第15話 3-4 インハイ地区予選二日目(2)
七種競技最後の種目は、トラック競技で800mを残すのみ。
1515からの競技開始でしたけれど、午後2時ごろになってそれまでほぼ無風であった競技場に少し風が出てきました。
800mは、400mトラックの周回なので風による記録の非公認はないのですけれど、風が強く吹けば走りにくいのは間違いありません。
昨日と同様、この800mの後に男子八種競技の1500mがあって、地区予選が終了するのです。
その後は表彰式の予定です。
しかしながら、実のところ、優奈が400mの周回トラックで800mを走るのは初めてなのです。
これまでは神城高の変形グランドで概ね800mと思われる距離を走るか、王子スポーツ公園補助競技場の200m周回コースを4周していただけなのです。
距離はともかく、何となく全体像がつかめていないというのが優奈の感想と実情でした。
800mを全力で走りとおすのは多分難しいのです。
従って、ペース配分を考えなければならないのだけれど、競技場の狭い処と広く開放的な処では受ける感覚が違い過ぎて、どうしても配分にむらが生じるのです。
普段から1.5倍の距離で練習しているので走り切れないということは無いだろうけれど、今の状態ではベストタイムはまだ望めないだろうと思っている優奈でした。
これも経験が必要だなぁと優奈は考えているのです。
周囲の過大な期待を担いつつも、その時間がやってきました。
アナウンスのウグイス嬢は待ってましたとばかりにハイテンションになります。
「お待ちかねぇーっ。優奈ちゃんの七種競技最後の種目800mです。
七種競技の世界記録は既に更新していますが、これをどこまで伸ばしてくれるかです。
大いに期待しましょう。
それでは選手紹介です。
1コースを空けて、2コースから。
2コース、ゼッケン2892番、細川愛子さん、滝*第二高校3年。」
これまで通り、紹介の度に選手が手を振るのは変わらないが、さすがに七種競技への注目度が高く観衆が多くなったので、ほかの4人も両方のスタンドに愛敬を振りまくようになりました。
「3コース、ゼッケン2078番、加山優奈ちゃん、神城高校1年、本日の日本記録、世界記録オンパレードの立役者でーす。
4コース、ゼッケン2003番、前川百合さん、夙*高校2年
5コース、ゼッケン2781番、湯川真理さん、神戸*北高校2年
6コース、ゼッケン2894番、織田はるかさん、*川第二高校1年」
中距離だからだろうけれど、800mにスターティング・ブロックは使いません。
従って、立ったままのスタートになるのです。
号砲一発、優奈は飛び出しました。
100mを13秒程度かと思われる速度であり、優奈にとっては左程早くはないのです。
でも、観衆にとっては、女子100mかとも思われる途轍もないスピードだったのです。
女子100mで足の速い子は11秒台後半から12秒台で走るけれど、さほど早くない者は陸上部員であっても13秒台から14秒台になる子はざらにいるのです。
そうした者にとっては優奈の速度は驚異的に見えるのは間違いありません。
あっという間にほかの四人とは大差がついて行きます。
無理もないのです。
他の四人は100mで18秒ほどの速度でしか走っていないからなんです。
七種競技の地区予選では、2分30秒台で走ることができれば、普通はトップクラスなのです。
因みに神戸地区予選では、2分25秒以内で走れるならば、正規の女子800mでも決勝に残れるはずのタイムなのです。
優奈の400mの途中計時が電光掲示板に表示され、ウグイス嬢がまたまた声を張り上げました。
「優奈ちゃん、凄い、凄い。
ハーフ400での中間タイムが50秒02。
非公式ながら、これって、女子400mの日本記録を1秒程上回っていますよ。」
優奈はその速度を余り落とさずにトラックを更に一周した。
素晴らしい速度でゴールラインに駆け込み、ゆっくりと止まってから優奈は大きく肩で息をし、ゆっくりと振り返った。
やがてフィールドに置かれた速報用の電光掲示板が1分47秒55を表示してくれました。
これまでの女子800mの世界記録は1分53秒28なのです。
そうして少し遅れて北側スタンドの巨大スクリーンに<Congratulation>の文字と共に記録が表示されました。
公式記録は1分47秒54、優奈はまたまた800mでも世界記録を更新したのです。
その掲示板に表示が出た時、他の四人は未だトラックを走っていました。
最終的な得点が表示されたのは、全員がゴールして1分ほど経ってからのことでした。
優奈の記録は1分47秒54、得点は1310点、従って合計得点は8894点。
優奈の初陣は途轍もない記録を連発してようやく終わったのです。
残り八種競技の1500mには、神城高からの出場者はいません。
神城高陸上部員は、陣取ったスタンドから撤収の準備を始めました。
神城高陸上部員は、正面スタンド前のフィールドに参集して、最後の表彰式に臨むだけなのです。
他の高校も同様に撤収準備を始めていました。
優奈の荷物は多いのです。
槍に砲丸までも、部から借りて持ってきているからです。
無論大会ごとに重量等事前確認検査を受けてから使用しなければならないものなのです。
因みに砲丸は以前から部で保管されていたものですが、槍はこの4月に購入されたばかりの新品なのです。
15時35分すべての競技を終えて選手全員が学校ごとにフィールドに集合、表彰式と閉会式が行われます。
その少し前に部長の島田と副部長の矢島佳那が優奈に耳打ちしたのです。
「うちのOBとOGが、優奈を保護するために出向いて来ている。
紹介するから一緒に来て。」
保護とは一体何のことかわからなかった優奈ですが、素直に先輩二人に従ってついて行きます。
そこはスタンドへ出るための階段の下でした。
30歳前後かと思われる女性と、中年の男性が待っていたのです。
「加山優奈君だね、私は神城高の陸上OB会総務部長の
これでも弁護士をやっていてね。
島田君や矢島君のお願いに応えて法律的な側面から君を支援することになった。」
中年男性はそう言った。
30歳前後の整った顔立ちの女性がさらに続けた。
「私は
一応主婦をやっているけれど、今のところ子供もいないのでフリーな状態よ。
今回は、優奈ちゃんの臨時エージェント役ってところかな。
取り敢えずは近畿大会までの間の広報対応のマネージャー兼護衛役と思ってくれていい。
全国大会については別の人に変わるかもしれない。
で、何のことかわからないでしょう。
貴女、自覚してはいないかもしれないけれど、とんでもない凄いことをしてしまったのよ。
別に悪いことでは無いのだけれど、世間が騒ぐからマスコミの餌食になりかねない。
だから私たちOBやOGが手分けして貴女を守ることにしたの。
マスコミ対応については、私のところで一元化して対応します。
記者会見やインタビューは、私か私の代理がいないところでは絶対に応じないようにして頂戴。
マスコミはしつこいし、図々しいから何処にでも押しかけて来る。
貴女が成人か、少なくとも18歳以上ならば、それほど心配する必要も無いかもしれない。
でも15歳の女の子をハイエナのごときマスコミの矢面に立たせるわけには行きません。
顧問の村山先生は交渉ごとには慣れていないし、気弱だから放っておけばどんどん押し込まれる。
私は、これでも民放に勤務していたことがあるから、マスコミの内情と出方については十分承知している。
反面教師だから、彼らの弱点も知っているしね。
安心して任せてくれていいよ。
今日のところは、おそらく表彰式の後で個別取材が押し掛けて来るだろうから、スタジアムの別室をすでに陸協の人に頼んで手配している。
一応、マスコミの要望に応えて記者会見という形をとるけれど、時間は30分が限度。
疲れているという理由で私が適当なところで切り上げます。
今のところ、個別取材の返答内容まで詰められないから、新入生総代でもある優奈ちゃんに回答は任せる。
基本は、揚げ足を取られないように言葉の端々に注意すればいいわ。
仮に間違った発言があっても貴方の年齢ならば後でいくらでも取り消しが利く。
わかったかな?」
優奈は頷いて言った。
「はい、ご配慮ありがとうございます。
よろしくお願いします。
ところで吉川先輩は、護衛役と仰られましたけれど、何か武道をされてるんですか?」
「あぁ、昔ちょっとね。私のお爺さまが、合気道の達人なの。
だから普通に習っているうちに合気道二段にまでなっていたわ。
今でもたまに道場に行って練習はしているのよ。
暴漢の一人ぐらいなら何とか抑えられると思うわ。」
中年の弁護士さんが苦笑しながら言った。
「多分、吉川君の合気道は二段のレベルじゃないだろうね。
もう3年ほど前になるかな。
未だ独身だった吉川君に、路上で絡んだヤクザ三人がコテンパンに伸されるところを実際に見たからね。
実力は保証するよ。」
「あの、実力行使しなければならないような事態が起こり得るんでしょうか?」
「うん?
まぁ、無きにしも非ずだな。
特に優奈君の場合は、美少女アイドルっぽいからなぁ。
多分正装したならモデルとしてでも通用するだろう。
それ目当てのオタクっぽいのが出現する可能性は十分にある。
優奈君も機会があるなら身を守るための護身術ぐらいは覚えていた方がいいぞ。」
「護身術ですか・・・。
おじいさまから古武術の手ほどきは一応受けていますけれど・・・。」
その言葉が吉川瑞樹の琴線に触れたのか、瑞樹が口を挟んだ。
「へぇ、古武術?何という流派なの?」
「鞍馬古流の鬼一楊心流というのですけれど・・・・。」
「あれ?
鞍馬古流・・・って、確か伝説の鬼一法眼を開祖とする武術よね。
巷では、幻の最強古武術と言われているとか聞いているんだけれど・・・・。
フーン、現代に伝承している人がいたんだぁ。
で、優奈ちゃんはどのぐらいできるの?」
「どのぐらいと言われても・・・・。
おじいさまと組み手をするぐらいしか・・・。」
余計な勘繰りを避けるために優奈は宗家伝承者であることを敢えて伏せました。
でも、嘘じゃないんですから、許してね?
「ふーん、それは興味津々、暇があったなら一度手合わせしましょうね。
1年に一度、神城高の武道館でOB・OGを交えた演武会があるの。
そんなときなら大丈夫だから。
優奈ちゃんの身体能力からすればかなり上段者と思えるわ。」
「そんなことないです。
闘うぐらいなら、逃げる方が得意ですから。」
「ふーん、・・・。
逃げるっていえば・・・。
優奈ちゃん、パルクールって知ってる?」
「えっと、確か、フランスか米国が発祥の地で、信じられないほどの身体能力でビルの屋上から屋上へと駆け回ったり、街中を跳び回ったりする人たちですよねぇ。
ネットで映像を観たことがあります。」
「私はできないけれど、優奈ちゃんなら真似できるんじゃないの?」
「ええっと・・・・。
ひょっとしたらできるかもと思ったことは有りますけれど、試したことは有りません。」
吉川瑞樹は多少呆れたような表情を見せながら言う。
「なるほど、本当にスーパーガールね。
普通の女の子ならできるなんて夢にも思わないんだけれど・・・。
そっかぁ、できるかもしれないんだ。」
部長の島田が催促した。
「あのぅ、・・・。
スーパーガールの話はともかく、取りあえずのお話はええですか?
僕らも表彰式と閉会式に出えへんとあかんし。」
「ああ、そうだね。
表彰式と閉会式には我々二人も参加できるよう陸協幹部にお願いして了解をもらっている。
マスコミから取材攻勢があったならすぐに我々が介入する。」
優奈は頷いた。
一連の表彰式はつつがなく終わり、神戸地区協の理事の挨拶を最後に閉会式も無事に終えた。
協会役員が閉会を宣すると、途端に、報道関係者が一斉にフィールドになだれ込んできた。
我先にマイクを優奈に向かって突き付けようとしたマスコミ関係者を、陸協の職員と権藤さんと吉川さんが遮って記者たちを一旦下がらせた。
吉川瑞樹さんが少し前に出て大きな声で言った。
「マスコミの方々に予め警告しておきます。
此処にいるのはご承知の通り未成年の女子高生です。
大人の倫理やマスコミの常識は通用しません。」
それから瑞樹さんがやや声量を落として続ける。
「今後、加山優奈嬢に取材をする場合は、彼女が予め認める大人が同伴する状況でなければ一切の取材には応じないことにいたします。
今回の記録更新に関して皆さんが種々聞きたいことは有るのでしょうが、その前に未だ学業半ばの将来ある生徒には、是非皆さんにも種々の配慮をしてもらわなければなりません。
ここであなた方の希望があるならば、最大30分の時間を記者会見に当てる用意があります。
二日にわたる超人的な記録達成により、本人は身体的にも精神的にも疲れていると思われますので、我々は30分だけ認めることとします。
因みに私は、神城高校陸上部のOGで吉川瑞樹と言う者です。
また、此処にいるのは同じくOBで、神戸市内で弁護士をしている権藤和正と言う者です。
何らかの法的措置を必要とする場合は、この権藤弁護士に動いていただくことになっています。
今後あなた方マスコミと問題が生じた場合、状況によっては裁判沙汰もいとわない覚悟でいます。
記者会見においては、私が進行役となりますが、当然のことながら勝手な発言は控えて頂くことになります。
また、この記者会見を条件に単独での取材、インタビューの類は原則として禁止させていただきます。
今後、彼女に対して何らかの取材なりインタビューなど意図する場合は、私を通じて事前の了承を得てからにしてください。
同じく彼女の情報を得るために神城高校生徒に勝手に取材をすることも、就学環境を守るために禁止させていただきます。
少なくともここにお集まりの方については、公的な場で事前に取材が禁止されたことについて有能な弁護士が確認していることに注意してください。
さて、それでは改めて確認したいと存じます。
ここにお集まりの記者さんは、加山優奈嬢の記者会見を望みますか?」
記者の一人が明確に言い切った。
「是非とも記者会見をお願いしたい。」
吉川瑞樹は大きく頷いた。
「神戸市陸協にお願いして会見用の部屋を用意していただいています。
そちらに移動しましょう。
なお、記者会見には協会の方も立ち会います。
また、会見場入室に際しては、各報道機関の身元を確認するため、全員の記者証若しくは社員証の提示を求めます。
例外は認めません。」
こうして神城高のOBとOGペアはマスコミの暴走を防ぎながら記者会見へと上手く導いたのでした。
スタジアム内の別室で開かれた記者会見では主として世界記録達成への感想、これまでの練習時間、練習方法などについて聞かれました。
優奈が七種競技を始めたのはこの4月からであり、個別種目の練習時間は実質2週間ほどしかないこと、それまでは優奈が砲丸にも槍にも触れたことが一度もないと知って明らかに記者連中が驚いていたようです。
確かに中学陸上に三種競技(100m、走幅跳び、砲丸投げ)はあっても槍投げなどは間違いなく正式な競技種目に無いから、1年生がこの時期に七種競技に出場するのは極めて珍しいことなのです。
因みに、滝*第二高校1年の織田はるかさんの成績は出場者5人中最低の得点であり、砲丸投、槍投げの記録は見るも無残なものでした。
彼女の場合、既に滝*第二高校を卒業した姉の織田ゆみかが七種競技をやっていたことから幾分なりとも練習の機会があったのかもしれないけれど、取り敢えずは参加することに意義があったのでしょう。
予定通り開始から30分で会見を終了し、優奈は吉川の運転する自動車で自宅まで送り届けられました。
因みに、以後の県大会、近畿大会の際は、自宅から出発の時点で吉川瑞樹さんが同行することになりました。
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