第百九十三話・酪農の始まりと望月親子

side:久遠一馬


「うわぁ、へんな牛だ!」


「お乳がいっぱい出る牛なのよ~」


 夏も半ばを過ぎた頃、牧場村では子供たちが騒いでいる。


 表向きは南蛮から買い付けたことにして、宇宙で飼育していたホルスタイン種とジャージー種を船で運んできたんだ。


 いや、買い付けようかと思ったけど、牛は宇宙で飼育してたし。DNAも同じだからいいかなって。


 子供たちは特にホルスタインの白い体に黒の模様が珍しいようで騒いでしまい、リリーが嬉しそうに説明している。


「南蛮の牛か」


「ええ。牛の乳の消費量が結構増えたので取り寄せました」


 信長さんに至っては子供たちと一緒に、黒の模様が汚れでないのかと洗って確かめているね。どっかで聞いた逸話に似てるなぁ。


 牛乳はこの時代の人は基本的に飲まない。ただ、ウチの家臣や牧場村では飲むし料理にも使う。面倒だから薬になると言ってあるけど。


 最近では信秀さんたちも飲むようになったみたいで、信秀さんの子供たちにも飲ませているんだとか。定期的に牧場村から清洲に牛乳を献上しているからね。


 あとはチーズやバターなんかは結構料理にも使うから、本格的な酪農を始めることにした。在来の牛も飼っているんだけどね。牛乳を搾るならホルスタインとジャージーがいい。


 本当は肉牛も飼育したいんだけどね。いきなりあれもこれもと増やしても大変だからさ。


 ああ、前に持ち込んだヤギも元気にしている。でも、ヤギ乳はあんまり美味しくないんだよね。この時代の人は気にしないけど、オレは少し癖が気になる。


「牛の乳は美味いな。この前の海老の焼き物のタレはあれを使ったのだろう?」


「そうですよ。若様は他にも知らぬ間に食べていますし」


 信長さんはお酒より牛乳が好きみたいだ。それに穢れとか全く気にしないし、ウチで出した料理は中身を聞く前に食べちゃうからな。


 オレたちが食べるなら大丈夫だろうと考えているみたいで、細かいことは気にしないらしい。


「ここの者たちも見違えるようになったからな。捨て子だったようには見えぬぞ」


「みんな育ち盛りですからね」


 信長さんばかりか信秀さんまでもが牛乳を飲むようになった訳は、牧場村の子供たちが原因にある。


 孤児院の子供たちは基本捨て子だ。当然、来た時は栄養が足りずにガリガリだったりするけど、数ヵ月で見違えるように元気になっているんだよね。


 顔色もよく肌艶もいい。オレはちょくちょく来ているからあまり実感ないけど、たまに来る信秀さんとか政秀さんはびっくりする。


「ここの者はそこらの武士よりいいものを食うておるからな。羨ましいくらいだ」


「そこまで贅沢はさせていないんですけどね」


 羨ましいと語る信長さんは冗談ではないように見える。他にもいいものを食べさせていると言う人は多いけど、実際にはそこまで贅沢をさせていないんだよね。


 乳製品と卵。それと肉と魚とかは食べさせているけどさ。乳製品と卵や肉はこの時代の人があまり食べないだけだし、魚は下魚と言われるような魚とかも食べているんだ。


 調味料は確かに醤油とか高級品なんだろうけど、ウチの商品は基本原価はあってないようなものだからね。


 そもそもここの子供たちはウチの教育を受けた子供たちなんだ。この先、活躍してくれるだろう金の卵になる。そう考えると安いくらいだ。


 もっとも、尾張の食料事情はここ以外でも着実に改善している。


 一番の理由は、この時代にはなかった大型の網をあちこちに貸し出したことで、魚の漁獲量が増えて値段も下がったことだろう。


 特に肥料にするつもりだった干した鰯は、安いから農村なんかでも干物として食用に買える値段になっている。


 賦役もあちこちでやっているから、銭は農民にも回っているしね。


 雑穀に山菜や野草を入れた雑炊が主食の農民も、最近では魚が食べられると喜んでいるんだ。


 元の世界だと煮干しになるような魚なんだけどね。ありがたいって感謝されると、どうしていいか分からなくなるところもある。




side:望月千代女


「父上。また人が増えましたね。さすがにそろそろ騒ぎになるのでは?」


 お方様の供として伊勢から戻ると、また甲賀者が増えています。そのうち、五十三家の出身者が揃いそうな勢いになります。


 尾張でも久遠家に甲賀者が多いのは有名で、中には良いのかと疑念を抱く声もなくはないようです。


 もっとも織田の大殿と若様は、まったく気にしておられぬようでございますが。


「六角家には新たに硝石を売ることになった。甲賀衆の引き抜きとは関わりないことであるが、こちらに文句は来るまい。甲賀の里に対する締め付けはあるかもしれんがな」


「まだ人が足りぬのですか?」


「ああ、足りぬ。久遠家の商いはすでに東は関東から西は畿内まで広がっておる。この先まだまだ広がるのだ。とても足りぬよ」


 さすがに甲賀衆が集まり過ぎているのではと不安になりますが、まだ足りないとは……。


 しかも硝石を売ってまで黙らせる。殿も本気で甲賀衆をまだまだ求めているということでしょうか。


「甲賀のほうは大丈夫なのですか?」


 今や甲賀衆は食うに困れば尾張に来ている気がします。同じ忍び働きならば久遠家のほうが待遇も報酬もいいのです。当然のことですが。


「今のところ領地を捨てたのは滝川家のみ。それに三雲のように六角家に近い家からは来ておらん」


「しかし、甲賀の望月家からもまた人が来たのでしょう?」


 望月家でさえ甲賀から来る者が増えました。叔父は所領を守るつもりのようですが、残念ながら久遠家での暮らしと待遇を比較すると、あの所領を守りたいのは年寄りと重臣くらいかもしれません。


 仮に私に所領をやるから戻れと言われても、断固お断り致します。


「六角の御屋形様は所領を維持さえすれば文句は言うまい。所領を捨てたところで、待遇を変えてまで引き留めるのは六角家では難しいからな」


 皮肉なことなのでしょう。甲賀衆を一番お認めになられているのは六角の御屋形様ではなく、我が殿なのですから。


 ここに至っても六角家では甲賀衆の立場は変わらず。久遠家としては好都合なのでしょうね。


「尾張者もようやっておるが、いかんせん若い者ばかりなのだ。久遠家譜代の者は本領の維持と船による交易で精いっぱいとなれば。八郎殿の苦労がよく分かる」


 久遠家の弱点はやはり人がいないことですか。


 手広く商いをしているのです。日ノ本の外にも各地に拠点があるのでしょうし、人が足りないのも仕方ありませんね。


「どうなるか案じておりましたが、八郎様とは上手くやっているのですね」


「家中で争う余裕などないわ。それにそなたとて自ら禄を貰っておるではないか。争う暇があったら仕事をしたほうが銭になる」


 久遠家ではいろいろと変わっております。所領らしい所領が尾張にないこともあり、禄はすべて銭で頂きますが、父上が望月家として頂く禄の他にも、各々で働いて貰う禄があります。


 私も殿から禄を頂いておりますが、他の殿方に負けぬほどの禄を頂いておるのです。


 滝川家も望月家も、皆が自ら働いて禄を得ていますからね。無用な争いがないのは本当に良かった。


「それに八郎殿は人に仕えるのに向いておる。忍び働きよりもな。殿と家中を上手く繋ぎ纏めておるのは八郎殿だ」


 八郎様は武芸も忍び働きも、あまり得意ではないと以前おっしゃっていました。しかし、久遠家を纏めているのは確かに八郎様です。


 考えてもみれば八郎様も主らしい主に仕えたのは、初めてなのかもしれません。甲賀衆はそうによる合議で動きます。従って一族を代表するような身分でもなければ、六角の御屋形様に直接仕えることはありませんから。


「皮肉ですね。甲賀にいれば生涯明らかにならなかった才なのでしょう」


「ああ。織田の大殿や若様も、八郎殿を高くお認めになられておる。織田一族の中にも久遠家に家老を出したい者はおるが、すべて止められておるからな」


 八郎様の待遇と評価は甲賀でも話題になっていました。余所者である一介の陪臣が、頻繁に大殿に目通りが叶うのは驚きですから。


 この先も甲賀から人は来るでしょう。


 ただ、いつか織田家が六角家とぶつかると、甲賀衆は敵味方に分かれることになりそうですね。


 その時に裏切り者が出ねばいいのですが。




◆◆

 天文十七年、夏。久遠家が欧州から牛を取り寄せたことが『織田統一記』や『久遠家記』に記されている。


 日本では武士の台頭により途絶えていた、乳製品や牛乳を飲むことを再開させたのは久遠家であり、当初は薬として飲まれていた。


 薬師の方こと久遠ケティの推奨もあり、織田家では早くから飲まれていたという。


 当時取り寄せた牛はホルスタイン種とジャージー種のようだが、詳しい入手ルートは不明。


 この二種は現在も日本圏ではお馴染みであり、長い歴史の影響か欧州の同種の牛とは別物と扱われている。




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