第二百八十九話・今川家の憂鬱

Side:今川義元


 呆れてものが言えぬとは正にこのことよ。まさか草として尾張で使っておった東海屋が、勝手な先走りをして織田に捕らえられるとはの。


「たわけ者め」


 美濃との和睦がなった途端にこれじゃ。信秀の謀かもしれぬが、東海屋が久遠に人を潜り込ませようとしておったのは確かなようじゃ。泳がされておったのかもしれぬの。


「三河の引き締めは致しております。仮に織田が攻めてきても易々と三河を渡すことはありませぬ」


「とはいうが勝つ見込みはないのであろう?」


「申し訳ございませぬ」


 金色酒の値が今までにないほど一気に上がったわ。しかも、駿河の商人だけ。織田か久遠か知らぬが東海屋の件の報復であろう。


 桑名を見れば、まだ売って寄越すだけましか? いやらしい手を使うのぅ。いっそ荷留でもすれば戦の口実に出来ように。さすがに酒の値如きで戦を仕掛けるのは愚かなことよ。


 まして勝つ見込みがない戦などごめんじゃ。


 雪斎もこの件は呆れてしまい困り果てた顔をしておる。まさかこの時期に迂闊なことをするたわけ者が現れるとは思わなんだのであろう。


 しかも、肝心の東海屋は織田が処刑しおったわ。こちらは怒りのやり場がないではないか。


 松平もすっかり大人しゅうなったしな。小競り合いでも力の差が明らかになっておるのじゃ。当然と言えば当然じゃが。


「松平は織田に寝返る算段でも始めたか?」


「今のところは大きな動きはありませぬ。松平にとっては竹千代の存在が効いておりますゆえに」


 西三河は織田との戦を望む者が多いと聞く、寝返りを狙っておる者も少なくなかろうの。松平は意図せず織田と今川のいずれが勝っても家を残せることになろうか。


 高みの見物のつもりか? 打つ手がなく諦めの境地か?


 いずれにしても面白くないの。


「北条をせめて中立に出来ぬか?」


「織田以上の利を与えればあるいは……」


「それがあるならば織田とも戦などせぬわ」


 信秀の知恵袋はやはり久遠か? 若いのにたいしたものよ。着実にわしを追い詰めておるわ。


 戦なれば負けぬ戦いが出来もしよう。じゃが織田は戦に出てこぬのじゃ。


 やはり母上の言うように織田と北条との同盟を考える必要があるのか? じゃが斯波が健在なのが気になるの。織田とすれば御輿は斯波でよかろう。斯波はおとなしく傀儡の御輿みこしに座っておるようじゃからの。


 同盟を結ぶ利を織田にも北条にも提示出来ぬか? なにか利はないかの?




Side:久遠一馬


 師走も半ばになると世間は年末の様相ようそうだった。


 清洲平定直後だった去年よりは余裕があるとはいえ、年末が忙しいのは変わらない。商いの清算もあるしね。ウチはいつもニコニコ現金払いだけど、逆にウチへの支払いは高額だから売掛金の回収は凄いことになる。年が越せない人が出ないか、ちょっと心配だ。


 ただ、湊屋さんや望月さんなどの家臣が増えたのでウチは去年よりは余裕がある。去年は三河や大垣の維持すら出来るかどうか悩んでいたからなぁ。


「思ってたより大変そうだね」


 家中で一番大変なところは太田さんの領地だった。人口の約三割が太田家乗っ取りに関わる処罰で島流しと決まったみたい。しかも若い者を中心に。


「若い者は見せ銭を持った真次郎に従うておりましたから……」


 この日は太田さんと一緒に領地を見に来たが、若い者の少なさに太田さんも少し困っている様子だ。


 太田家の乗っ取りに年配者は当初からばちが当たると距離を置いたらしいが、坂井大膳の腰巾着であった太田さんの従兄弟の真次郎は見せ銭で若い者を従えてたらしい。


 年配者はともかく若い者からすると、太田さんの親父さんへの義理も少なく、銭を持っている様に見せ掛けたうえに、坂井大膳の覚えがいい真次郎のほうがよかったんだろうな。銭も威もすべて借り物なのに。欲に目が眩んだのかな。


 領地にある太田家本家の元屋敷にまずは来てみたけど、懐かしいのかなんと言うか、色んな思いがあるんだろう。太田さんは少し無言で屋敷を眺めていた。


「又助様!!」


「おおっ、九郎爺か!?」


 オレとエルはそんな太田さんの邪魔をしないように屋敷の庭を歩いていたが、腰の曲がったかなり年配のおじいちゃんが精一杯駆けてくると太田さんの顔に笑みが浮かぶ。


「息災であったか?」


「はい。おかげさまで。持病も久遠様のおかげでだいぶ良うなりました」


 再会を喜ぶ太田さんに紹介されるが、このおじいちゃんは親父さんの郎党だったらしい。本家一家皆殺しの後、歳だからと隠居して家業の田んぼを息子さんと耕して暮らしていたらしい。


 オレは知らないが病院の常連さんらしい。パメラなら知っているんだろうな。


「ご領地を取り戻せてようございましたな」


 このおじいちゃんに話を聞くが、太田領は太田さんの親父さんの時代とは大きく変わったらしい。


 親父さんの時代の庄屋なんかは、全員が追放されて田んぼを取り上げられたり、殺されたりしていて、今は真次郎に従順だった者が庄屋だという。まあ、その庄屋も庄屋本人は連座で島流しがすでに決まっているらしいけどね。


 しかも真次郎は領地を召し上げられた後にも、若い者を連れて『税を納めろ』と言って、最近まで賦役で得た銭を領民から奪うことがあったらしい。


 このおじいちゃんは真次郎が死んで喜んでいるが、領民には複雑な思いの人もいるんだろうな。


「こういう場合どうなるの?」


「主に村からの追放でございますな。ここまで酷いことはそうはありませぬが、家督継承の際の揉め事はよくありますゆえに」


 おじいちゃんはすぐに領内の長老衆を集めると走っていったが、今の庄屋一族を追放すると息巻いているんだけど。いいのか?


 オレは村の仕来りとか詳しくないから太田さんに聞いてみるが、それが当然だという感じだしオレやエルが庇うのも変だ。




 長老衆を集めての話し合い場の空気は対照的だ。今にも死にそうな顔をしてる者たちと、三年前の仕返しだと息巻く者たち。


 というか、オレなんで上座で座っているの? ここは太田さんの領地だよね。ちょっと様子を見るだけのつもりだったのに。


 エルに助けを求める視線を送るが、我慢してほしいという顔をされた。


 どうも三年前の追放されたり殺された者の親族が、今の庄屋一族を許すなと怒っているみたいだ。


「殿、よろしゅうございますか?」


「又助殿の領地なんだ。又助殿が決めるといい」


 結局、あっという間に今の庄屋一族の追放が決まった。最後に太田さんがオレの意見を求めると長老衆が一斉にオレを見た。


 当然だと言いたげな者もいれば、助けを求めるような者もいる。ただ、オレが村の今後のために太田さんが認めた決定をひっくり返すのも出来ない。


 今の庄屋一族も従わねば生きてこられなかったのかもしれない。とはいえ亡くなった太田さんの家族に義理を通した九郎おじいちゃんみたいな人もいる。


 あの真次郎のもとでは、相当苦労したんだろう。彼らを大切にする必要がある。


 オレが助けないと理解した今の庄屋一族は絶望したようにうなだれるが、本当にオレが口を挟む問題ではない。




「エル、難しいね」


「仕方ないですね。ここで彼らを助けると又助殿が困ります」


 話し合いが終わりようやく解放されたオレは思わずエルに愚痴ってしまうが、やっぱり仕方ないんだろうな。ここで下手なことをすると村のコミュニティを崩壊させかねない。


 若い家臣たちの勉強の前にオレが勉強しなきゃいけないのか。


 というか坂井大膳と真次郎を何発か殴っておくべきだったかも。面倒な問題を残しやがって。


「殿、村の衆が歓迎の宴を開き、殿をお迎えしたいとのことでございますが……」


「うん。参加していいなら参加するよ」


「ではお願い致しまする。皆、殿がお越しくださったことで、お目に掛かれるのを楽しみにしておりますので」


 問題は他にもある。新しい庄屋の選定は太田さんに任せるとして、領民が足りなくないか? 出来れば農業改革もして、ウチが直接管理しないモデルケースになればいいんだけどな。


 まあ、それは追々だな。今は領民が開いてくれる歓迎の宴に顔を出さないと。


 こんな時代だからこそ、コミュニケーションって大切なんだよね。


 歓迎の宴を知らせに来た太田さんの表情は明るい。ここは太田さんの本貫地、出生地なんだもんな。


 取り返せて嬉しいんだろう。恨みはすべて真次郎と坂井大膳に押し付けようかね。




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