯一の胴着にいたしました。」


 上村は破顔しながらいった。


「うん、それで結構なのです。

 客人の服装に何ら制限はございません。

 噂に違わず容姿端麗なお嬢さんだが、心も綺麗な方なのですね。

 それでこそ、講道館の鏡開きにお招きするに足る人物です。

 もう少しお待ちいただけましょうか。

 私も別室で着替えねばなりませんでな。

 その後で道場へ案内いたしましょう。」


 5分後、優奈達は館長に案内されながら道場に向かっていた・

 道場に入る手前の靴箱の前で、館長はスリッパを、優奈は雪駄を脱いだ。


 館長はスリッパをそのまま入り口の棚に置いたが、優奈は雪駄を手に取って懐に入れた。


「ほう、鬼一楊心流では履き物を懐に入れるようにしておりますか?」


「戦場に身を置くものの常として、いつでも逃げることのできる準備をしておくことは必要だったようです。

 古い文献には、かつて、道場がある折はそのように教えていたとか。

 私もその真似をしているだけですが、万が一の場合は雪駄も相応の武具として役立ちますし、帰る際に下駄箱に殺到する混雑を避けることもできましょう。

 至極合理的な考えなので道場に出入りさせていただく場合には、私も真似をしています。」


「なるほど、戦場で生まれた武術故常に万が一を考えているわけですか・・・。

 しかし、あなたほどの力量を持つならば、どのような相手にも対応できるのではないのですか?」


「トンでもございません。未だ若輩者にございます。

 敵意のあるものならばともかく、邪気の無い子供たちにはよく背後を突かれてお尻を叩かれたりもしますよ。

 未だ周囲の警戒がまともにできない未熟者の証拠です。」


 入り口でそんなことを語らいながら中に入ると、先ほどまで大勢の者が稽古をしていた道場に大勢の人が整列していた。

 防寒具をまとって私服でいる人たちは招待客のようである。


 館長は道場に一歩踏み出すと、神棚の置いてある方向に一礼するとそのまま中央に向かう。

 優奈も同じく一礼したが、館長の後に続くべきか否かを迷う。


 果たして直ぐに係の者がやって来て、こちらへどうぞと案内をする。

 案内に従って行くと、折畳椅子が5つほど並べられている場所で、演壇の背後に当たる場所であった。


 三人の先客が立っており、優奈も一礼をしてその列に加わった。

 間もなく鏡開きの式典が始まった。


 式次第は道場の入り口に墨書されていた。

 最初に館長の年頭挨拶があり、次いで来賓代表の挨拶がある。


 幸いにして優奈ではなく、警察庁次長であったのである意味ほっとしていた。

 一方でそんなお歴々と一緒で構わないのかという意識もある。


 挨拶が終わると整列していた集団がばらけて優奈から見て左右及び奥の方に広がり、中央の空いた場所で、模範演技が行われる。

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