第百八十六話・大湊の戸惑いと伊勢神宮
side:伊勢商人
「丸屋? そんな店があったか?」
「雑穀を扱っておる商人だよ。商いが下手な商人なんだがな。久遠様が気に入られたらしい」
「おいおい。いったい、なにを贈ったんだ?」
「いや、それがなにも贈っておらぬようだ。丸屋はせいぜい土豪が相手の商人だからな。会合衆もまったく注目しておらなんだようだ」
なにを考えておるんだ? 久遠様は。
会合衆以下、多くの有力な商人があれこれと高価な贈り物をしておったと言うのに。何故、あのような商人などに……
「掛け値もせぬし転売もせぬからな。貧乏人には評判が良かった奴だ。もしかしたら、そこを気に入られたのかもな」
よくそれで商いが成り立つな。貧乏人などを相手にすれば店の格を疑われるだけであろうに。
「だが、そんな奴に尾張との商いが出来るのか?」
「船は久遠様が用意するらしい。現に今も湊にある南蛮船に積む荷を任せたという話だ」
「信じられぬな。やれるとは思えぬ」
「会合衆が力を貸すらしい。出来ませぬと言えば、大湊全体の商いに関わるからな」
丸屋がいかなる男か知らんが、荷を集めるには相応の力と顔の広さが必要だ。あの巨大な南蛮船に積む荷となると、よほどの商人でなくば神宮から戻られるまでには集められまい。
会合衆もあてが外れてがっかりしておるだろう。
「金色酒の転売が面白うなかったのか?」
「さあな。久遠様の心中は分からん。もしかすると、先の戦の一件を未だに気にしておるのかもしれん」
「我らは信用されておらぬと?」
「お前が久遠様の立場だったら信じるのか? 互いに敵には回しとうないから商いはするが、先の一件にまったく関与しておらぬ、丸屋のような実直な商人を使いたい気持ちが分からんでもない」
確かに織田様と服部の戦では、幾人かの商人が服部に肩入れしたからな。会合衆の中にも助力して者がおったことも騒動を悪化させた。
言われてみると、わしでも信用はせぬだろうな。
大湊の商人の中から誰と取り引きをしようが久遠様の勝手か。伊勢詣りの礼を景気よくばら撒いておっても、締めるところは締めておるということだな。
さすがに明や南蛮と商いをするお人は違うな。
side:丸屋善右衛門
「凄いではないか!」
「久遠様と直接取り引きを許された商人は、大湊でさえも幾人もおらぬのだぞ!」
商人の変わり身の早さは呆れるほどだな。
先日までは、己は商いを知らぬ。己のやり方は商人ではないとまで言うておった者たちが、手のひらを返したように態度が変わった。
すべては大湊に来ておられる織田様一行が、突然わしの店にやって来られたことが原因だ。商人でなくとも大湊において知らぬ者などおらぬ、久遠様と噂の南蛮の奥方まで来られた。
わしは大湊でも変わり者と言われる程度の商人でしかないというのに。
聞けば、これを機会に久遠様と直接商いを願う者は会合衆にすら多いと聞く。大湊の商人は、大半が尾張の商人を介して取り引きをしておるようだからな。
それがふらりとわしの店に来られて、商いをあっさりと決められた。その事実がよほど驚きだったのだろう。
「おい、ウチにも金色酒を卸してくれよ!」
「ウチの品物を売ってくれ!」
困るのは、あれからろくに親しくもない商人らが、当たり前のようにわしのところに来ることか。
「商いは現物を見てからだ。それと掛け値をする者や高値で転売する者には売らん」
「おいおい、それじゃ儲けられぬぞ!?」
「うちにこの商いが久遠様より来たということは、そういうことだ」
昔から気に入らなかった。相手を見て掛け値をするのも、高値で転売して暴利を得るのも。
騙して当然。騙されるほうが悪い。商人同士の取り引きにおいても。そんな商いが当たり前で誉められることが気に入らなかった。
わしの父は同じ大湊の商人に騙され損をさせられて、苦労の末に早死にしたんだ。だからわしはせめて人を騙さずに公明に商いがしたいだけのこと。
久遠様は帰りがけに言われた。今のままで商いをしてほしいと。わしはようやく認められたのかもしれん。
「帰ってくれ。わしは久遠様の船に積む織田様の荷の選別で忙しいんだ」
それとわしはもうひとつ頼まれておる。織田様一行が乗って来られた、南蛮の船に積んで帰る荷を集めて、ある程度でいいから選別してほしいと頼まれたのだ。
久遠様が相手ならば、高値で売ろうと欲を出しておるたわけ者も多いのだろう。
わしの店の在庫だけでは到底足りぬな。湊屋などの会合衆にも声を掛けねばならん。神宮から戻られる前に目処をつけねば。
side:久遠一馬
一日遅れで伊勢神宮に到着した。それにしても、この時代の神社って本当に広いね。
ただ、結構寂れているように見えるといえば失礼になるのだろうか?
伊勢神宮で有名なのは二十年に一度の式年遷宮だろう。元の世界でもテレビでやっていたから、なんとなくならオレも知っている。
確か百年ほど前の応仁の乱のせいで、式年遷宮は中途半端のまま途絶えてるんだよね。信秀さんがお金を出したのは外宮の仮殿、つまり本来の遷宮ではなく仮の社の費用になる訳だ。
その外宮は史実だと一五六三年。今から十六年後にようやく遷宮が出来るはずだとエルは言っていたね。
内宮と外宮にその他の社殿の遷宮を正式に復活させたのは、史実の織田信長になる。もっとも史実の信長本人はそれを見ることなく、本能寺で亡くなったけど。この世界では信長さんどころか、信秀さんが見られそうだ。
「ようこそおいでくださりました」
伊勢神宮からはわざわざ出迎えの人が来てくれた。
それにしても建物の修繕費にすら困っているというのは事実だったのか。史実では社殿の中には維持出来なくて廃絶されて、江戸時代に復興再建したものがあるとエルが言っていたし、ある程度想像はしていたけど。
「南蛮の方は初めてでございますな」
「駄目か?」
「いえ、特にそのような決まり事はございません」
案内役の神職の人に連れられて境内を歩くが、やっぱりエルたちの姿にはビックリしている。
まあ南蛮人は駄目なんて規則は当然ないよね。想定していないんだから。
「少し荒れておるところを見ると、苦労しておるようだな」
「織田弾正忠様のおかげをもちまして、外宮はなんとか仮殿を建てられました。ですが他は御覧の有り様で。皆も寄進を集めたりと励んでおるのですが」
伊勢神宮の側の対応は丁寧だ。
ただ信長さんは、自分が思っていたより荒れていたのか、少し驚いているみたい。津島神社と熱田神社がウチの商いや寄付で最近は景気がいいからね。
もちろん伊勢神宮も無策で待っているだけじゃない。
とはいえ、護国の伊勢神宮を運営するには、本来は国家の援助が要るんだけどなぁ。
どっかの宗教の総本山みたいに、金貸しでボロ儲けしないだけ好感は持てるけど。
「
信秀さんが建てた外宮の仮殿と内宮をお詣りして、休息にと案内された屋敷で、オレたちは伊勢神宮に寄進と奉納品と供物を納めた。
寄進は銭で三百貫。全部良銭だから価値はあるだろう。
奉納品と供物は、鏡や白粉など朝廷に献上したのと同じものに、金色酒・清酒・砂糖・蜂蜜・鮭・昆布・絹織物など種類も量も増やした。目録と三方に載せた見本品を神前に供えてもらう。
奉納品や供物は量が多いので一度では運びきれなかった。残りの分は大湊に頼んで、馬借に順次運んでもらっている。
「これほどの寄進を頂けるとは……」
寄進の銭は当然オレたちで持ってきたけど、驚いてくれたらしい。応対してくれたのはかなりの身分の宮司さんらしいけど、金額にざわついた。名義はもちろん信秀さんだ。
寄進をするなら驚くくらいじゃないとね。奉納品や供物の分はウチが負担したけど、織田家としても伊勢神宮は重視している。
実際に伊勢神宮に寄進しても、田畑が増えるわけでも城が建つわけでもないから、軽視している武士も多いんだと思う。
でも、天下に色気を見せる前の寄進は後々に影響するはずだ。いわゆる天下を治めるための人気取りと思われないで済む。
幕府はともかく朝廷を重視する姿勢は今から見せておかないと、将来、もし宗教を下準備もなしに敵に回したら大変なことになる。
さあ、あとは旅を楽しむだけだ。
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