遠藤修の冒険
鷹山トシキ
第2話 1998年8月
8月5日……2人はタッグを組んで金持ち男性、
この世には人間の他に妖怪が存在する。彼らは地下の闇に潜みながら人間との共存関係を築いているが、それを知る者は多くない。
人間と妖怪の混血として生まれた青年、遠藤修。日光の下を歩けるため妖怪たちから羨ましがられていた。人間の老人、
純血の妖怪ではない若き野心家の
8月22日 - 第80回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)において、横浜高校の松坂大輔投手が、59年ぶり史上2人目となる決勝戦でのノーヒットノーランを達成し、横浜高を史上5校目の春夏連覇に導く。
修はロシアにやって来た。
ロシアの歴史は、3世紀から8世紀までの間にヨーロッパで認識され始めた東スラヴ人の歴史に始まる。9世紀、ヴァリャーグの戦士の精鋭およびその子孫により設立・統治され、キエフ大公国の中世国家が誕生した。988年、東ローマ帝国から正教会を導入し、次の千年紀のロシア文化を特徴づける東ローマ帝国およびスラブ人の文化の統合が始まった。 キエフ大公国は最終的に多くの国に分裂し、13世紀には領土の大部分がモンゴルに侵略され、遊牧国家ジョチ・ウルスの属国になり、ロシアが西洋から隔絶される原因となった(タタールのくびき)。モスクワ大公国は次第に周辺のロシアの公国を再統合し、キエフ大公国の文化的・政治的な遺産を支配するようになった。クリコヴォの戦いでジョチ・ウルスを破った後、ジョチ・ウルスは衰退し、イヴァン3世(イヴァン大帝)の時代に独立。東ロシアのほとんどがモスクワ大公国に服した。16世紀中頃にイヴァン4世(イヴァン雷帝)がモスクワ帝国、1721年にピョートル1世(ピョートル大帝)がロシア帝国を建設。周辺諸国の併合などを繰り返し、史上第3位の領土を持つ帝国となり、版図はポーランドから北米のアラスカまで広がった。
1917年のロシア革命後、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国がソビエト連邦最大かつ指導的な構成国となった。世界初の憲法上の社会主義国および広く認められた超大国となり、第二次世界大戦において連合国の勝利に決定的な役割を果たした。ソビエト時代には、世界初の人工衛星および世界初の有人宇宙飛行を含む20世紀のもっとも重要な複数の技術的偉業を経験した。アメリカ合衆国に双璧する超大国として国際社会で重要な位置を占めたが、共産党による一党独裁の弊害が噴出するようになり、1991年にソビエト連邦の崩壊に至った。
新たにロシア連邦を国名とし、ロシアも同等の国名とされた(1992年憲法改正)。国旗は革命前の白青赤の三色旗に戻り、国連における地位などは基本的に旧ソ連を引き継いでいる。
世界最大の面積を持つロシアは、ユーラシア大陸の北部にバルト海沿岸から太平洋まで東西に伸びる広大な国土を持つ。その面積は日本の約45倍、アメリカの約1.7倍にも達し、南米大陸全体の大きさに匹敵する(正確には南米大陸の方が約76万km²(日本の本州の約3倍程度)大きい)。
国土の北辺は北極圏に入り人口も希薄だが、南辺に近づくと地理的に多様となり人口も多くなる。ヨーロッパ部(ヨーロッパ・ロシア)とアジア部(シベリア)の大部分は広大な平原で、南部のステップから北は広大な針葉林の森であるタイガがその大部分を占めている。さらに高緯度になると、樹木が生育しないツンドラ地帯となる。黒海とカスピ海の間の南の国境にはヨーロッパ最高峰(カフカス地方をヨーロッパに含めた場合)のエリブルース山を含むカフカース山脈があり、ヨーロッパとアジアの境界にはウラル山脈がある。
面積を見るとヨーロッパ部よりアジア部の方が広大であるが、国土の西端に当たるヨーロッパ部に人口や大都市、工業地帯、農業地帯が集中していること、さらにスラブ文化のつながりから、ロシアをヨーロッパに帰属させる分類が一般的である。
国土を囲む海域には北極海の一部であるバレンツ海、白海、カラ海、ラプテフ海、東シベリア海と、太平洋の一部であるベーリング海、オホーツク海、日本海、そして西のバルト海と西南の黒海があり、海岸線は3万7,000kmに及ぶ。これらの海に浮かぶロシア領の主要な島には、ゼムリャフランツァヨシファ、ノヴァヤゼムリャ(米国を越える史上最大規模の核実験が行われた)、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島、ノヴォシビルスク諸島、ウランゲル島、サハリン(樺太)、そして日本との領土問題を抱えるクリル諸島(千島列島)がある。特に北極海に面した地域をはじめ、冬季は北極寒波の影響が強いため厳寒であり、氷点下を下回る日が長く続く。
ロシア領内の主要な川にはヨーロッパ部のドン川、大型で良質のチョウザメが多数生息するヴォルガ川、カマ川、オカ川、アジア部のオビ川、エニセイ川、レナ川、サケ類の漁獲で有名なアムール川などの大河があげられる。これらの下流域は日本で大河とされる最上川、北上川や四万十川よりも川幅が広く、いずれもセントローレンス川下流域に近い川幅がある。また、アジア部の大河はアムール川を除いて南から北へ流れ、北極海へ注ぐ。ブリヤート共和国のバイカル湖は世界一古く水深の深い湖として有名な構造湖である。このほか、ソ連時代の水力ダム建設によって生まれた大規模な人造湖が存在する。
修はモスクワにやって来た。
北緯55度45分、東経37度37分に位置する。市の中心をモスクワ川が蛇行しながら流れる。市域面積は2,511平方キロメートルに達する。植生的には北の針葉樹林帯と南の混合樹林帯との接点に位置する。土壌はポドゾルが主で、それほど肥沃ではない。
修の祖父は歴史学者でロシアのことも教えてくれた。1147年にキエフ大公国のユーリー・ドルゴルーキー(手長公)が会合を行った場所として言及されるのが最古の記録である。1156年に砦が築かれて以降、徐々に小都市化していった。1237年から1238年にかけてはモンゴル帝国軍によって灰燼と帰した(モスクワ包囲戦)。
1271年、ウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキーの末子であるダニール・アレクサンドロヴィチが遺領としてモスクワを獲得し、モスクワ公国が成立した。3代目モスクワ公のイヴァン1世の代にキプチャク・ハン国にとりいってルーシ諸公からの徴税権を得たことから力をつけ、モスクワ大公国となった。1382年にはキプチャク・ハン国のトクタミシュ・ハンによって占領されることなどはあったが、1480年、イヴァン3世がタタールのくびきを完全に終わらせることで、モスクワはロシア最大勢力の都となった。彼はウスペンスキー大聖堂やブラゴヴェシチェンスキー大聖堂やアルハンゲリスキー大聖堂を建設・再建し、クレムリンを壮麗なものとした。クレムリンの前に赤の広場が建設されたのもこの時代である。1534年から1538年にはクレムリン北東のキタイ・ゴロドをクレムリンと同じ城壁で囲み、以後この地域は商工業地域として発展した。
1561年にはイヴァン4世によって聖ワシリイ大聖堂が建設された。1590年ごろにはクレムリンとキタイ・ゴロドの外側に城壁が築かれ、さらにその外側には土塁が築かれ、モスクワの町は大幅に拡張された。新しい城壁の内側はベールイ・ゴロド(白い町)、土塁と城壁の間はゼムリャノイ・ゴロド(土の町)と呼ばれた。16世紀末には動乱時代となり、1610年には偽ドミトリー2世を擁したポーランド・リトアニア共和国軍がロシア・ポーランド戦争を起こしてモスクワを占領したが、商人のクジマ・ミーニンと公爵ドミトリー・ポジャルスキーを中心として組織された国民軍が1612年にモスクワを奪回し、翌1613年にはミハイル・ロマノフがツァーリに選出されてロマノフ朝が成立した。
ロマノフ朝時代は国土の拡張にともないモスクワも成長を続けたが、ピョートル1世が1712年にロシア北西端のネヴァ川河口にサンクトペテルブルクを建設したことで首都の座を譲った。しかしそれ以後も副首都の座を保ち続け、歴代のロシア皇帝はモスクワにて戴冠式を行うことを常とした。古い貴族階級は遷都以後もモスクワに居住する者が多く、西欧の思想を取り入れる窓口となったサンクトペテルブルクに対し、モスクワは古いスラブ主義の思想の中心地となっていった。1755年にはロシア最初の大学であるモスクワ大学が開校した。このころ、ベールイ・ゴロドの城壁が撤去され、その跡地にプリヴァール環状道路が建設された。1812年にはナポレオンのモスクワ侵攻(祖国戦争)を受け、街は灰燼に帰したが、その後すぐに復興された。19世紀にはゼムリャノイ・ゴロドの土塁も撤去され、その跡地はサドーヴォエ環状道路となった。1851年にはサンクトペテルブルクとの間に鉄道が開通し、その後も1862年にはニージニー・ノヴゴロド、1864年にはリャザン、1868年にはクルスク、1870年にはヤロスラヴリへの鉄道が相次いで開業し、ロシア中央部の商工業の中心としての地位は揺るぐことなく、農奴解放による労働力の流入や軽工業の発展もあいまって、19世紀末には人口は100万人を突破した。
ソビエトによって1918年に首都機能が移転され、ソビエト連邦とロシア・ソビエト社会主義共和国(現在のロシア連邦)の首都となった。大祖国戦争時には市の北西40キロの地点にまでドイツ軍が進出したものの、軍民一丸となった抵抗により陥落しなかった。かつては冷戦による対立関係があったアメリカのワシントンとともに、モスクワは超大国の首都として二分し、スターリンはニューヨークの高層ビルに対抗意識を持ち、スターリン様式という建物を多く建築した。ソ連崩壊後のロシア連邦においても引き続き首都であり、現在では人口1000万を超えるロシアの政治経済の中心である。
修はクレムリン宮殿にやって来た。
宮殿はモスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある。
ソビエト連邦時代にはソ連共産党の中枢が設置されたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。
現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が設置されているため、ロシア政府の代名詞として用いられる。正面には、赤の広場がある。
ロシア語では「クレムリ」となり、「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。しかしながら、日本語内において単に「クレムリン」と言った場合は、モスクワにある宮殿を指すことが多い。モスクワのクレムリンはそれらのなかでも最も有名かつ壮大なもので、城壁の総延長は2.25kmある。20の城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や大聖堂(寺院)が林立している。
モスクワのクレムリンは、南をモスクワ川、北東を赤の広場、北西をアレクサンドロフスキー公園によって囲まれたほぼ三角形の形をしている。総面積は約26ヘクタール。城壁に囲まれた構内には、大小新旧様々の宮殿(パラーダ)、聖堂建築、20の塔(バーシニャ)がある。
モスクワ川沿いの河岸段丘には、クレムリン大宮殿(ボリショイ・クレムリョフスキー・ドヴォレッツ)を中心に、グラノヴィータヤ宮殿、テレムノイ宮殿(チェレムノイ宮殿)が林立し、これに、クレムリン大会宮殿(ドヴォレッツ・スエズドフ)や聖堂群が周囲に立てられ一つの建築複合体を形成している。この敷地の東隣はタイニツキー庭園となっている。
修は宮殿の中に入れずにホテルに戻った。
「何かあったのかな?」
8月25日 - Microsoft Windows 98日本語版が発売。
宮殿の続きを見ることにした。
🏰グラノヴィータヤ宮殿(多稜宮)
1481年から1891年にかけて建造された宮殿。イタリア人建築家マルコ・ルッフォ(ロッフォ)とピエトロ・ソラーリによる。ファザードが白い多面体の石で覆われているため、グラノヴィータヤ(多面体、多稜の)の名称が着いた。高さ9メートル、広さ490平方メートルのアーチ構造のホールが内部にある。帝政ロシア時代には、イワン雷帝のカザン占領記念の祝典や、ピョートル大帝のポルタヴァの戦いの勝利祝典など、公式行事やレセプション会場に用いられた。
🏰テレムノイ宮殿(チェレムノイ宮殿)
英米圏では「テレム(テーレム)宮殿」の名称で呼ばれる。「テレムノイ」(露:Теремной)とは、古ルーシの言葉で「高級な住まい」を意味すると言われる。1635年から1636年にかけて造営された、16世紀に建設された2階建ての宮殿の上に3,4階を増築した。この望楼のような屋根裏部屋をテレムと称するとも言われる。この宮殿は、ロシア帝国の歴代皇帝(ツァーリ)の御所であった。五階建てで最上階は寄せ棟造りで、紅白の菱形模様の屋根が敷かれている。四階は控えの間と、玉座の間、寝室などがある。19世紀になってコンスタンチン・トーンにより下層が改装されファサードが変わった。
🏰クレムリン大宮殿(大クレムリン宮殿)
1839年から1849年にかけて造営された宮殿。広義のクレムリン大宮殿は、この大宮殿に上述のグラノヴィータ宮、テレムノイ宮殿を合わせたものを指す。全長125メートル、奥行き63メートルの大建築で、外観三階建て、内部二階建てである。
設計・監督はコンスタンチン・トーン(トン)である。トーンは、宮殿建設に当たり、当時の最新技術を導入することに意を用いた。例えば、宮殿の屋根を支えるのに使われたつなぎ梁は銑鉄製であった。このほか、金属製の天井構造や、セメントの導入、亜鉛製空洞柱、銑鉄製床プレート、吊天井構造、暖房設備などが導入された。また、規模と豪華さにおいて、同時期に造営されたヨーロッパ列強の宮廷建築を凌駕している。宮殿には、ウラル山脈から採掘された国産孔雀石、花崗岩などの諸石材が装飾においてアクセントを形成している。このほか、家具、装飾品、織物、シャンデリア、磁器や青銅器などの装飾品は、サンクトペテルブルクやモスクワの工房に特注された逸品である。
一階には、皇帝の私室、二階には、国家行事に使用された大ホールがある。大ホールは、いずれもロシア帝国の主要な勲章にちなんで、エカテリーナの間、ウラジーミルの間、ゲオルギーの間、アレクサンドロフの間、アンドレーエフの間がある。
宮殿南棟の一階は、皇帝一家の私室であり、食事の間、皇后の謁見の間、皇后の執務室、皇后の居間、寝室、皇帝の執務室、皇帝の謁見の間の7室が一直線上に並んでいる。各室の内装は個性に富み、例えば皇后の謁見の間はロココ様式、皇后の執務室はアンピール様式などと伝統と当時の流行が程よく折衷されている。
最高の武勲を立てた軍人に授与される聖ゲオルギー勲章の叙勲式が行われた。クレムリン大宮殿の各ホール中、最も大きく、最も荘重である。全長61メートル、全幅20,5メートル、高さ最大17メートルの威容を誇る。天井には重さ1.3トンの金メッキされたシャンデリアが6基取り付けられている。床は、胡桃、マホガニー、桜、白樺、林檎、梨、白樺、黒檀などの異なる木材で構成される寄木造りとなっている。帝政時代、ソビエト時代、そして現在のロシア連邦を通じて国家的祝典に使用された。
ウラジーミルの間は、楕円形で、帝政時代には皇帝の謁見を待つ貴族のいわば溜の間であった。このほか、外国からの使節を謁見したり、条約調印の会場として使用された。1972年、ニクソン、ブレジネフ両首脳によるSALT1の調印式典でも会場となった。勲章授与式にも使用されている。
アレクサンドロフの間とアンドレーエフの間は1939年に壁を撤去して一つのホールとなり、ソ連最高会議及びロシア・ソビエト連邦社会主義共和国最高会議の議場として使われた。
🏰国立クレムリン宮殿(旧クレムリン大会宮殿)
クレムリン大宮殿の北側、トロイツカヤ塔から入城して右側に位置する。ソビエト時代の1959年から1961年にかけて建設された。ガラス張りのファサードを持つ鉄筋コンクリートで直線的な社会主義モダニズム建築。6000人を収容可能な議事堂で、1961年10月17日に開催された第22回ソ連共産党大会をはじめとする党大会や国際会議などの会場として使用された。建築計画と施工を担当した建築家・技術者グループには功績を称えるレーニン賞が授与されている。ソ連崩壊後は、名称が国立クレムリン宮殿と改称された。1990年クレムリンが世界遺産に登録された際には、この宮殿のみ鉄筋コンクリートとガラス張りという近代性ゆえに世界遺産の指定対象から外された。ボリショイ劇場の第二ステージとしても使用される。
修は最近、疲れ安く全て回りきれなかった。
8月29日 - 日本でiMac発売。米国では8月15日発売。当時の価格で17万8000円(税込)。トランスルーセント(スケルトン)デザインブームを巻き起こす。レガシーフリーパソコンの先駆け。
🏰ロシア大統領官邸
帝政ロシア時代は、元老院。ソビエト時代には閣僚会議館。元はエカチェリーナ2世の命によりモスクワ地方の貴族の集会場として建設されたもので、設計者マトヴェイ・カザコフの名前を取ってカザコフ館とも呼ばれる。赤の広場に面し、二等辺三角形の平面を持つ。赤の広場から、レーニン廟越しに見ると、カザコフ館のドームが見える。レーニン以来、歴代のソ連指導者の執務室が置かれた。
🏰ロシア大統領府
ソビエト時代にはソ連最高会議幹部会館。ソ連時代の1932年から1934年にかけて建造された。大統領官邸などの周囲の建物と同じ黄色の外観で調和が取れている。
🏰武器庫(武器宮殿、アルジェイナヤ・パラータ)
クレムリンの南西、アレクサンドロフスキー公園に隣接している。設計は、クレムリン大宮殿と同じくコンスタンチン・トーンの手による。武器庫とあるが、後に戦利品やロマノフ家の宝物を保管するようになり、1720年ピョートル大帝の勅令によって美術館となった。コレクションには、13世紀から18世紀の武具・武器、14世紀から19世紀の織物、宮廷衣装、ロマノフ家の馬車などがある。
🏰アルセナール(旧兵器庫)
こちらは、クレムリンの北西、無名戦士の墓に隣接し、トロイツカヤ塔から入城して左側、クレムリン大会宮殿と向かい合っている。現在はクレムリン警備隊の兵舎として利用されている。
アーセナルを出るとルーサルカが現れた!🧚♂
ルサールカは、スラヴ神話に登場する水の精霊。精霊というよりは幽霊のようなもので、水の事故で死んだ女性、洗礼を受ける前に死んだ赤ん坊などがルサールカになるという。ルサルカとも表記されるが、その名前は、古代スラヴ人のルサーリイという祭りに由来し、豊穣神としての一面もあると言われている。
古代のスラヴ人にとっては森・川・沼などは不安や疑惑と共に恐れられる地形であり、ルサールカに関する伝承・信仰はスラヴ人に共通して存在している。
ルサールカは水の精霊だが、海ではなく、川、湖、池といった、農民に身近な場所に住んでいる。 19世紀ロシアの民俗学者イヴァン・カリンスキーは、「民衆の幻想によると、ルサールカは、水中に住む裸の生き物なのだ」と述べている。
しかし、気候や地勢に合わせるようにその姿や性質が地方によって異なる。ふつう、長い緑色の髪をした美しい娘である。一方、北ロシアのルサールカは、青白い顔をした醜い妖怪のような姿で、緑色の髪と緑色のぎらつく目を持ち、巨大な乳房を垂らしているとされる。また南ロシアではルサールカは妖艶で愛嬌もあるが、北ロシアでは嫉妬深く気まぐれ、且つ邪悪な性質と考えられていた。
ルサールカは季節によって住み処を変え、冬は川に、夏は森の中やそこに開けた空き地に住んだ。死者の魂であるために、冬は冷たい水の底の暗がりに留まっており、季節が夏に向かうにつれて水温が高くなっていくと、死者達が住むとされる木の上に移るのである。
森の中では、月の明るい夜に歌や踊りで人間の若い男を魅了することもあった。人はこの邪悪なニンフに魅了されると水の中に引きずり込まれ、そのまま見えなくなったとされている。
同じく水の精霊であるヴォジャノーイの妻だとする説がある。
修は逃げるので精一杯だった。
8月30日 - この日をもって、原宿の歩行者天国が廃止され、21年間の歴史に幕を閉じる。
修はモスクワ郊外にある洞窟の中で武器を見つけた。
🪓バルディッシュは、16~18世紀の東ヨーロッパからロシアにかけて主に使用された武器である。
構造的には戦斧でありまさかりの刃を上下に引き伸ばしたような物と言える。武器の性格としては中国の青龍刀にも似ている。西ヨーロッパではハルバードに相当するが、構造・特性的に類似するものは少ない。
バルディッシュは、通常150cmほどの柄の上端部に、三日月状の曲線を描く60cmほどの斧頭が横向きに取り付けられた形をしたポールウェポンの一種であり、三日月斧、半月斧などと呼ばれることもある。 他のポールウェポンと比べると柄が短く、刃が極端に大きい。 全体の重さは2~6kg程だがそのほとんどが斧頭の重さであり、振り回すことによって威力を増すよりも、むしろ刃の重量を生かして叩き斬るような使い方が多かったと考えられる。
また、人間を両断出来るほどの破壊力から教皇庁に使用を禁止されたと言われているが詳細は不明である。
斧頭と柄の接合部は通常2箇所で、斧頭の中央部のソケットを柄の上端にはめ込み、さらに斧頭の下端を釘などで柄に固定していた。 斧頭の上半分は柄から大きく突き出て鋭くなっており、槍のように使うこともできた。 16世紀頃のものは鋒《きっさき》の突端は1点に収束して突き刺すために槍の穂先に近い形をしているが、17世紀頃になると斧頭を重く重心をより先にするために突端は2点になり斬撃に特化した独特の形状となる。
柄はしばしば下端(柄頭:石突)が鉄で覆われており尖っていた。これは馬の突撃に備えて槍ぶすまを作るときや、後述のように銃架として用いるときなどに、地面に突き刺すために役立っていた。
騎兵用には短いものも作られた。この場合は肩ひもに掛けられるように2つの鉄輪が取り付けられていた。
刃の両面には図式化された葉の模様などが彫られていることがあったが、中には「ドラゴンと戦うユニコーン」などの複雑な図案で装飾されたものもあった。
ホテルに戻り、食堂でボルシチを食べていると老人が耳寄りな情報を教えてくれた。バルディッシュは人間を倒すことは出来るが、怪物は倒せないようだ。聖なる湖につけると
8月31日 - 淡路フェリーに続いて、この日をもって、西宮から淡路島・津名を結ぶ、「甲子園フェリー」が27年間の歴史に幕を閉じる。
修はモスクワ動物園にやって来た。
1864年に開業したロシア最古の動物園。通りを挟んで、旧園と新園に分かれている。入場料金は、大人100ルーブル、子供は無料。
1960年代、中ソ対立が深刻化する以前に中華人民共和国からジャイアントパンダの寄贈を受け、長らく飼育していたことで知られている(同時期にパンダを飼育していた中国国外の動物園はロンドン動物園と合わせて2園のみ)。1970年に創刊された日本の女性誌An・anは、モスクワ動物園のパンダの名前が由来である。
動物園から出ると、東が近づいてきた。
「面白いことが分かったぞ」
📝怪物は4・6・9がつく日しか出現しない。
遠藤修の冒険 鷹山トシキ @1982
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