告白Ⅳ


「ねぇ片桐君はここのこと覚えてる?」


「あぁ覚えてる」

 

「最近もまたここら辺を走ってるんだってね」


「あぁそうだな」

 

「私さ、全く片桐君のこと知らなかった。彼女だったのに」


「お互い様じゃないか?」


「それでも私はもう少し片桐君を知っていればよかった」


「そうか」


「そうすればこんなに中途半端にはなってなかったんだと思う。サッカーのことだってそう。いくらでも知る機会はあったはずなのに、ずっと自責の念に駆られて知ろうともしてこなかった。だから多分、今日緑さんが来てくれてよかったんだ。私の意図してる形とは違ったけど片桐君の本当の姿を、その過去を知ることができたから」


「……そうか」


 俺らはいつのまにか河川敷の道沿いに並ぶ様にして立っていた。 

 流れる川を前にしてどこか風情があると少しでも思ってしまいながら、それ以上にこの様子がおかしいことに思いを馳せる。

 せめて腰掛けられたならよかったのだが、なにかと服装がそれを邪魔してしまう。

 

 ただそれ以上に綾香は真摯な顔つきで前を見ていた。

 その先には太陽が落ちようとしている。



「一か月前のことは覚えてる?」


「それはまぁ、忘れるほど時間は経ってないしな」


「なら、一回全部忘れてくれると助かるなーーなんて」


「?」


「ほらこの間のはなんていうか余裕がなかったっていうか、なんていうか。とにかくこの間のはなかったことにして改めて言いたいの」


 何を、とは多分聞けなかった。

 せいぜい顔で疑問符を浮かべるばかり。

 言葉にしたらその瞬間にどうにかなってしまいそうで。


 でもきっとその言葉をそのままに受け取ってほしくないっていう願望もあるのかもしれない。

 それほどまでに綾香は神妙な顔つきで言うのだ。


 ごほん、とわざとらしい咳払いを挟み俺たちは向き合うようにして立った。

 昔の綾香ならすぐにでも赤面してそらしてしまっていた目も、互いの姿を映せるくらいに交差させている。

 そして意を決したがごとく、そのきれいな髪を靡かせて腰を折った。 


「ごめんなさい!」


 この瞬間だけどんな音をも置き去りにするように綾香の澄んだ声が川辺に響いた。


「中学の時からずっと、言えないままだったこと。私が勝手に片桐君から離れて、何も言わずに自分勝手に離れていったこと。そのことをずっと、ずーっと悔やんでた。高校に上がって謝ろうって思って、また次に、この次にって先送りにして。そうやって結局は自分から謝りにも行けない自分もずっと嫌いだった。緑さんから聞いたんだ。片桐君が中三になって何があったのか、多分全部」


 そうか緑さんはあのことを知っていたからああいう口ぶりだったのか。

 どこか俺の昔を知っている口ぶりだった。


「あ、緑さんを怒らないで上げてね?私が無理を言って聞いちゃったから」


「私も後で聞こうかな」


 綾香の後ろにはどこかボーっとしている水月先輩がいて、ちゃっかりとでもいうのかそんなことを口にする。


「聞くほどおもしろいものじゃないですよ」


 俺のその言葉には何か理解を示したような顔で水月先輩は返す。

 でも面白いものじゃないのも確かだ。

 俺の独りよがりが生んだつまらない結果なのだから。

 

「それでねどこかつながっちゃったような気がしたの。中学のころとは全くの別人のように噂される高校時代のこと。ごめんね?勝手に分かったような気になって。でもそう思っちゃったの」


「いや、いいよ。確かに一番のきっかけはそれだったのかもしれない」


 ふと考えた時があった。

 俺がこんなにも自分に興味がなくなったのはいつだっただろうって。

 小学校の時水泳をしていたから?

 中学校の時ピアノをしていた時もあったがその時?

 それともサッカーでの最後の試合、その時なのか?って。




 ――なんで


 試合開始のホイッスルが鳴って俺がとっさに口にしてしまった言葉だ。

 ここの景色は今でも覚えている。

 

 同級生の声援がコートには響きわたり、いまにも前進しようとするさなか、背後にはまるで地蔵のように立ち尽くすチームメイトの姿。

 顔は一様に暗く、俺の出したパスは誰とも知れない空虚な叫びをはらんで転がっていた。


 その時に感じてしまったんだ。

 これまでに少しずつ積み重なってきた自分への罪を。

 

 自分が楽しくて熱心にひたむきに取り組んで、あらゆることをいわゆる成功の道まで高めて来ていた。

 そのことに疑う余地なんてありもせず、そのために必要なことはどんな手段でも講じた。 

 でもそこに一切、他人の感情なんて入っていなくて自分に向けられるどんな視線すら意に介さなかったんだ。

 その称賛の言葉も、都合のいい方便も、純粋な嫉妬でさえも。


 これまでが稀有だったのだ。

 水泳、ピアノ、とどちらも一人で、自分の技量だけを研鑽すればそれで。


 でもサッカーは違う。 

 一人じゃない、チームでのスポーツなのだ。

 決して一人で、これまでのように独りよがりでやっていいことじゃない。


 そういえば聞いたことがあった。

 俺のしているサッカーは支配だ、と。

 自分の思ったように戦局を動かすだけじゃない、相手も味方もそのすべてを意のままに支配してしまえるそんなサッカーだと。


 そんなの……愚の骨頂ではないか。

 味方でさえ足を止めてしまうフィールドに立つ無垢な支配者なんて。

 


 だからこれは罪なんだ。

 これまで自分が自分だけを思って生きていたんだから、そんな奴に価値なんかないって、そんな奴は他人を不幸にするだけだって。

 自分を殺す罰を自分に課した。


 そして俺は自分への興味など一切がなくなって、誰でもない俺になった。


 俺がこんなにも自分に興味がなくなったのはいつだったかだって?

 そんなのいつでもない。

 昔からずっと積み重ねてきた俺への罪が、ある日俺に自覚させた、それだけの話だ。


 なんだ、簡単な話じゃないか。

 こんな罰さえ俺は過去に置き去りにして、俺はなんだと自問していたのがばからしい。

 多分、自分を偽って他人の思う俺になろうとしたのも、俺の中の本能が他人のことなど考えられない罪をその境遇に重ねたんだろう。

 俺が俺である以上、その罪は消えないのだから。







「きっとそれは言い訳にはならないって解ってる。私から片桐君に会いに行かない言い訳にも、私が自分勝手に片桐君から離れた言い訳にも。多分私が片桐君から離れなければ、傍にいて片桐君を応援してあげてさえいれば何か変わったのかもしれないから。……ううん、たらればの話はダメだよね。ごめん」


 綾香は時折俺のほうを見ては顔色を伺うかのように語尻を弱める。

 

「でもそうやってなあなあのまま高校を卒業して、結局言葉を交わすこともできないままこれから生きていくんだってそう思ってた。そんな時に片桐くんと再開したの。だからあの時はどんな言葉よりもただ片桐君と話したくて、その一心で話してた。その時にした謝罪だって片桐君にどう思われるのか不安で、これまでに考えてきたどんな言葉よりも、安っぽい謝罪を口にしちゃった。だからその時のことは忘れて、私にもう一回チャンスが欲しいの。おこがましいかもしれないけど、私が片桐君とちゃんと向き合いたいって思ってることを知ってほしいの!」  


 これまで一度でさえ見たことがないほど綾香の瞳には力が込められていた。

 それだけ言っていることの本気度合いが高いということでもあるんだろう。


 かつての俺はその話を持ちかけられたときまるで理由をこじつけるように逃げ出した。

 その日は確かに時間はなかったが話をするくらい動作もないことだった。

 でも結局は自分には話を聞く権利も、向き合う資格もないんだって自分に言い聞かせて綾香の部屋の扉を開けた。


 全く、その通りだ。

 綾香は昔のしがらみからの罪悪感と向き合って、確かに俺への謝罪を改めてくれた。

 でも俺はそれを聞いて何を思う?

 その謝罪を受け入れて、そんな過去があったから今俺たちがいるんだ、とまた綾香を騙してありきたりな言葉で絆してあげればいいのか?

 こんな罪だらけの俺が。


「――ここまでが私が片桐君に話したかったこれまでの話。そしてここからは……ん?片桐、君?」


「俺はそんな風に思われるような人間じゃない」


「え」


「俺は綾香が言うように、変わったんだ。中学の頃の、綾香の思う俺とは」


 急にこんなこと言いだして何がしたいんだ、俺は。

 俺みたいなやつがいっちょ前に自分の見られ方を気にしてるって言うのか?

 ほかでもない綾香には自分がそんな良いやつじゃないんだっていいたいのか?

 それともまた、俺は俺のために昔の自分を重ねられたくないと思ってるのか?


 俺はそんなことを思考もまとまらないままに、唐突に言い出す。

 それでも綾香は表情一つ変えることはなかった。

 まっすぐ俺を見つめている。

 俺はなぜか、綾香をまっすぐに見れない。


「やっと、やっと気づいたんだよ。俺は何者であったのか、何者であろうとしたのか。綾香は高校時代から俺が変わったように噂されてるって言ったよな。あながち間違いじゃなかったよ。きっかけは確かに中三の時、最後の試合だ。でもそれが原因じゃない。俺はもともと罪を積み重ねてたんだ」


 あたかもすべてがつながった気づきを、長年悩み続けてきた問題が解けた数学者のごとくその思考を赤裸々に話す。

 ぽつりぽつりとつぶやくその声が次第に自分に言い聞かせるように深みを持って。

 今の俺は中学のころとは全く違う、他人に無頓着でどこまでも無垢だったころとは違う、罪を背負った姿なのだと。


「だから俺は、綾香にそんなことを思われる資格も、話を聞く権利さえもないんだ」


 

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