最終話 マーメイド・ラプソディー
瑛太はいつものように人魚に会いに浜辺へと向かった。月は白く、煌煌と白い砂浜を照らしている。息せき切って走る瑛太は、つま先が砂浜の中に入りそうになり、転びそうになったが、慌てて体勢を整えた。砂浜の中央に立ち、息を整えると、口角を上げ、ヴァイオリンを顎に当てる。半分瞳を閉じ、弓で音楽をゆったりと奏でた。
遠くの方でぱちゃん、と水音がし、瑛太は更に微笑みを深くした。
(人魚だ……)
そう確信すると、心が穏やかな気持ちになる。
水音がこちらに近付いてくる音が大きくなっていく。
瑛太は、はっと顔を上げると、まっすぐに目の前を泳いでくる人魚を見つめた。彼女の顔は月の光を浴び、額や頬が真っ白く光り、水面を飛び出したりまた沈んだりする。それが愛らしかった。
「人魚」
瑛太は口に出して名前を呼ぶ。
人魚はそれがわかったのか、瑛太に応えようと水面から半分口を開け、はくはくと動かしていた。それがあまりにも愛らしく、瑛太は微笑んだ。
人魚は白い砂浜に上がり、上半身を持ち上げ、魚の尾を砂浜につけ、這うように瑛太の元へとやってきた。そして白い腕を伸ばし、瑛太の頬に触れようとする。瑛太は、彼女に自分の頬に触れさせる代わりに、ヴァイオリンの弓を鳴らした。
瑛太のヴァイオリンの音色を聴き、人魚はほっとした笑顔を浮かべた。そしていつものように、また垂直に上半身を上げ、桜色の唇を開くと、玲瓏な歌声を奏で始めた。
二人の共鳴は、蒼い夜の光に照らされながら、永遠に続くように奏でられ続けた。
瑛太と人魚の逢瀬はその後も幸せに続いた。瑛太がヴァイオリンの弓を一音鳴らせば、人魚はすぐさま反応し、岩の影に隠れていた体を、夜色の海へと泳がし、こちらに向かって泳いでくる。金魚のような赤い尾をひらひらと振りながら、浜辺に両手をついて上がってくると、瑛太のメロディに合わせて軽快に歌を歌うのだった。二人だけの浜辺は静かで穏やかで楽しかった。ずっと二人だけしかここには存在していないかのような、そんな時間が流れていった。
だが、瑛太の背後に広がる黒い森の木々の影から半分顔を出し、瑛太と人魚を鋭い眼差しで見つめる者がいた。
「人……魚……?」
背の高い17の少年は、恐れを含めた声でそう呟くと、木肌に置いた手を震わせた。爪の先が、取れかけた古い木肌に引っ掛かり、静かに地に落ちた。
瑛太と人魚を見ていたのは、瑛太の四人兄弟の次男・理人(りひと)であった。彼は夜な夜な末の弟がヴァイオリンを片手に屋敷を抜け出しているらしいことに気付いた。それが何度か続いたある夜、弟と同室の理人は純白のシルクの布団に入り、寝たふりをし、家族が寝静まった頃合いに抜け出した瑛太の跡を追うことにしたのだった。
(一体何をしているんだ? どこかで下手なヴァイオリンの練習をこっそりしているのか……)
気付かれないように暗闇の間を縫いながら、弟の背中を追う。潮の香りが鼻をついたとき、その行き先が浜辺であることがわかった。下手な音楽を海にでも聞かせようとでもいうのか、と呆れながら、浜辺に立ち並ぶ木陰に身を寄せ、気付かれないように瑛太を視線で追う。
哀れな弟を笑ってから兄として慰めてやろうと考えていたら、金魚のような赤く煌めく尾をした人魚が陸へ上がり、瑛太のヴァイオリンに合わせて歌い始めたので、ひどく驚いた。
理人は思わず顎を引く。だが視線だけは瑛太を見続けていたので、端から見ると睨んでいるように見えた。
(どういうことだ……。何故瑛太が女と、それも人魚と逢瀬をしているんだ。こんな真夜中に、毎晩毎晩隠れて会っていたってのか!)
木の幹に添えた手を握り込む。戸惑いに揺れる理人の瞳には、笑顔で音楽を奏でる2人の姿があった。理人には、人魚という異界の存在を受け入れることも、瑛太が隠れて勝手に海に一人、夜な夜な出歩いていることも理解が出来なかった。
理人は人魚を見た。淡く煌めく金色の髪と、陶器のように滑らかで黒子(ほくろ)一つない白い肌が、海の水滴を残し、月の光に照らされてきらきらと輝いていた。彼女だけがこの夜の暗闇の中で光を放っていたので、月の女神のようであった。
一瞬釘付けになってしまった己に気付き、はっと動揺する。そして、木に背を預け、ゆっくりと腰を地へ降ろす。
(……そういえば、人魚の肉は食べれば不老不死になると、どこかの本で読んだ記憶がある。最初はそんな幻想的な馬鹿話、誰が信じるかと思って鼻で笑っていたが、あの美しい白い肉を見れば、そうなれると信じざるを得ないな……)
理人は口角を上げた。彼は四人兄弟の中で一番体が弱く、そのことを家族への負い目に感じていたからだ。
(人魚の肉を食べれば、僕も健康な肉体を、それも永遠に手に入れられる。もう誰にも見下されることはない)
理人の笑顔は誰も見ていなかったが、酷く邪悪であった。
人魚はいつものように浜辺の白い岩影に隠れて、瑛太を待っていた。巨人が爪で裂いたような窪んだ岩穴の中で、尾ひれを曲げながら、紺碧の空を見つめていた。雲一つない晴天である。海はそれを映し、同じような色彩で、人魚の周りを包んでいた。
(昼は孤独だけれど、夜は瑛太がやってきてくれる)
人魚はそう思いながら長い時をやり過ごしていた。
「アムリタ」
ふいに、人魚の名前を呼ぶ声が聞こえた。久しぶりにその名を呼ばれたので、自分の名だということに気付くのに時間がかかった。
「アムリタ。ここにいたのね。よかった……、沖ではぐれてしまってから、皆心配していたのよ」
アムリタ、よかった、よかった、という声が輪唱する。人魚はきょろきょろと周囲を見る。数日前にはぐれてしまった群れの仲間の人魚たちが、自分を見つけ、迎えにきてくれたのだ。
「皆……、ごめんなさい。また会えて嬉しい。探していてくれてありがとう」
一番仲が良かった人魚が人魚の肩を抱き、涙を流しているのを見て、素直に人魚はそう口にした。
「さあ、感動の再会を喜びあっている時間はないわ。こんなに大勢で集まっていたら、きっとすぐに人間がやってきて、私達を見つけて捕らえてしまう。早くアムリタを連れてここから離れなきゃ」
一番年嵩の人魚が焦るように言った。
「え?」
人魚は動揺した。それは、瑛太との別れを意味していたからだ。
「さあ、行くわよ。何してるの早く」
「でも……」
人魚の白い腕を、親友の人魚が引っ張って泳いでいこうとする。だが人魚は、惹かれた腕を引っ込めようとする。くん、と親友の人魚と人魚の腕が垂直に伸び、動きを止める。親友の人魚は眉を寄せると、緑色の瞳で人魚を見つめた。
「アムリタ……。どうしたの? まさか私達と一緒に行くのが嫌だっていうの」
人魚は親友の人魚を切なげな瞳でじっと見つめた後、俯いた。瞳を震わせ、唇を軽く噛む。
「嫌っていう訳じゃないの……違うのよ……。そういう訳じゃなくて……」
親友の人魚に掴まれた腕は小刻みに震えていた。親友の人魚は、人魚のただならぬ様子にうっすらと唇を開け、ただ見つめ続けた。
「どうしたというの。何を躊躇っているの」
人魚は長い睫毛を伏せ、震わせている。彼女の白い頬に影が出来ていた。親友の人魚は人魚の腕からゆっくりと手を離す。彼女がその場で逃げ出さずに、留まることを予感したからだった。親友の人魚は少し人魚に顔を近付け、彼女の様子を伺った。ゆらゆらと親友の人魚の水色の髪が辺りに漂う。永遠に流れ続くかと思われた人魚の沈黙が、ゆっくりと破られた。
「友達がいるの。人間の男の子の友達が」震え声で人魚は打ち明ける。
その瞬間、周囲の人魚の空気がぴり、と凍り付いたことがわかった。
「今……、なんて……?」
「人間と会っていたの……?」
人魚は顔を上げる。そこには怒りと絶望を顔の表面にうっすらと滲ませた仲間の人魚たちの姿があった。
人魚は皆のその顔を見渡し、心が冷えていくのを感じた。彼らは人間を受け入れていない。人間を心から嫌っているのだ。そのことを、人魚たちの一瞬の表情の動きで感じ取ることが出来た。その確かな事実に、鋭利なナイフで心臓の皮をうっすらと切られたような心地になった。痛みよりも、虚しさが襲ってくる。彼女らの沈黙から、自分に対する侮蔑と静かな怒りが湧いているのを感じた。
やがて一人の人魚が周囲の人魚を見渡し、彼女らに向かって頷く仕草をし、ゆっくりと人魚の前へと泳いでくる。彼女の動きに合わせて、波が静かに波紋を生んだ。
「……アムリタ。私たちは2日後にまた再びここにやってくるから、それまでにけじめをつけるように」
「……けじめ」
「人間の少年と別れて、私たちと共に沖で穏やかに暮らすか、人間の元に留まり、不老不死の肉扱いされて食われて虚しく死ぬかよ」
淡々とした口調で、優しさの中に一種の哀れみも感じられるセリフであった。一人の人魚は踵を返すと、それに合わせて周囲の人魚たちも彼女を先頭に、沖へ帰ろうとする。
一人の人魚は視線だけを人魚に向ける。切なく瞳を震わせ、「じゃあね」とぽつりと呟いた。そして桃色の尾ひれを震わせると、仲間を連れて泳ぎ去って行く。あとには白い泡だけが残った。
人魚はその泡が消えていくのを、暗い瞳でただじっと見つめていた。
その翌日、瑛太は人魚に会おうと浜辺を訪れるが、人魚は現れなかった。
(体調でも崩しているのだろうか)
瑛太は心配しつつ、ヴァイオリンを構え、彼女の為に一音鳴らす。だが、人魚は現れなかった。静かな波の音が聞こえてくるだけである。瑛太は顎からゆっくりヴァイオリンを離し、瞳を揺らして海を見つめる。
月の光が白い道を作り、きらきらと宝石のように輝いている。
「人魚……」
その呼びかけは虚空に消えた。
翌々日も、その次の日も、瑛太は人魚に会いに浜辺を訪れた。だが、人魚は彼の前に姿を現わすことはなかった。静かな波音だけが、緩やかに聞こえてくるのみである。瑛太はその波が白い砂浜へ漂ってくるのを、じっと見つめている。波は時と共に引いていき、浜に潤いをもたらしては枯れていく。
瑛太は天を仰いだ。
そこには、黒に一滴の青を垂らした夜空に、バケツで撒いたような黄や白、赤の星々が散らばっている。瑛太の澄んだ瞳はそれを鏡のように映す。やがて視界がぼやけていく。瑛太の瞳から頬に、流星のように次々と涙が流れていった。
(……嫌われたんだ……)
そういった悲しい考えだけが心に浮かんだ。それは事実だと瑛太は思った。そう自分で思ってしまうことで、瑛太はより悲しくなる。心に小さなナイフを落とされ、それがてっぺんから徐々に中央へと沈んでいくかのようだった。赤い心臓は、ナイフの白銀の刃に血の色を移してく。
「……ふっ。……くっ」
瑛太は唇を噛みしめ、ぶくっと泡を零すように息を漏らした。ヴァイオリンを片手で持ち上げ、砂浜に落とそうとする。怒りの表情で腕は震え、涙は止まらず流れ続ける。虚しくなり、ゆっくりと腕を下すと、かくんと膝を折り、膝を抱きしめて蹲る。額を膝頭につけ、声を殺して泣き続けた。
そんな瑛太の姿を見ていたのは、鎌倉の海と白い月と星々以外にも存在した。浜辺の奥、白い岩の影から見えるか見えないかというほどうっすらと人魚が顔を出していた。月の光が彼女の金の髪を薄ぼんやりと光らせていた。
「えいた……」
最近ようやく覚えた瑛太の名前を、人魚は震え声で呟く。彼の名を呼ぶことで、愛おしさが増した。岩に置いた白い手も、同時に震えていた。
(今すぐ飛び出して、瑛太の元へ泳いでいき、彼の元で歌を歌ってあげたい。彼だけの為に)
人魚はそう思い、体を瑛太の元へ向かわせようと岩から手を離し、意思の強い眼差しで泳ぐ体勢を取った。だが、彼女の脳裏に、人魚たちに囲まれて諭された記憶がフラッシュバックした。
(あ……)
海に触れた手が震える。茫とした瞳で再び体を岩陰に隠し、背をぴたりと岩に預ける。穏やかな風が吹き、人魚の金の髪を揺らした。俯き、瞳を閉じてじっと耐えていると、岩の向こうから、瑛太のヴァイオリンの音が聞こえてきて、瞠目する。微かに揺れ、か細いその音は、まるで泣きながら人魚を呼んでいる瑛太の声のようであった。人魚はその音楽を聞きながら、真珠の粒のような小さな涙を、次から次へと海へ落としていった。
その翌日も瑛太はいつものように鎌倉の浜辺へと姿を現した。諦めなければ、いつか人魚が再び現れてくれるかもしれないと信じていたからだ。
(人魚……、君に会いたい……)
唇を噛みしめ、瞳を2、3度瞬くと、目の縁に涙が溜まった。それを小さな指先で拭う。浜辺に向かうまでの道のりは、銀杏並木を通過する。夜色に染められた木々たちは黒く、頭上でさやさやと葉が擦れ合う。
瑛太は一瞬、天を見上げてそれらを瞳に映す。そうすることで、心が落ち着いてくるのだ。
(人魚はきっといる。今夜は必ず彼女に会えるはずだ)
ヴァイオリンを両腕に抱え、瑛太は更に速度を上げた。白地に、襟に紺の線の入ったセーラー服を着て、浜辺へと向かう。胸元で結んだ柔らかな紺色のタイが、走る度に揺れた。前髪の僅かな隙間から透明な汗が零れ、瑛太の薄桃色に染まった頬を撫で、顎から滴り落ちていく。夜風に乗ったその汗は、きらきらと舞う。
浜辺に辿り着いた瑛太は笑顔で海の方を見た。だがその笑顔は一瞬のうちに崩壊する。
そこには人魚ではなく、一人の人間が立っていた。どういうことだろうと訝しむ瑛太であったが、一度木々の間に隠れ、様子を探ることにした。彼の小さな頭が、木の幹から零れ出る。
まっすぐに背筋を伸ばした黒の制服姿の賢そうな青年であった。
瑛太は目を細めて青年の横顔を確認し、瞠目した。片手を口元に当てると、自分の唇が震えていることがわかった。
(理人兄さん……?)
理人は丸い黒ぶち眼鏡をかけているので、遠目からだと顔が伺えず、誰だかよくわからなかったが、よくよく確認すると理人であることがわかった。幹に置いた手が細かに震え、汗の粒が浮く。
(どうして理人兄さんが浜辺に……。しかも今、人魚がいるって言っていたか……?)
(ヴァイオリンの音を聴いて人魚が現れるなら、ヴァイオリンさえ奏でれば人魚は騙されて現れるのでは? その瞬間に浜に引き上げれば、捕まえられる)
理人の考えはこうであった。理人は片手にしていた黒いヴァイオリンを顎に当てると、弓を弦に乗せ、すっと音を奏でた。凛としたその音色は、鎌倉の海を撫でるように一筋の線となり響く。
その瞬間、瑛太は木の幹から飛び出し、理人の弓を持った手首を掴んだ。
「理人兄さん! 何をしているんだ」
険しい顔で問い詰める瑛太に対し、理人は口角を上げて冷たい眸で見下ろした。
「捕まえるんだよ。瑛太。お前が独り占めしていた人魚を。異界の生き物を。そうしてその不死の肉を僕が手に入れるんだ」
瑛太はそれを聴き、はっと瞳を見開いた。
理人は瑛太に顔を近付ける。彼らの鼻先が触れ合いそうになった。
「瑛太。捕まえよう。人魚を一緒に」
「……っ!」
理人の腕を、瑛太が強い力で掴む。痛みに瑛太は眉をしかめた。
その時であった。沖の方から突然大きな波が上がり、浜辺へと向かってくる。はっと二人は視線を交わし、顔を上げ、海の方を見た。
波は徐々に瑛太たちの元へと迫り来る。ごおん、ごおん、という音を鳴らし、白い飛沫を上げて襲ってくるその様は、異界の怪物のようであった。
「あれ……?」
瑛太は波の先に、何かぽつぽつと、色とりどりのビーズの連なりのような物を見つけた。
「あれ……、何だ……?」
思わず声を漏らす。そして、その澄んだ目を、より大きく見開き、じっと波の飛沫の上に乗る者達を見つめた。夜でも人魚を見つけられる瑛太は、視力が良かったのだ。
徐々に波がこちらへと落ちてくる、緩やかに曲がり、白い砂浜を打とうとする。
「あっ……!」
瑛太はそこに乗っている者の正体を見た。潮風に扇のように髪をなびかせ、胸を露わにした白い上半身と、煌めく鱗で覆われた下半身――。
「人魚……っ」
そう呟いた瞬間、波の中央にいた、乗るように波に体を添わせている、吊り上がった意思の強い赤い瞳をした人魚と目が合った。そして、大きな波は、ばしゃんと鼓膜が割れるような音を立て、砂浜に舞い降りた。
砂浜とその先に広がる森の間を覆う防波堤までの間を、駆け抜けるように波が一気に押し寄せる。あっと思う間もなく、瑛太と理人は波に全身を呑まれた。
目の前に青い景色が広がる。自分の口から漏れ出たあぶくが天へ昇っていくのを、瑛太は見つめていた。やがてそのあぶくは空の星々の光を受け、きらきらと輝いて消えていく。そのあぶくを掴もうと手を伸ばすが、彼の手は、暗い海の中で虚空を描くだけである。
(……人魚も、海の中にいるとき、こんな風に夜空を見上げていたのかな……)
茫然とそんなことを思った。やがて凄い勢いで自分の体を、波が反対方向から押し付けてくる圧迫感が訪れ、瑛太は腹の中に溜めていた息を全て海に吐き出した。
(かはっ……)
更に瞳を見開く。視界がおぼつかなくなり、細かな泡の粒が覆う。
波は海へと還り、それに飲まれた人々が砂浜に投げ出された。
瑛太はしばらく砂浜に横たわり、夜空を仰いでいたが、急速に嘔吐感に苛まれると、俯せになって手をつき、腹の中のものを全て吐き出した。
はあはあと息をつき、瞳に入った海水に痛みを感じてから顔を上げると、理人がはあはあと息をつき、砂浜の上に四つん這いになっている。眼鏡は外れ、砂の上に濡れて置かれていた。彼のヴァイオリンも砂に半分埋まってしまっていた。
「お前か、アムリタの友人という少年は」
男たちに気を取られていた瑛太は、頭上から凛とした鈴の音のような声に呼ばれ、はっと顔を上げる。そこには腰に手をあて、月の光を逆光にした、桃色の鱗を持つ人魚が、切れ長の冷たい眸で瑛太を見下ろしていた。彼女の青い髪がサファイアのように光り、緩く波打って夜風に漂っている。淡く優しいその姿とは対象的に、瑛太を見下ろす彼女の切れ長の瞳は金色に煌めき、冷たい印象であった。
「あなたは……」
「私は人魚の群れの統括者、チキサニである」
「チキサニ……」
チキサニは周囲を見渡す。そして再び瑛太に視線を戻した。
「お前たち人間が、我ら人魚を捕らえようとする動きを感じた。そして」
チキサ二はぴっ、と白い指を瑛太に向けた。その指は瑛太の鼻先に触れるか触れないかの距離で、瑛太は瞳を寄せる。
「お前のような人魚を騙す音を奏でる奏者もいると聞いてな」
(人魚を騙す……奏者……?)
瑛太は再び指から目を逸らし、チキサニを見上げる。先ほどよりも険しい顔がそこにはあった。
チキサニは砂浜に頽れている理人を見ると、ふっと息を吸い、歌を歌い始めた。
「えっ……?」
瑛太は驚いてチキサニを見上げる。
低いが独特の揺れがある、美しい歌声であった。茫然とその歌声に聞き惚れていると、横からずしゃり、と何かが崩れる音がし、頬を叩かれたようにはっと瞠目する。恐る恐る横を見ると、理人が苦しそうに耳を押さえ呻いていた。
(……殺そうとしているのか!)
瑛太は息を飲む。止めようとチキサニに手を伸ばした瞬間、海から風が吹いた。
海の向こうから金色の物がこちらへ向かって泳いでくるのが見えた。瑛太はその姿を目にし、瞳を輝かして立ち上がった。
「人魚!」
「チキサニ、人間を殺しちゃダメ。歌は、そういったことに使わないで」
人魚――アムリタは切ない声を上げ、波の上からチキサ二を止めようと手を伸ばす。
チキサニはアムリタを見つめ、口を閉じた。
瑛太の頬を、潮風が撫でる。
アムリタは瑛太の姿を見つけると、ぱっと水面から顔を上げ、笑顔を輝かせた。そして、波に乗るサーファーのようにその細い体を泳がせ、砂浜に上がると、手を砂浜につき、上半身を上げる。
「えいた」
アムリタは笑顔で言う。
瑛太はそれを聞くや、彼女に近寄ろうと走る。だが、その体の前を、すっと白い手が遮る。チキサニであった。瑛太は笑顔を消し、チキサニを見る。
「アムリタ、人間の元へ向かうというのか、我らを捨てて。人間と暮らすというのか」
チキサニは眉を寄せて人魚に問う。
アムリタは一度チキサニから目を逸らし、逡巡した素振りを見せると、チキサニに体を寄せるように前のめりになった。そこには意思の強い瞳が輝いていた。
「チキサニ、私はただ、えいたに歌を聞いてもらえて嬉しかったの。私の歌と合わせることによって、徐々に綺麗で軽やかな音になっていくえいたの音楽が好きだったの」
チキサニはそれを聞くと切ない顔になった。瞳を揺らしてアムリタを見つめる。
アムリタも瞳を揺らした。言葉にならない想いが2人の間で交わされる。
端から見ている瑛太も、彼女たちの想いが電線したのか、心が締め付けられる。
「これはえいたと一緒にずっと歌っていた歌。他の皆にも聞いてほしい。人間と人魚の境なく、聞いてほしい」
くるりとアムリタは体勢を変えると、辺りに聞こえるように体を天へ向けて歌い出した。薄い唇を開き、短く息を吸うと玲瓏な歌を歌い始める。玲瓏なその声は、最初は掠れていてか細かったが徐々にしっかりとした音程になる。物悲しいそのメロディは、理人や、人魚の心を静めた。理人の瞳の端から涙が流れる。
(僕とずっと一緒に歌っていた歌だ……)
瑛太もそう思うと、白い頬に一筋の涙を流した。拳でぐいと涙を拭うと、瑛太はゆっくりとアムリタの元へ歩いていった。
誰も、何も言わない。ただアムリタの美しい歌声だけが、波音を伴奏にして辺りに響いていた。
瑛太はアムリタの隣に立つと、木の根の上に置いていたヴァイオリンケースに向かって走り、戻ってくるとケースを開いてヴァイオリンを構え、弓を弦に置き、ゆっくりと下に弾く。ぶれの無い音がそこから紡ぎ出されていく。
アムリタは瑛太の音を受け、さらに輝きを増した歌を歌う。
リズムを刻んで音が少しずつ消えていく。後には波音と潮風の音だけが残った。拍手の音が重なっていく。理人もアムリタも、彼らの演奏に称賛を送っていた。瑛太とアムリタは茫然と顔を見合わせる。
アムリタはやがて唇を引き結び、瞳をゆらりと震わせると、瑛太に抱き着いた。
「うわっ」
目を見開いて、瑛太はアムリタを抱き返した。
「瑛太、ありがとう。ありがとう……」
瑛太の胸に顔を押し付け、アムリタは顔を左右に動かす。胸を撫でるアムリタの頬の柔らかさと、そこから流れる涙の熱さに、瑛太は愛おしい気持ちが沸き上がり、瞳を閉じて彼女を強く抱きしめた。そして、アムリタはゆっくりと彼から体を離すと、両手だけを彼の胸元に置いて、彼を見上げる。
「瑛太。あなたと音楽を奏でられて嬉しかった。あなたと音楽を奏でている時間を、永遠に忘れないわ」
「人魚……」
静かにアムリタの手が離れ、最後に指先が名残惜しそうに胸を掻き、そっと離れる。踵を返し、アムリタはチキサニに言う。
「群れに帰ります」
「……わかった」
チキサニはアムリタの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
チキサニは首を回し、顎を使って周囲の人魚へ合図する。
人魚たちはチキサニの命を受け、彼女の周囲へ輪をかくように集まると、チキサニをその輪の一つに加え、人魚を群れの中央へ導く。
「人魚……っ!」
瑛太はアムリタに向かって手を伸ばした。だが彼女の風になびいて透き通る金髪を見て、瞳を揺らしてそっと手を下した。
(人魚は帰っていく。彼女の故郷へ、仲間と共に帰っていくんだ。これは幸福なことなんだ。彼女はきっと、故郷で仲間たちと共に歌っていける……)
人魚たちは海に向かって泳ぎ帰ろうとする。徐々に波に近付いていく人魚を、瑛太は声を殺して見守っていた。波打ち際に辿り着き、次次とつるりと海の中へ潜り込んでいく。
最後に残ったのはアムリタだけであった。背を向けた彼女の髪が、潮風になびき、その白い背が露わになる。横を向いたアムリタの瞳が潤んでいることに気付いた瑛太は、両手を口元に当てて叫んだ。
「人魚! 君のおかげで僕はヴァイオリンが上手く弾けるようになったんだ! ありがとう! ありがとう人魚……っ」
語尾は掠れていた。いつの間にか瑛太は大粒の涙を次から次へと浜辺へ落としていた。
アムリタは振り返り、瑛太に顔を向けた。薄い唇をうっすらと開き、瞳を揺らす。何を言いたいかわからないような様子であった。だが、ゆっくりと口角を上げ、微笑む。その笑顔は切なくも愛らしく、月光が彼女の顔の輪郭を白く光らせていた。
刹那、アムリタはするりと体を海へ滑らせ、音もたてずに海の中へと消えてしまった。
後に残されたのは、茫然と海を見つめる理人を含めた人間の男達と、瑛太、そして波音と潮風だけであった。
瑛太はじっと海を見つめた後、涙を拭うと、ヴァイオリンを構え、弓を弾いた。
それから数日が経った。
深い海の青が人魚の周囲を覆う。仲間の人魚たちの色とりどりの尾の鱗が、宝石のように光っているのを、目を細めて見つめていた。もう浜辺に行けることはないだろう。もう瑛太とも会えることはないだろう。珊瑚に腰かけ、俯くアムリタの頭上から何かが降りてきた。
「えっ……?」
空を飛ぶカモメの羽であろうか、そう思い陽光に目を細めながら、片手を眉あたりに翳し、もう片方の手をひらりと伸ばしてみる。
指先に触れたものを掴んで、目の前にやると、アムリタは驚いて目を見開いた。
「朝顔……」
それは、しおれているが、美しい赤紫の一輪の朝顔の花であった。
(瑛太だ。きっと瑛太が、あの後、私に届けるために、海に流してくれたんだわ)
アムリタはそう気付き、その大きな瞳から幾つも真珠の涙を流した。
(了)
人魚の調べは朝顔と共に 木谷日向子 @komobota705
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