第三百八十五話・尾張の医療事情
Side:曲直瀬道三
「先生、ありがとうございました」
「五日後にまた来て」
那古野にある病院では、この日の最後となる患者の診察を終えた薬師の方様が、疲れも見せずに自ら率先して後片づけをされておる。
外を見ると、もう秋を迎える季節となったな。いろいろ戸惑うたが、わしも久遠家に仕えることにようやく慣れたと言えるかのう。
この歳で驚きと戸惑いの連続になるとは思わなんだ。久遠家の噂はいろいろ聞いておったが、仕えてみると噂以上だったと言えよう。
なかなか手に入らぬような高価な薬が豊富にあり、身分や貧富を問わず使える。教授を頂く身でありながら俸禄まで頂き、さらに高価な酒や食べ物が頂けるのにも驚いた。
ああ、なにより驚いたのは、久遠家の医術は足利学校よりも
「この麻酔と縫合は驚きでございますな。これがあれば助けられる命が増えるのでございましょう」
「曲直瀬殿にも使い方を覚えてもらう」
驚いたのは痛みを感じなくさせる麻酔と傷口を糸で縫合することか。大陸の書物にも似たようなものがあったが、久遠家ではそれを平素の医術として確立しておるようだ。
わしは薬師の方様や
この日は薬師の方様の手伝いをしておったが、助からんと思った刀傷の若者を麻酔と縫合で助けておられたからな。素晴らしいとしか言いようがない。
「穢れと病の原因と思われる菌とやらは、やはり別物なのでございますかな?」
「別だと言うとややこしくなるから、同じことにしてある。解釈次第だけど厳密には別だと思う」
「確かに体を清潔に保つことは病に罹りにくくなるようでございますし、穢れと違うというのは説明が難しゅうございますな」
久遠家の考え方で気になったのは、体を清め清潔に保つこと。これは穢れを払うという寺社の考え方と共通する。寺社で穢れを払うのは
ただし久遠家では菌や寄生虫と呼ぶ、病には目に見えぬほど小さな原因となるものがおると考えておる。
寺社の穢れとの違いを明確にせず体を清潔にするように指導しておるのが、不思議というか面白きというか。寺社の教えが正しいと、寺社とは別の考え方の医術を用いる久遠家が認める
「疱瘡の予防接種も広まれば、天地がひっくり返るほど騒がれますぞ」
「今はあまり広めてほしくない。受け入れ体制が出来ていないし、畿内に私たちが行くのは難しい」
「そうでございますな。それは某もお止めになったほうが良いと思います。久遠家の立場を考えれば、お方様がたは人質にされてもおかしくありませぬ」
そう。一番驚いたのは久遠家では秘伝に疱瘡の予防策があることか。畿内に広まればあちこちから求められるであろうが、女の身であちこちに行くのは
武士の中には自身の病を隠したがる者もおる。診察した医師が行方知れずになったという話もないわけではない。
それを防ぐには相応の地位を得るなどして、愚か者が軽々しく手を出せぬようにする必要があろう。
「医術を広めるには世の中が安定する必要がある」
「それは難しゅうございますな。某もあちこち旅をしておりましたが、武士や僧から農民に至るまで気を抜けばなにをしでかすかわからぬのが、今の世でございます」
尾張におると忘れそうになるが、世の中は気を抜いたらなにをされるか分からぬのが当然だ。
織田家と久遠家はそんな世を本気で変えようとしておる。だがわしにはそれが出来るとは思えんのだ。織田家が天下を獲らぬ限りはな。
Side:久遠一馬
「いずれも作付けを増やせば相応の利が生まれますな」
田んぼの稲が黄金色の穂を実らせる頃、オレとエルは湊屋さんと共に牧場に来ていた。
麻・綿花・菜の花などの織田領内に広める作物の試験栽培の状況と、今後の方針を話し合うために来たんだ。
湊屋さんは商人の視点から各種作物の状況と今後について意見を言ってくれる。
まあ試験栽培は史実や宇宙要塞での栽培実績があるのであまり心配はしていない。問題は作物の流出だろう。F1種に出来る作物は当面はF1種にするしかないか。
ただなぁ。あれは種の生産を宇宙でしなくてはならないので、この時代だと輸送が大変なんだが。
「ここの蔵は食糧ばっかりだね」
「うふふ〜。一年分を貯めておく必要があるもの。当然よ~」
牧場の蔵には保存加工してある食糧が大量にストックしてある。夏野菜の瓶詰から乾燥したものにチーズやハムにベーコンなど様々だ。
基本的にはリリーに任せていてオレも具体的な数値は知らないが、織田家で使う分もあるので相当な量がある。
そういえば、知多半島産の馬鈴薯や小豆芋もほとんどこちらに運んできている。佐治さんと育てた領民が食べられるように一部は知多半島に残したけど。収穫の際に試食会をしたら評判がよかったんだよね。自分たちが育てた美味しい作物を自分たちが食べられないのは可哀想だ。
馬鈴薯と小豆芋の販売は戦略上の問題から予定していない。小豆芋は焼酎作りの試験も工業村で始める予定だし、馬鈴薯は凍み芋にしたり粉にしてみる予定だ。
干し芋くらいは作って贈答品として配るのもいいかもしれないけどね。生産分の使い道はすでに決まっている。
「殿様ー! みてみて! 大きいでしょう!!
「おっ、凄いなぁ。重くないか?」
「大丈夫だよ!」
蔵の視察を終えて牧場の屋敷に向かっていると、カボチャを抱えた子供たちが駆け寄ってきた。カボチャも去年と今年で試験栽培してあるんだよね。
ちょうど今日、収穫していたみたいだ。
カボチャも評判がいい。馬鈴薯と小豆芋の生産を優先させて今年は牧場だけで栽培したくらいだけど、来年は佐治さんのところにまた頼むかな。
嬉しそうに収穫している子供たちの姿に。エルとリリーと顔を見合わせて思わず笑みがこぼれる。
牧場からも一定の年齢になると学校に通う子供が出始めた。文字の読み書きはここで教えているが、より高いレベルの教育を受けさせたいからね。
孤児院の子供は増えている。訳あって育てられない子供なんかを引き取っているんだ。
この時代だと育てられないと親が殺してしまうことすらある。幸いにしてウチは余裕があるし、この時代の助産師さんとは医療指導しているケティたちとの交流があるので、ある程度は育てられない子供が出れば分かるんだ。
「そうだ。ポップコーンでも作ろうか? みんな喜ぶだろうし」
「いいですね」
頑張ってるみんなにご褒美あげたいなと考えていると、ふと思いついた。今年はとうもろこしの植える種類を増やしたんだ。保存向きの品種とかさ。
確かポップコーンになる爆裂種のとうもろこしもあったはず。リリーがそのまま子供たちの手伝いに行ったから、おれとエルでポップコーンを作ってみんなに振る舞おう。
作り方は簡単だ。油を引いたフライパンで乾燥させたとうもろこしに火を通すだけ。ただしポップコーンはとうもろこしが弾けて膨らむので、蓋をするなりしないといけないけどね。湊屋さんの期待の目が熱くて、こっちが弾けそうなんだが。
味付けはシンプルに塩でいいだろう。
孤児院の台所でエルと侍女さんたちと一緒に、焦げないように鍋を振り振りしながら弾けるのを待つだけ。
「うわぁ。なにこれー!?」
「美味しいよ。食べてごらん」
「ほんとだ! 美味しい!!」
ポップコーンも出来立てが美味いだろう。冷めないうちに畑で頑張ってるみんなに休憩にしようと声を掛けておやつタイムだ。
食べ盛りだし好奇心旺盛な頃だ。みんな我先にとポップコーンを頬張り驚きと笑顔になる。
ポップコーンはもともとネイティブアメリカンやメキシコの先住民が昔から食べてたって聞くし、この時代ではお菓子というより食事なのかもしれないけど。
「ふわふわだね」
「雲みたい!」
うん? 子供たちの反応で思い出した。綿あめならこの時代でも作れるんじゃないか?
だけど砂糖が高いんだよね。尾張はウチが大量に持ち込むから、まだ安いほうだけどさ。それに精製の進んだ白糖よりザラメが向いてるらしいから、別口で宇宙要塞に頼む必要があるが。
ちょっと考えてみようかな。
この笑顔がまた見られるなら安いもんだ。綿あめ機は清兵衛さんの所で出来るかなぁ?
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