第20話 知りたい信じたい
医務室の薄い仕切り扉を開けて外に出ると、腕組みをして壁にもたれるベネディクトがいた。
ここに来てから、もう4時間は経っている。窓の外はすでにすっかり暗くなっていた。
まさか、彼は椅子もないこんな廊下でずっと待ってくれていたのだろうか。
私の姿に気付いた彼が、ひらっと片手を上げる。
「よお、おつかれさん。じゃ、帰るか」
「ベネディクト。もしかして待っていてくれたんですか」
「ちげーよ。ここで立ったまま居眠りしてたら、お前が出てきて起きた」
もう少しマシな嘘はつけなかったものか。
みえみえの優しい嘘にほっと肩の力が抜けると同時に、思わず微笑んでしまう。
月夜の下を歩きながら、私はがらにもない軽口を叩いてみることにした。
自分らしくないことをするのは、きっと、エリックに言いたいことを伝えて心がほんの少し軽くなったから。
「よく眠れましたか?」
「おう。おかげで元気爆発ってやつだ」
「それを言うなら、元気
「言葉なんて、どんなに不格好でも伝わりゃいーんだよ」
「そうですね。不格好でも、伝えなくて後悔するより、伝えた方がよかったと今は思います」
それからも他愛ないことを話しながら、二人並んで帰路につく。
停留場が見えてきたあたりで、ベネディクトがぴたりと足を止めた。
不思議に思い振り返ると、彼は立ち止まり、少しうつむき加減で何か思いつめた顔をしていた。
「どうしました?」
「悪い。さっき、お前たちの話聞ぃちまった」
「かまいませんよ」
あんな薄い仕切り扉だもの。聞こえていても不思議ではない上に、ベネディクトの責任ではない。別に彼は聞き耳を立てていた訳ではなく、自然に聞こえてしまったのだろう。
それなのに、罪悪感を感じてわざわざ自分から言うなんて、彼は本当に隠し事ができない人だ。
ベネディクトは感情を整理するように黙り込むと、
一言一言、噛みしめるように、確かめるように、紡いでゆく。
「お前ってさ。特定の仲間とつるまないし、いつも一人で何でもこなして、男の俺から見てもカッコいい奴だなって遠くから見てた。でも、なんつーか、堅物すぎて近付きにくいなーって思ってた部分もあったんだ」
「実際、そのとおりだと思います。私は、他人と話すのが得意じゃありません。私のことを嫌いだと思う方も沢山いるでしょう」
例えば、マリーやモニカ。二人とも私の、真面目で良い子ぶった所が嫌いだと言っていた。
彼女たちのことを思うと胸がシクリと痛む。
私はきっと器用な性格じゃない。不器用で、悩むことも多くて、行動するより先に頭で考えてしまう。
人に頼るのが苦手で、一人の方が気楽で心を開けない。
卑屈になってはいないけれど、自分の悪い部分は自覚していた。
俯きそうになった時、目の前から「俺はさ!」と張った声が波のように押し寄せてくる。
顔を上げると、ひたむきな瞳に射抜かれた。
「俺は、お前のこと嫌いじゃねーよ。話してて楽しいし。それにさ、普通、自分に酷いことした奴にあんな温かいこと言えねーよ。お前って、いいヤツだな!上手く言葉に出来ないけど。なんか、ほんと、かっこよくて、すっげ―いいヤツだ!」
なんの飾り気もない不格好な言葉。だからこそ、私の心にまっすぐ響いた。
装飾ばかり多い嘘を沢山聞いてきたからこそ、子供のような拙い、けれど真摯な言葉が心地いい。
「そ、んなこと。初めて言われました」
戸惑いながら辛うじて答えると、ベネディクトがいつものように笑った。
「じゃあ、俺が一番乗りだな!」
お日様みたいに眩しい笑顔が、目の裏に焼き付く。
その日は、帰宅してから就寝するまでずっと、彼の笑顔が頭の中から離れなかった。
『すっげーいいヤツ』
そんな言葉を言われたのは始めてだから、純粋に嬉しかった。
ベッドの上に仰向けに寝転んだまま、胸に手を当てる。
私は、他人に心を預けたくない。
相手の手の中に心を置いたら、そのままぐしゃりと握りつぶされてしまうかもしれない。
私の心も、誇りも、全部私のもの。
誰も信じないし、依存したくない。なのに、それなのに――。
「私は……私の心は、どうしてかあなたを、信じたいと思っているようです」
誰に宛てたのか分からない呟きが、静かな室内に落ちる。
調査対象の珍獣ベネディクト。私が会ったことのない類の不思議な生物。
今までは生態を解明してやる、くらいの気持ちだったけれど、今は少し違う。
「私は、あなたという人を、もっと知りたい」
この、好奇心とはまた違う、名前の付けられない感情の正体は一体、何なのだろう。
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