19.ホットケーキ盗難事件


 髪を揺らす風に心地よさを覚えつつ、私は鶏肉料理を口に運んだ。一口大に切り分けられた鶏肉を鉄板で焼き、醤油とみりん、塩胡椒で味付けしたものである。これをジョンは焼き鳥、と呼んだが、私は断固として否定を繰り返した。


 街を出てから既に二日以上が経過している。159町。私が二ヶ月ほど滞在していた街を出てからはひたすらに山道を登っていき、辺りは既に町と呼ぶには程遠い自然あふれる景色となった。初めはどんな険しい道を行くのかと気を張っていたが、交通整備に抜かりはなく私たちはほとんど不快感を得ることもなく道を進むことができた。


 今は山道の途中。傾斜も緩やかになり、時刻も正午手前だったことからジョンが昼食休憩を取ろうと提案してきたのである。断る理由もなく丁度近くに休めそうな湖が見えてきた事もあって、私たちはその湖浜にて休息を取ることにした。


 付近の木に繋いでいる馬が私たちの食事を見て鼻を鳴らす。


 さすがに鶏肉をあげるわけにはいかない。そもそも草食である馬は肉を美味しく食べれないだろうに。不満げにこちらを睨む馬を一瞥して、私は肉を口に入れた。しっかりとした歯応えと共に胡椒の香りが鼻に抜ける。


「どうだヒカリ、調味料の加減は」


 自称焼き鳥を焼きながら、流れる汗を袖で拭うジョン。汗に濡れる鱗はいつもよりもギラギラと輝いており、活き活きと料理する彼は心なしか若々しく見えた。


 折り畳み式の真っ白な小型テーブルの上に皿を置いて咀嚼中の口を押さえる。


「塩胡椒の加減がとても絶妙で卓越だと思う。すごく美味しいよ。メアさんの料理にはやはり敵わないけど、ジョンも大概器用だよね」


「へへ、そうか?」


 嬉しそうに顔を綻ばせるジョンを見て私も笑顔を返す。


「でもよそ見してるからちょっと焦げかけてるよ」


「うぉ!? やべぇ!」


 驚き、焦り、あたふたと手を動かす彼を見て私は笑い声を上げた。


 自称焼き鳥は私たちの手によって、そして口によって速やかに平らげられた。ジョンは満足そうに大して変化のないお腹をさすりながら空を仰いでいる。私としてはここにお米があれば更なる満足感を得られただろうが、まあ無いものは仕方ない。


 涼しい風が頬を撫でる。水辺だからか、他所と比較しても過ごしやすい気候だ。メアさんの家では空調を使用しなければ寝苦しい夜が続いたが、ここでなら気持ちよく眠れそうだ。現にジョンはうつらうつらとしていた。


 深く椅子に腰をかけて、私も目をつむる。キャンプ用の折りたたみ椅子の布が伸びる音がして少しだけドキッとする。


 しかしそれでも私は微睡むことを優先した。成る程。これはジョンが睡眠体制に入ってしまうのも頷ける。それほどに、快適な環境に体を預けるというのは気持ちの良いものだった。


 安らぎ、幸福。いや、こここそがユートピア。


「……おい、ヒカリ!」


 体を強く揺すられて飛び起きるように目を覚ます。目を覚ます、ということは私はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。


 辺りを見回すと、視界の色づき方が先ほどよりも少し異なる気がする。数秒の出来事のように思えたが、どうやら数十分、もしかしたら一時間くらいは眠っていたのかもしれない。


 しかし。


 私は恐る恐る巨大な龍人を見上げた。荒い息に身体中から噴き出すように流れる汗、そしてギラギラ光る瞳孔。普段とは似ても似つかない姿の彼が私に迫るように覆い被さる。私は絶句した。肩を掴む手に力が入れられる。


 これは確実に襲われる。そう思った。


「……やっちまった」


 だが彼の言葉はどうにも状況に噛み合わなかった。


「え、ヤっちま……。あれ?」ようやく出てきた言葉に安堵する。いや、安堵していたから言葉が出てきたのだ。


 いやそれはどうでもいい。重要なのはそこではない。


「ううん、何でもない。どういうこと?」


「いや待て、まだ遠くへは行ってねぇかも。でもそんな、うわぁ、どうする!」


「落ち着いてジョン。何があったの?」


 退かせるようにジョンの手を自分から引き剥がし、腰を持ち上げる。卓上にも周囲にも差したる変化はない。馬車も無事。馬は私たちと同様に呑気に瞼を閉じている。


「すまん。……いいかヒカリ、落ち着いて聞いてくれよ」


 先に落ち着くべきなのはジョンでは?


 という野暮な言葉は飲み込む。今は状況の説明が先決だ。


「盗まれた」


 ジョンが真っ直ぐ、馬車の方を指さす。


「俺たちの荷物が、盗まれた!」


 吃驚仰天。いや、唖然失笑と言うべきか。寝起き直後、唐突に「荷物が盗まれた!」と声高々に言われても実感が追いついてこないのは無理のない話だろう。漏れた苦笑を払うように咳払いをしてジョンに向き直る。


「荷物、というと?」


「馬車に置いてた食いもんと飲み物が半分くらい盗まれたんだ!」


「嘘でしょ!?」


 ようやく危機感が追いついてきて、今度は焦燥に囚われた私は確認のため馬車へと急いだ。荷台へと登り鞄を開ける。すると中身の半分ほどがごっそり無くなっており、その事実が彼の発言を見事に裏付けてしまった。


 しかし不思議だ。仮にもし盗まれたのだとして、何故犯人は全てを持ち去らなかったのだろう。それに被害者が言うのも変な話だが、鞄ごと持ち去ってしまった方が早い上に得なはず。それを敢えて鞄から取り持ち出したのは何故なのだろう。


「やっちまったな」俯き加減のジョンが背後から声をかけてくる。「先が思いやられるぜ……」


 意気消沈、と言った様子だ。これほど落ち込んでいる彼を私は初めて見た。


「でも、全部無くなったわけじゃないし、不幸中の幸いじゃない?」


 ジョンが顔を上げる。


「ポジティブだな、ヒカリは」


 そんなことはない。ポジティブ、プラス思考。この類の言葉は私にはとても当てはまらない、むしろ無縁真逆を極めた言葉だ。何が起きようがいい方向に物事を考えたことはないし、自分の行動には後悔しかしていない。過去も未来も、きっと私に明るいものは無いのだとここ数年ずっと信じて生きてきたくらいで、それを自分の力でどうこうするなどおこがましいとさえ感じていた。


 しかし、しかしだ。確かに私はマイナス思考でネガティブだ。気丈に振る舞おうが、他人の上に立とうが、結局変わることはなく私は私のままなのだと思っていた。変わらない、変えられないのだと信じて疑わなかった。


「私が、ポジティブか」少し元気を取り戻したらしいジョンの顔を見る。「変われたってことなのかな」


「俺の知ってるヒカリはずっとこんな感じだったけどな」


 ジョンは感傷的になっている私に気づきもせず、車から身を乗り出して外を見る。


「出来れば犯人を捕まえたいがよ、見晴らしのいい場所だってのに、ここには人一人見当たらねぇ。もうとっくにずらかられちまったって考えるのが妥当だろ」


「えっと、157町までどれくらいかかりそうなんだっけ?」


「予定では明日到着だ。少し節約が必要になるが持つには持つな」


 なるほど。それならば特に問題はなさそうだ。彼も食料が減っている事よりも、盗まれた事自体に不満を覚えているらしく唇を尖らせて何やら悪態をついている。


 海と接触していた159町は風の方向によっては稀に潮の香りがしたが、ここにあるのは湖なので風が吹いても香りはない。二日かけて北西に進んできたが、それまでに一体どれほどの距離を走ってきたのだろうか。これから、どれほどの距離を進むのだろうか。


「とりあえず、荷物をかたして移動の準備を始めるか。手がかりが全くねぇ以上は犯人探しは移動しながらの方が良いだろ」


「犯人探しは諦めてないのか」


「当たり前だ!」奮起したように、音を立てて膝に手を置く。「なめられたままいるのは穏やかじゃねぇんでな」


「今のジョンの発言が一番穏やかじゃないんだよなぁ」


 とはいえ、犯人を捕まえたいという気持ちは私も同じだ。無防備にしていた私たちも悪いが、他者から物を盗むという行為を看過できるほど呑気な性格はしていない。野放しにすればきっと犯人は同じことを繰り返すだろう。理由がどうあれ道徳、人道に背く行為は正さねばならない。


 もしも私たちが見つけることを叶えられたのなら……


「私が正すべきだよね」


 胸元に輝く翡翠色の宝石を見る。


 誰にともなく呟いた言葉は風に乗って遥か遠くまで飛んでいった。

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