第三百二十六話・三河と土岐家残党
Side:久遠一馬
暦が変わり三月も数日が過ぎた。史実ではこの時期にある事件が起きている。
松平広忠の死亡だ。死因は諸説あり織田信秀の謀略説から病死説まで様々あるが、この世界では史実の三月六日を過ぎても広忠は健在だ。
美濃が落ち着いたこともあり、念のため三河に派遣する忍び衆を増やしたが、今回は空振りだった。エルたちと相談して最悪の場合は三河での戦も覚悟していたんだけど。
「三河もいつ戦が始まっても驚きではございませんな。忍び衆を増やさねばなりますまい」
ただ広忠の死亡がないと言っても、必ずしも状況がいいわけではない。忍び衆の報告では三河の分断は深刻なレベルまで進んでいる。望月さんはため息交じりに三河に派遣する忍び衆の更なる増員を提案してきた。
今川か織田か、それとも中立か。以前から三河攻めの噂があったことに加えて、美濃が落ち着いたことで織田と今川の本格衝突も時間の問題かという見方が多い。
実際のところ今川は東三河を中心に地盤固めを続けてはいるが、戦に発展しそうなことは控えている。ただ、遠江を属国にしてから搾取に近い冷遇をして、三河に支配域が出来ると、遠江の不満を
織田も西三河の矢作川より東の国人衆が誼を求めてくると受けてはいるが、こちらからは取り込みという行為はしていない。
ただ親今川と親織田に分断された三河では、松平一族や国人衆たちがそれぞれに駆け引きを活発にさせている。
「戦は控えたいんだけどなぁ」
「現状は生殺しでございますからな。三河の国人衆としては落ち着かぬのでございましょう」
オレはため息交じりに愚痴るが、資清さんは困った表情をしながらも国人衆の気持ちを代弁する。それはオレも分かる。流れに乗り遅れないようにと、みんな必死なんだ。でもね、オレは国人より地道に生きる人たちが大切なんだよね。
肝心の松平宗家は大人しくなった。織田領と今川領の境界付近の国人衆が互いに領地や水などの利権で争って小競り合いは起きているものの、広忠は出てこない。今川と織田の情勢を見極めたいようなんだ。
実際のところ今戦っても織田は今川に勝てるだろう。ただ被害とか消耗は大きい。そのうえで広がった領地の統治と増えた国人衆の統率は大変になる。
一歩間違えれば織田は史実の包囲網クラスの苦境になりかねない。
今の織田に必要なのは領地の拡大ではなく、既存の領地の基礎的な改革と発展だ。織田家の力はこの二・三年で大きく上がったが、国人衆や土豪の整理と分国法による統治はまだ試行錯誤の段階だ。
商業はそれなりに進んだが、工業はまだ
やっぱり数年は放置したいんだけど、肝心の三河が待てないというのも理解はする。この時代の感覚では、領地の広さがすべてだけど、戦をしなければ領地は広げられないからね。領地の発展や開発などあまり考えていないからな。
発展は領民の自助努力でどうにかしろって考えだから、領地が広ければ広いだけよいという程度の考えなんだよね。
「そういえば、揖斐北方城のほうはどうなるだろうね。ウチのみんなは大丈夫だろうけど、他はどうなるかな」
それと美濃に関しては、まだ揖斐北方城を占拠した土岐家家臣残党の後始末が残っている。六角は信長さんの婚礼に祝いの使者を寄越したし、美濃への介入はないと暗に示している。
六角は細川晴元に反旗を翻した三好長慶の対応で忙しいらしい。信長さんの婚礼の祝いも裏を返せば、三好と組んで畿内に介入されることを警戒しているといえる。
すでに尾張から揖斐北方城への軍勢は清洲を出発している。大垣で美濃勢と合流して揖斐北方城を目指す。大将は織田信辰さん。大垣城の城主をしている人だ。
ウチからはかねてより準備をしていた滝川益氏さんたちを送った。以前にも話したけど、今回は実験的な試みが幾つかある。
今まで信秀さんは自身が出陣して戦をしてきたけど、今回は信秀さんどころか信光さんや政秀さんすら出陣しない。この編成でどこまでやれて、どんな結果になるのか、やってみないと分からないところがある。
特に乱取り禁止などの軍規の維持と、織田家一括管理による兵糧の輸送だ。衛生兵も一部だが参加させ、忍び衆もそれなりに随行させたが、それらの指揮権はウチの家臣である益氏さんに委ねている。
忍び衆に関しては他の人に任せると、使い捨てにされる危険があるんだよね。尾張勢のまとめ役、森可行さんを信頼していないわけではないが、結構いろんな人が行ったし。
まあ、乱取りや抜け駆けなどをするのはある程度想定の範囲内だ。
あと勝てるとは思うけど、負けたり苦戦したら信光さんが援軍で行くことになっている。木砲と焙烙玉は持たせたし、籠城されても時間がかかることはないと思うんだが。
「多少の混乱ならば問題ありませんよ。今後のためにも問題点は出てくれたほうがいいです」
今回の陣容、戦力編成はウチも結構関わっている。益氏さんを派遣したのもあるが、あえて全軍を統率出来そうな人は派遣していない。
これはエルの策なのだが、戦略目標や作戦目標の達成に問題のない範囲で苦戦、あるいは負けるのも必要という進言からだ。
この戦を起こすにあたり、戦略目標は織田の軍制の試金石として、秩序ある軍の確立に向けての問題点の抽出。作戦目標は土岐家を標榜する勢力の美濃からの排除。戦術目標は揖斐北方城を占拠した勢力の排除ないし殲滅。一番の問題を土岐ではなく、織田の家中だと考えるエルの計画案だった。
真意は信秀さんと信長さんに政秀さん、オレやエルたちに益氏さんくらいしか知らないけど。
織田は少し勝ち過ぎている。勝つことに慣れたら危うい。それが今回の戦に際しエルが用意した課題だ。
さすがに信秀さんも驚いていたけどね。どうなることやら。
Side:旧土岐家家臣
愚か者どもが守護様を殺めてから、いかほどの月日が過ぎたであろうか。廃嫡となっておる若殿を新たな土岐家当主に立てて、織田と和解するという連中の策は若殿が拒絶して潰えた。
連中はそれでも守護様を殺めた手柄で織田に降りたかったようだが、織田は守護様を殺めた連中を遇する気はないらしい。
まあ、謀叛人のことはいかようでもいい。ここには直に織田と斎藤が攻めてくるであろう。今は民を動員して揖斐北方城の改築を進めておるが、肝心の民の働きがようない。
織田では賦役でも飯を食わせて報酬を払うと評判で、それと比べてか動員した民は陰で不満をこぼしておる。
勝てぬと思うておるのだろう。だが戦とはやってみなければ分からぬものなのだ。それにここは尾張から遠く
「駄目だ。もっと土塀は厚くしろ」
織田は噂の金色砲を持ってくるやもしれぬ。あれが南蛮渡来の武器なのは承知のことよ。清洲では土塀が役に立たなかったと聞き及んでおる。ここの城も世辞にも堅固とは言えぬ。せめて土塀を強固にしなくば戦にもなるまい。
「おい! また逃げたぞ!」
「追え! 捕らえて必ず斬り捨てよ!」
我らは土岐家縁者を前の守護様の養子として新たに擁立した。もともと廃嫡された若殿に家督継承の権利はないのだ。
にもかかわらず、愚かな民が逃げ出す。改築の
これは女子供を人質に取らねばなるまいな。戦にならなくなる。
武具や兵糧はある。もともと戦の支度をしておったのだ。あとは兵と士気があればいい。
美濃は我らのものだ。蝮や虎などに易々とは渡さぬ。
仮に美濃がやつらに奪われることになっても、武士の意地を最後まで見せてくれようぞ。
来るならくればいい! 蝮め!! 虎め!!
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