第百八十五話・旅先でのトラブル
side:久遠一馬
滞在四日目。やっと伊勢神宮への奉納品や供物を船から降ろし終えたので、いよいよ伊勢神宮へ出発だ。
もっとも大湊に配る荷物はまだ降ろしている最中なので、そこは一益さんに任せた。大湊の商人がよほど馬鹿なことをしない限りは問題ないだろう。
最悪の場合は船で逃げろと言っておいたけど。逃げないだろうなぁ。船を乗っ取られそうな場合は、沖合で待機するようにと命じたけど。
連れてきた人員のうち五十人は船の守りとして残す。同行する護衛は百五十人。あと大湊の会合衆が案内役として付けてくれた五十人ほどがいるので、計二百人の護衛になる。これに荷運びの馬借と馬が加わり、最後にオレたちを入れた大行列だ。文字通りの大名行列だね。
オレたちが乗る馬とかは、すべて大湊の会合衆からの借り物だ。
大湊から伊勢神宮は近い。荷物を運びながらゆっくり進んでも半日で着くそうだ。
江戸時代にはお伊勢詣りが流行ったというけど、この時代だと庶民が旅をすることはあまりない。旅をする商人や職人に僧侶などが、お詣りに来ることはあるみたいで、それなりの人とすれ違うけどね。
「ええい!
「なにをしておる?」
ポックポックと馬の歩く音を聞きながら、少し眠気が込み上げてきた頃、行列が止まって前方で怒鳴る声がした。信長さんが何事だと確認をする。
「はっ。申し訳ありませぬ。
「神宮の面前で病人を見捨てる気か? ……ケティ。診てやるがよい」
どうも案内役の男が、道を塞いで倒れていた妊婦さんに退けと言ったみたいだ。
そのあまりに乱暴な言葉に信長さんは不快そうな表情を
でもまあ信長さんも言い過ぎないように言葉を飲み込み、ケティに治療を命じた。他国ということもあるし、少し大人になったのかな?
「ここじゃ駄目。近くの民家に運ばせてほしい」
「はっ、すぐ近くに村があります。そちらに参りましょう」
妊婦さんの容態はあまり良くないらしい。ケティは案内役の人たちに処置するための場所への移動を頼むと、会合衆から付けられた案内役のトップの人が即決した。
信長さんは相変わらず不機嫌そうだからね。御伺いをたてる前に決断したんだろう。
「神宮には遅れると使いを出しました」
「お手数お掛けします」
近くの民家に妊婦さんを運ぶと、驚く村の人たちに事情を話して、さっそくケティとエルたちに侍女の皆さんが妊婦さんの治療を始めた。
伊勢神宮にも事前に行くと連絡していたからね。遅れると連絡してでも治療を優先する。荷は先に運んで、荷運びの人たちは仕事を済ませてもらう。オレたちは目録を参拝時に渡すだけだし。
普通はここまでやらないんだろうな。案内役の人たちは驚いている。
「このまま出産しなくてはなりません。いかがなさいますか?」
「構わん。急ぐ旅でもないのだ」
しばらくするとエルが民家から出てきて報告をするが、信長さんも付き合うつもりらしい。
信長さんは先程、村の人に妊婦さんの家族を呼びに行かせた。どうも近くの村の妊婦さんみたいで、この村の人たちも顔見知りらしいからね。
「あの、この度は本当に申し訳ございません」
「よい。気にするな。すべては神宮の
妊婦さんの家族は息も絶え絶えで、慌てて来たかと思うと、即、土下座をした。どういう説明をされたのか知らないけど、少し申し訳ないことをしたね。
天気もいいし、ちょっとした日向ぼっこみたいにのんびりしてたオレと信長さんは、不謹慎にもそんな家族を見て思わず笑ってしまった。
そのまま待っている途中、村の人たちが出してくれた心尽しの握り飯を食べて待っているけど、かなり気を使わせちゃったみたいだね。大湊に人をやり村へのお礼を用意しないと。
「そのほうの妻は運がよい。ケティは日ノ本一の医師ぞ」
ケティの治療と出産は日が暮れても終わらなかった。難産なんだろう。オレたちはこの日は村に泊めてもらうことにした。
妊婦さんの家族はとても心配そうだけど、武士の奥さんが治療をしていると聞いてどうしていいか分からずに困惑してる。
意外に冷静なのは信長さんだ。そんな家族を落ち着かせるように声を掛けてあげている。こういう時は本当に人の器が試されるね。
「オギャア! オギャア! オギャア!」
そのまま時は過ぎて赤ちゃんの産声が聞こえたのは、翌朝の日の出が間近な頃だった。
「産まれました。元気な男の子です」
「そうか。ようやった」
すぐに侍女として同行していた千代女さんが知らせに来ると、起きていた信長さんやオレに加えて、眠っていたみんなが起きて喜びの声をあげた。
子供は宝という感覚なのだろうか? 妊婦は穢れとかいう時代らしいが産まれるのは嬉しいんだろうね。
「本当にありがとうございました。あまりに少なくて申し訳ないのでございますが、私どもにはこれしか払える銭はありません」
「銭はいらぬ。神宮の
子供が産まれてホッとしたのも束の間、妊婦さんの旦那さんは改まってぼろぼろの布に包まれた
明らかに貧しそうだ。日々の暮らしが精いっぱいの人から報酬をもらうのは忍びない。
ひとつ気になるのは、神様に感謝という言葉は本心なんだろうか。信長さんはどこまで神様を信じてるか、分からない人なんだよね。
ただ、家族のみなさんは、そんな信長さんの配慮に感激して泣いてる。助けたこと自体、そんなに大した理由はないと思うんだけどね。人助けとはそんなものだと思う。
その後は朝を迎えると妊婦さんも子供も元気らしく、産婆さんもいるのでオレたちは伊勢神宮に出発することにした。
村には一晩お世話になった謝礼の銭とお祝いの金色酒を配り出発する。金色酒は船に積んできた予備の分だ。不慮の事態を想定してエルが積めるだけ積ませたらしい。
「旅はいろいろなことがあるな」
「ですね。あの赤子がいつか大人になり、礼に来るかもしれませんよ」
信長さんはよほど気に入ったのか、昨日の不機嫌などなかったかのようにご機嫌だ。旅のトラブルを楽しんでるようでもあるけど。
「それは楽しみだな」
それと信長さんはあの子供に、
家族のみなさんはありがたいことだって、喜んでたからいいけどさ。
元気に育つといいね。
本当、いつかまた会いたいもんだ
◆◆
天文十七年夏。
織田信長と久遠一馬が伊勢詣りに行った際に、道中で倒れていた妊婦を助けたとの逸話が『織田統一記』などに記されている。
当時は、妊婦を穢れと避けるのが当然の時代にもかかわらず、信長は旅の日程を遅らせてまで助けていた。
更に助けた赤子に自身の幼名から取った名まで与えたといい、当時の伊勢の人々を大いに驚かせたとも伝わっている。
赤子の名は吉法師の【吉】と、自身の通称であった三郎と一馬の名前の間を取り【
この赤子が後年に、織田家と深く関わるのは今更言うまでもないが、この一件が織田と伊勢に与えた影響は大きいと後の識者は語る。
織田は妊婦の穢れをものともせず妊婦と赤子を助けるほど慈悲深い。
人々がそう噂するようになったと言われ、間接的に織田の大きな力になったと言われている。
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