第19話 さよならは言わない
「大丈夫か!」
忘れ物を届けにきたであろうベネディクトに、私は頷いて駆け寄る。
急いで走って来たのか、彼の首筋にはうっすら汗が滲んでいた。
「大丈夫です。それよりも、お願いがあるのです!彼をお医者様のもとへ運んでください。お願いします!」
今は、他人に頼るのが苦手だなんて言っていられなかった。
一刻も早くエリックに治療を受けさせる必要があるものの、私の力じゃ支えられない。
目の前で今にも死にそうにな人を放っておけなかった。
「おねがいします、ベネディクト」
頭を下げて頼み込む私の頭上で、彼の困惑した声がする。
「えっと、こいつは?」
「私の知り合いで、その……元婚約者なんです。あなたも、噂や報道で知っているでしょう?」
私が尋ねると、ベネディクトは困惑した表情のまま「知ってる」と答えた。
だが、彼が迷いの表情を浮かべたのは一瞬だけ。それ以上何も言うことなく、すぐさま凛々しい騎士の顔つきになり、エリックの側にしゃがみ込む。
何も聞かないでいてくれることが、ありがたかった。
ベネディクトは状況を素早く確認すると、エリックの腕を自分の首に回しながら言う。
「任せろ」
そして彼は自分よりも身長の高いエリックの体を横抱き――いわゆる、お姫様抱っこした。
てっきり肩を貸して歩くものだと思っていた私は、彼の行動と腕力に素直に驚いてしまう。
か弱い乙女と騎士ではなく、身長の高い男二人の姿。しかも一方は死にかけ。
『絵本の中には登場させられない絵面ですね……』なんて呆然と考える私の耳に、ベネディクトの大声が届いた。
「おーい!なにボサっとしてるんだよ。行くぞ!ここからなら騎士団本部の医務室の方が近い。走るから、ちゃんとついて来いよ!はぐれるんじゃねーぞ!」
「はっ、はい!」
エリックを抱えたまま、ベネディクトが走る。大荷物を抱えている筈なのに、彼は私の全力疾走でようやくついていける速さで、まるで風のように駆けた。
♢♢♢
騎士団本部のお医者様に診せた結果、エリックは風邪と重度の過労とのことだった。
彼に言ってやりたいことが沢山あって、私は医務室のベッド横で起きるまで付き添うことにした。
どれくらい待っただろう。
夕日が地平線に沈み、月が夜空を照らし始めた頃、ようやく眠るエリックのまぶたがピクリと動きひらいた。
「ぁ……ミス、ティ」
「気が付いたのね、エリック。待って、何も喋らないで」
起き上がって再び謝罪しようとした彼の肩をベッドに押し付けると、やせ細った体は簡単に元の位置に戻った。
まず、彼に何と伝えれば良いだろう。
私は言葉を紡ぐのが上手くない。ずっと一人で何でもやってきたから、他人に何かを伝えるのが酷く苦手だ。それでも、今ここで、エリックに言わなければいけないことがある。
思いは、言葉にしないと伝わらない。
「エリック。あなたは何も持っていない、生きる価値のない人間じゃないと、私は思います。前に言いましたよね。あなたは、他人が喜ぶ言葉や仕草を本能的に選べる。同年代の人間として、あなたの社交能力の高さはとても羨ましい、と」
エリックが頷く。絵本の読み聞かせの続きを待つ幼子みたいな様子に、以前の彼とは大きく変わったことを悟る。
「あれは、嘘じゃありません。本心です。私が嘘も隠し事も下手で苦手なの、知っているでしょう?」
再び、彼が頷く。何度も何度も頷く。そのたびに、彼の両目から幾筋もの涙がぽろぽろと零れ落ちた。
あかぎれだらけの手で涙を拭く仕草は、昔の王子様のようだったエリックとは全く違う。
汚くて、泥臭くて、不格好。だが、ずっと人間らしくて、以前の彼よりも好感が持てた。
「私はあなたを許していません。まだ怒っていますし、悲しい気持ちもずっと消えません。でも、あなたに死んで欲しいわけではないんです。よくなって、安心して私に怒らせてください。今のあなた相手じゃ、愚痴を言う気にもなりません」
優しい口調でなんて言ってあげない。
私は、ただ思ったことを淡々と口にするだけだ。
こちらにだって腹立たしい気持ち、やりきれない思いがあるのだ。ただ許してあげる、なんて聖人のようには振舞えない。
それでも、彼に真正面から好き放題言えて、心がほんの少しだけ軽くなった。
「お大事に、エリック」
立ち上がる私に向かって、エリックは口を開くと、掠れた声でこう言った。
「ありがとう」と。
ごめんなさいではなく、ありがとう。それは、彼が前へ進もうとしている証のように思えた。
それと同時に、ようやく私も、前を向いて歩ける気がする。
私は何も答えず、彼に背を向けた。
さようならは、あえて言わなかった。
傲慢な王子様みたいな婚約者には別れを告げたが、ただの青年になったエリックになら、長い人生の中で、いつか会うかもしれないと思ったから。
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