第百六十三話・お藤騒動
side:
「何故、久遠様はそれほど某を疎まれるのですか!」
わしを睨み、今にも刃を向けるぞと言いたげな酒問屋が声を荒げた。
殿の
借財は数年前からあり、利息の支払いすら遅れておった。特に贅沢をしたわけでも散財したわけでもない、身内の不幸で作った借財のようだ。
元はとある寺が貸しておったものの、そこまで取り立てを厳しくしておらなんだようだ。しかし目の前の酒問屋がその借財を強引に買い取り、借財の代わりにと妹を娶るからと奪うように連れ去った。
特におかしな話ではない。ようある話なのだ。恐らく殿でなくば動かれぬことであろう。こやつの背後には酒座と寺社がおるからな。並みの武士では臆するところだ。
「何故それをそのほう如きに言わねばならぬ。誰と商いをされようが、それは殿の勝手だ」
この酒問屋は亡くなった大和守家の坂井大膳と
大和守家に多額の銭を献金したり貸し付けたりしておったからな。寺と武家の双方にいい顔をして、民からは無理矢理に相場よりも遥かに安い銭で米を筆頭になにもかも買い叩いておった。
下手な武士より権勢があったのは確かであろう。
それが大和守家が滅び貸した銭がすべて返ってこぬばかりか、織田の大殿には見向きもされぬことに苛立ち騒いでおる大うつけだ。
「なっ!? それはあまりの言い種ではありませぬか!」
「そのほうが今までなにをしてきて、なんと言うておったか。わしが知らぬとでも思うておるのか? 守護様を
極めつけは、この男は口も軽く悪い。遊女屋に出入りしては守護様や織田の大殿の悪口を自慢げに語る癖がある。
坂井大膳が健在ならばそれが通用したのであろうが、大和守家が滅んで以降も散々悪口や愚痴をぶちまけておるらしい。
遊女屋も以前とは違い、大殿に見向きもされぬこの男を迷惑に思っておろうな。
「二度は言わぬ。銭は持参した。証文を渡して娘を連れてこい」
話して通じる男ではない。これで応じねば潰すとはっきりと示さねばならぬ。
「某、久遠家家臣。太田又助。殿の命によりそなたを迎えに来た」
「太田様……? 何故」
「かようなところの嫁になっては、そなたのためにならぬ。弥彦殿も家族も心配しておる。さあ、帰ろう」
男は暫しわしを睨み付けておったが、殿の覚悟が伝わったのだろう。証文と奪った娘を連れてきた。
娘の表情は暗い。あまりいい扱いではなかったことは考えずとも分かる。
「二度と久遠家とその縁の者に関わることを禁ずる。直臣ばかりではない。郎党やその親戚縁者も含めてだ。破れば一族根絶やしにする。そう心得よ」
連れてきた供の者に娘を連れて先に外に行かせると、わしは大うつけに最後の一押しをする。
ただの脅しではない。殿は家臣の家族がこのような形で利用されたことに珍しく不快そうな表情をなされた。
温和で甘いお人だが、家臣や郎党が傷つき不幸になることは信じられぬほど嫌がられるからな。
「ありがとうございました」
「礼ならば殿に申し上げるがいい。そなたはしばらく兄の弥彦殿のところに住め。しかるべき時が来たら、よき縁談を取り計らうと殿も仰せゆえ案ずるな」
酒問屋を出ると娘は明るい表情で笑みを見せてくれた。
那古野に帰りながら話を聞いたが、殿が取り引きをしてくれねば殺してやると脅されておったようで怖くてたまらなかったらしい。
農民の娘のようだが器量は悪くない。
村に返せば出戻りと言われるであろうし、那古野の屋敷で奉公させるべきだな。久遠家には若い者が多いので縁談の相手には事欠かぬであろう。
「そういえば、名を聞いてなかったな」
「お
さて、残る懸念はあの酒問屋が大人しくなるかだが……。
なるまいな。
織田の大殿に潰す口実を与えるだけであろう。
side:お藤
遊び呆けていた兄が織田様のご家臣の下で働きだした。最初聞いた時には嘘だろうと村の誰もが笑っていました。
確かに兄は織田の若様と親しくしていただいておりましたが、身分が違いますし礼儀作法も知らぬはずです。
それが那古野の久遠様というお方の家臣となったと、突然身なりを綺麗にした兄が家に帰ってきて話したことも、正直なところ半信半疑でありました。
事の真相が村に伝わったのは冬のことでした。兄が久遠家のケティ様のお供で、村に流行り病の治療に来た時になります。
村の者の中には兄が賊にでも手を貸しているのではないかと言っていた者もいましたが、彼らの驚いた顔は今でも忘れられません。
正月にはお酒や餅に魚まで持ち帰ってきた兄に、両親は本当に喜んでいました。
それがつい先日のことです。あの酒問屋の笹屋が家に来たのは。
数年前に祖父母が病に倒れて祈祷を頼みましたが、残念ながら亡くなり葬式を出した時の借財の証文が何故か笹屋さんの手に渡ったようです。
目的は兄が仕える久遠家に取り入るため。
笹屋さんの噂は私でも知っております。
以前の清洲でご重臣だった坂井様のもとで好き勝手をしていた御用商人です。自ら
清洲ではお武家様も笹屋との争いは避けると噂を聞いたことがあります。それが変わったのは久遠様が仕える織田のお殿様が清洲を治めるようになった頃だったと聞き及びます。
織田のお殿様は大変慈悲深いお方で、病の治療を銭も取らずにしてくれたほどのお方。笹屋は取り入ろうとしましたが出来なかったと評判です。
しかも笹屋が扱うお酒は、久遠様の造る新しいお酒に負けて売れなくなったとのこと。
清洲の町衆も笹屋には、思うところがあったのでしょうが。
「ごめんね。弥彦に知らせてすぐに借財を返せないか頼んでみるから」
父と母はごろつきを従え証文を持つ笹屋には逆らえずに、私は笹屋に連れてこられました。
怖かった。
役に立たなければ殺して見せしめにしてやると語る笹屋が怖かった。
早く兄が助けに来てくれるのを願い待っていると、意外なことに助けに来てくれたのは兄ではありませんでした。
太田又助様。
兄のような農民ではなく、元は守護様にお仕えてしていた正真正銘のお武家様です。
私は久遠様と太田様のおかげで、那古野にある学校と呼ばれている学問を教えるところで奉公することになりました。
本当に本当に良かった。
聞けば借財は久遠様が立て替えて下さったようです。私と兄で奉公して返さねばなりません。
これからは死んだつもりで励みます。
◆◆
お藤騒動。
現代では歌舞伎の演目のひとつとして有名な話である。
久遠一馬が、悪徳商人に無理やり拐われた家臣の妹を取り返すために乗り込む話である。ただし、歌舞伎では一馬が直接乗り込み悪徳商人相手に大立ち回りをしてるが、それは創作である。
この件は『織田統一記』の作者である太田牛一が残した、『久遠家記』にある事件を基に創作したものである。
本当の事件は太田牛一自身が、一馬の
商人の評判が悪かったのも確かなようだが、商人が久遠家に取り入るために家臣の妹を借金の証文を形にして買ったのが真相になる。
当時の時代背景では特に珍しいこともなかったようであるが、この件は一馬の逆鱗に触れたようで、絶縁状を叩きつけたことは真実である。
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