ⅩⅣ 真の「世界」
ⅩⅣ 真の「世界」(1)
「……おふだ?」
「そう。秩父は
背後から覗き見た零の呟き通り、それは紙のお札だった。その表面には朱印の上に「三峰神社」という文字が記され、下方には二匹の黒い犬のような絵が描かれている。
「くっ…ナメた真似を……その霊符の暗示で我が〝
そう……久郎はそのお札によって自らに暗示をかけ、けしてイヌ科の動物には傷つけられない体を作り上げていたのである。ただし、常にスキンシップの絶えない飼い主と犬のイメージを持ってしまったがために、ローブとジャレる一人相撲で自傷による擦り傷はできてしまったようであるが……。
「そういうことだ。だから言ったろう? 強い力だけが〝強さ〟ではないと。俺は自信満々のおまえと違って根がネガティブで用心深いんだ。が、そのネガティブな考え方が時として強さともなる。ポジティブシンキングの方がいいなどというのは、いつも運良く災難に遭わん、恵まれたヤツらのいかにもおめでたい奢り昂りだ。もしも、その運などという不確かなものが尽きたとしたらどうする? 危機意識を低下させるポジティブな考え方よりも、最悪の事態にも対処できるネガティブな方を俺ならおススメするな」
「………………」
「根がネガティブ…」と言いながらも、勝ち誇った顔でそう嘯く小生意気な魔術師に、宍戸は何も言い返せぬまま、悔しそうに犬歯をギリギリと噛み合わせる。
「……さて。三峰の加護を受けた身としては、こいつらのボス犬にも
「おのれぇ……ならば、テュールを宿したこの手で引導を渡してやるっ!」
さらにふざけた台詞で挑発する久郎に、今度は軍神テュールのルーンを刻んだ自らの拳を以て、宍戸は仕切り直しと言わんばかりに久郎目がけて殴りかかる。
「なっ? ……うごっ!」
だが、久郎はそれを俊敏な野生の獣のような動きでかわし、次の瞬間、逆に久郎の拳が宍戸の腹に深く沈んでいた。
「くっ…くそったれがあぁぁっ! ……どあぁっ!」
それでも痛みを堪え、再び殴りかかる宍戸であるが、またもやそれを身軽にかわした久郎は、その動きをそのまま回し蹴りに転化して背後から思いっ切り宍戸の背中を蹴り飛ばす。
「……げほ、げほ……ば、バカな……軍神テュールを宿しているのだぞ? 日頃、筋力は鍛えているし、体力にも自信はある……同じカテゴリ〝
その衝撃に床の上をごろごろと転がされた後、膝を突いて起き上ろうとする宍戸は、赤い血混じりの咳を吐き出しながら、ひどく不可解そうな様子でそう呟く。
「ま、鍛えてるだけあって、確かに当麻よりは歯応えありそうだ。もともと体格もいい……だが、俺は魔術の師から実践的な格闘の術も学んでいる。神を憑依させての肉弾戦でもその差はそれなりにデカい」
そんな宍戸を余裕の表情で見下ろしながら、久郎は親切にもその疑問に答えてやる。それに引き換え、今の宍戸はつい先程までのクールで尊大な態度がまるで嘘のようだ。
「くっ……我は勝ち犬倶楽部の主催者、
だが、宍戸は独りで何かぶつぶつ呟くと、なおも諦めずに久郎へ飛びかかって行く。
「やれやれ、おまえの方こそ諦めの悪いやつだな……」
しかし、今度の宍戸の目標は違っていた。
そう言って久郎が眉根を寄せる隙を突き、足下に転がっていたフェンリルとガルムのローブを引っ掴むと〝グレイプニール〟だった帯を解き、ガルムの赤いローブの方は未練もなくその場へと投げ捨てる……そして、何を思ったか? 残った自身の黒ローブと黒い犬面を再びその身に纏ったのである。
「……なんのつもりだ?」
「今宵はちょうど満月だしな……こうなれば致し方なし。悪魔に魂を差し出してでも、貴様をこの場で始末してやる……」
怪訝な顔で尋ねる久郎に、黒犬の姿に戻った宍戸はくぐもった声でそう答える。
「なに? ……おい、まさか、おまえ〝
「軍神テュールの右手を噛み切り、最高神オーディンをも食らいしフェンリス
俄かに表情を変えた久郎が止める間もなく、宍戸は天を仰ぐようにして北欧神話最凶の魔物〝フェンリル〟への賛辞を朗唱する。
「…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ……グルルルルル……ワァオォォォーン! ……ワァオォォォォォーン…!」
すると、宍戸の様子がなんだか妙な具合になってきた……息遣い荒く、背を丸めて四足のようになったかと思うと、威嚇するように唸ったり、窓から覗く月に向かって遠吠えをしたりしている。
それは人間の声帯が発しているとは到底思えないような野生の雄叫びであり、被っている仮面のせいばかりでなく、声も、仕草も、まさに野生の〝狼〟そのものだ……いや、〝人狼〟といった方がいいのかもしれない。
「あ、アリスちゃん! 先輩、いったいどうしちゃったの!?」
その異様としか表現しえない宍戸の姿に、へたり込んだまま戦いを見守っていた零が、ようやく立ち上がって久郎に尋ねる。
「こいつはな、俺達魔術師の誰もが躊躇して使わん
「禁じ手?」
「ああ。カテゴリ〝
「ケダモノって……そ、そんなことして先輩は大丈夫なの!? もとには戻れるんだよね!?」
「こいつは少々ヤバいかもしれんな……今のこいつには俺もおまえも等しく平等に同じ獲物だ。今度こそ本当に近づいたら命の保証はない。絶対にそこを動くなよ? おい! そこのバカ犬、こっちだ!」
それでもなお、宍戸のことを心配して尋ねる零であるが、久郎はそれを無視し、宍戸の注意を自分に惹きつけながら急いで零のもとを離れる。
「ええ? あ、アリスちゃん!?」
走り去る久郎に零がもう一度、声をかけたその時、もうすでに二人の戦いは始まっていた。
「グルルルルル……ワァオォォォーン…!」
「…くっ……速い……うぐっ……」
飛びかかった宍戸は間髪いれず、狂ったように久郎を乱打し続ける。
獣のような跳躍力ばかりでなく、その速さもその腕力も、先程までの宍戸とはまるで別物だ。さすがの久郎も今までのように避けることができず、受け止めて防御するのが精一杯である。
「…チッ……この盾でももたんか……この様子じゃ……メデューサも利きそうにないしな……ぐうっ……」
降り注ぐ強烈な殴打の雨に、パーカー裏にしまってあった〝アイギスの盾〟を取り出した久郎は、まさにそれを
「ガルルルルル…」
一方、硬い革製の盾を壊れるまで殴ったというのに、宍戸は拳を気にすることなく、なおも変わらず殴りかかってくる……
「…くっ……狂犬では眷属たりえんか……〝
その猛攻に晒され、防御する腕にも痛みを覚え始めた久郎は、また新たに呪文を唱え、今度は
「南無、地霊……」
そして、宍戸にも負けぬ跳躍力と身の軽さを獲得すると、まるで天狗のようにひらりと宙を飛んで距離をとり、床に右手を振れてさらに呪文を唱える。
「ガルルルルルっ…!」
その態度が癇に障ったのか? 苛立つようにまたも唸り声を上げ、よりいっそう荒々しく宍戸の狂犬は久郎に襲いかかる。
「フン。腕力は半端ないが、所詮はケダモノ……攻撃はワンパターンだな……」
だが、どこかそれまでと雰囲気の変わった久郎は、その激しい殴打の猛襲も軽やかにダンスを舞うが如く優雅な動きで跳び退いては避け、縦横無尽に体育館内を飛び回りながら、怒り狂う黒犬を翻弄する。
「ガルルルル……ワォォォォーン!」
対する宍戸は相も変わらず、ただひたすら殴る蹴るをむやみに繰り返し、時に目標を見失い、飛び退いた久郎の代りに背後にあった鉄の扉をそのままの勢いで殴って凹ませたり、壁に付いた管理用の鉄製梯子をおもいっきり蹴って折り曲げたり、果ては体育館の厚い板壁をその強烈な拳で打ち抜いてしまったりと、まさに荒れ狂うケダモノが如く暴れ放題である。
「そろそろだな……」
そうして、あまりの激しさに立ち入ることもできず、ただじっと黙して零が見守る中、暴れ回る宍戸と華麗に逃げ回る久郎の追い駆けっこがもう5分以上続いた頃のこと……。
「…ハァ…ハァ……ガルルルルル……うぐっ…!?」
再び久郎に跳びかかろうとした宍戸が、不意に全身から力が抜けるようにして、久郎は何もしていないのにへなへなと床に崩れ落ちたのだった。
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