第三十二夜 楽屋の落書き

 都内某所に廃墟と化したストリップ劇場がある。そこは戦後復興のさなかに興行を始め、バブル経済崩壊とともに廃業することになってから、権利者が行方不明となっている。そのため取り壊すことが出来ずに、建物自体は放置されているという状態である。

 このストリップ劇場は心霊スポットとしても有名である。ホールのステージでは聞こえるはずのない音楽が流れたり、謎の光の明滅が頻繁に目撃されているという。


 夜も静まったころ、Iさんは大学のサークルメンバーらとともにこの劇場に肝試しにやってきた。男女二人一組となって屋内を探索しようということになり、IさんはNさんという男性と一緒になって行動した。

 崩れたエントランスをかいくぐって、メインホールにたどり着く。入り口の見取り図を見れば、どうやら三階まであるらしい。IさんとNさんは一階を探索することになり、懐中電灯をひとつだけ構えながらふたりで進んでいく。一階はトイレと休憩所、そしてステージ裏に行けば楽屋が並んでいた。怖がるIさんに対して、Nさんは物怖じしない様子だった。

「怖くないの?」

「全然。最恐の心霊スポットっていうからどんなもんかと思ったけど、案外普通だな」

 Nさんは幽霊や怪奇現象の類を信用していないひとだった。だから、目に見えないものに対しては恐怖を感じにくいのである。

 トイレも休憩室も何事もなく見回ると、最後に楽屋をひとつひとつ覗いていくことにした。ドアを開けると、かつて鏡が並んでいたであろう台が目に留まる。しかし。ひどく荒廃が進み落書きなどの悪戯も多いので、楽屋だと知らなければ何をする部屋かもわからないくらいだった。鏡は一枚だって残ってはいなかった。

 ひとつめ、ふたつめと見て回り、最後の楽屋を調べていた時のことである。Iさんはとある席に異様なものを感じ取った。

「ねえ、ここの席だけ綺麗じゃない……?」

「え? ああ、確かに他と比べてゴミが置かれていないな。鏡がないのは他と一緒だが」

「それに……落書きがここだけ書かれていないの」

 スプレーで汚された形跡はあるが、そこだけその上から真っ白いペンキのようなもので塗り隠されているような不自然さがある。

「誰かが綺麗にしたってこと、だよね?」

「でも、こんな廃墟の中で、この席だけ綺麗に塗るなんて考えられるか?」

 沈黙。すると、Iさんはゾッとするものを感じた。もしかしたら、まだここを使っている者がいるんじゃないか……?

「そんなわけないだろ。これも悪ふざけの一つさ。不自然さを際立たせて怖がらせるためのな。俺が落書きしてやるよ」

 Nさんは持っていたスプレー缶を振り、赤色の塗料を噴出していく。

『R.I.P』

 ――安らかに。と描いて手を止めた。すると、赤い塗料がどろどろと滲み出し、文字が形を変えていく。流れ落ちるならまだ自然だ。しかし塗料はそれ自体に意思があるかのように自由自在に動き出したのである。

 ふたりは絶叫するが足は動かない。金縛りにあったかのように動かそうとしても動かない。

 赤い塗料は渦を巻いて、別の形に変形していく。

「うががががががががががが……!」

 怒気を混ぜた声がけたたましく響く。渦はやがて鬼の形相をした女の顔になった……。


 そこからさきのことはIさんもNさんも覚えていないという。叫び声を聞きつけて他の階を回っていた友人たちが戻ってきて、気を失っているふたりを救助したのだという。

 後日、Iさんはそのうちの一人に聞いてみた。

「ねえ、私たちが倒れていた楽屋に、赤い鬼の顔した女が描いてあったでしょ?」

「はあ? そんなものどこにもなかったわよ。でもそういえば、何も落書きされていない妙に綺麗な席はあったわね……」

 その楽屋の席だけは、いまでも白く綺麗なままである。

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