第百九十七話・虎と幻庵
side:織田信秀
それと、随分と若い小姓が控えておる。忍び衆の報告ではただ者ではないようだ。当人や周りは隠しておるつもりらしいが、長綱以外はまだまだ甘いな。
旅先でもただの小姓にしては周りの扱いが違うようだからな。北条一族の子であろう。
長綱め、食えぬ男のようだな。
「さすがは関東にまで名を轟かせておる弾正忠殿ですな。老骨にむち打ち来た甲斐がありました」
型通りの挨拶を済ませた長綱は旅の話を始めた。
小田原から駿河の様子は口にせぬが、駿河からは尾張まで陸路で来たようだな、今川領の安定した様子を語りながら尾張の話に移るか。
自らこちらが望むようなことを話す。なるほど。北条が強いわけが分かる気がするわ。
「飢えぬように民を食わせておるようで、某も感服致しました」
「口の悪い者は織田は銭を出さねば、賦役も出来ぬと言うがな」
「なんの。無益な戦をせずに食わせるのは、理想でございましょう」
尾張に話が移り、最初に言及したことは民を食わせておることか。南蛮船や金色砲の話でないところに少し驚きを感じる。
知っておるのであろうな。民を食わせる利を。尾張の中でさえ無駄だと考える者がおるというのに。
「民を思いやるは伊勢宗瑞公もしたこと。今更、珍しくもあるまい。領内の検地など、北条家には学ばせてもらっておる」
一馬が長綱を欲しいと言うたのも分かるな。検地のこともそうだ。北条の出自である伊勢家は都にて政所執事をしておる家柄だ。
力で治めるのではなく、
「弾正忠殿にそう言っていただけるとは、亡き父も喜びましょう」
さて、北条はわしになにを求めるのやら。
side:北条幻庵
織田弾正忠信秀。やはり並の男ではないか。
この場にて父上のことを持ち出すとは。これで北条の織田に対する心象は変わる。西堂丸を連れてきて良かったわい。
半分は世辞かもしれぬが半分は本音であろう。領内を見ていると思い当たる節はあるからの。
「凄い……」
「ほう。これはまた……」
守護の斯波様への目通りは明日になった。今宵は弾正忠殿と平手殿などと会食することになるようじゃ。
まずはと運ばれて来たものが目に入れば、途端に西堂丸め、不調法にも声を出しおって。素性を明かさぬという約束を忘れたのか。
だが、それも仕方ないの。運ばれてきた酒は見知らぬ徳利に入っておった。透明で中の金色酒が透けて見えるあれはなんなのだ? 焼き物ではあるまい。
「ささ、
「これはいかなる品でございましょう?」
「それは
「素晴らしい。金色酒とはこれほど美しいものだったとは……」
硝子の
「これは……」
膳が運ばれてくる。
明や南蛮の料理が尾張にはあると聞いたので期待したが、料理は一見すると関東と変わらぬの。いや、味噌汁は色が少し違うか。
なんだ? この味噌汁は。そもそもこれは味噌汁なのか!?
家臣や西堂丸もざわつき、顔色が変わっておるわ。
味噌の風味はある。されど塩辛さなどの雑味はない。なにかの奥深い味はあるが、まさかこの歳で一杯の味噌汁に驚かされるとは。
しかも具は鮭ではないか!? 高価な鮭を贅沢に味噌汁の具にするとは。だが、美味い。鮭の味がなにか分からぬ深みに絶好の彩りを
「それは
「ほう。それは知らなんだ。尾張にはかように美味い料理があるとは……」
「いや、今宵の料理は久遠の差配によるもの。某や殿も初めてでございますな」
姿が見えぬので残念に思うておったが、まさかここで久遠の名が出るとは。
若さを
料理とはただの飯ではない。その者の生まれや知恵や暮らしに通じるというもの。
「これもまた味が違いますが、味噌ですかな?」
「今宵は味噌で趣向を凝らしました。久遠家には某も知らぬ味噌が幾つかあるようでしてな」
当然ながら、汁だけではなかった。
魚は鯛のようじゃが味噌漬けにしてある。じゃが、その味噌が甘くてなんとも言えぬ美味さじゃ!
鯛の味を決して損なわぬこの味噌は、汁の味噌とまったく違う代物ぞ。
むっ!? 菜もやはり違うの。こちらは少し辛みがある。野の菜を焼いたのか? いやこれは油か? 少し辛みのある味噌がまた野の菜の甘さによう合う。
じゃが、この細く短い野の菜はなんであろうか。
「それは
なんと! 毛也之を料理に使うのか!?
歯応えがよく確かに美味い。贅沢というならばこれほど贅沢な使い方はそうはあるまい。
腹も膨れ、心地よい酔いが僅かに回る。良かった。本当に来て良かった。
これは自ら来なければ決して分からぬものであったろう。
ただ銭があるだけではないな。織田を敵に回してはならぬ。なにがあろうとな。
殿との約束を破ることになってしまうが、西堂丸には明日にも正式に挨拶をさせるか。ここで友誼を築いておかねば、後々に関わる。
side:北条新九郎氏親(西堂丸)
大叔父上の小姓のふりをして尾張に行けと父上に命じられた時は、正直驚いた。
当然ながら母上や
今川は母の里ということ以外はよく知らぬが、織田は知っておる。船で酒や砂糖を持ってくるところだ。
男たちは酒が飲めると喜び、女たちが甘い菓子が食べられると喜んでおったからな。
旅は驚きと楽しさの連続であった。
だが、貧しき村や荒れ果てた田畑を見た大叔父上は、いかんとも言えぬ表情をされておられたな。
他国の、しかも少し前まで敵対しておった今川の領地であり、他の者も奇妙に感じておった。されど、世が乱れねばここも穏やかな村だったかもしれぬとおっしゃった時には、皆が大叔父上を尊敬しただろう。
そして目的地の尾張は、相模や駿河とはまったく違っておった。
民は武士を信じ、武士は民を守り食わせておる。曾祖父の宗瑞様のようだ。と大叔父上が呟いた時、皆が驚いておったほどだ。
荒れた田畑を皆で直しておるのも、織田領に来て初めて見た。
また、病院なる大きな診療所では、武士から民に至るまで、富める者も貧しき者も分け隔てなく医者による治療が受けられる。かような様子を己が目で見た時には、にわかには信じられなかったほど。
北条は織田より劣っておる。そう言われたようで悔しかった。
『そなたたちもよく見ておくがいい。いずれ、そなたたちは織田と戦うか同盟をするか従うか、選ばねばならぬ時が来るであろう』
大叔父上が病院なる診療所と学校なる学びやを見て、おっしゃった言葉が忘れられぬ。
北条はいつか織田と戦うのか?
負けぬ。絶対に負けぬ。
されど戦をせずに済むのなら、それもまたいいのではあるまいか?
分からぬ。決めるのは父上や大叔父上だ。
だが……いつか北条を継ぐ時が来たら、相模をこんな領地にしたい。そう思える。
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