第百十一話・後がない者と銭の話
side:水口盛里
「その方は三河へ行け。織田家と久遠家に役立つ話を集めよ。裏切りは許さぬが、真面目に働くならば成果に係わらず報酬は出す。これが我らの掟だ」
「はっ!」
所領を失い類縁を頼り、近江の長束村で暮らしておった某が、まさか尾張に来ることになるとはな。
最初は所領を取り戻すべく意気込んでみたはいいものの、失った所領を取り戻せるほどの才覚も武勇もない。
ひとりまたひとりと長年仕えた者を失い、残されたのはこんな某に付いてきてくれた妻と、先代から仕えてくれた年老いた小者とその妻のみ。最早、失うものもない。
そんな折、聞いた噂に賭けるしかなかった。
尾張に行った滝川一族が武士として出世したと。甲賀者を集め、家臣としておると。
城を落とされ所領を失った某など、誰も使いたがらぬが、尾張ならばあるいはと考えるしかなかった。
妻と小者とその妻と四人で尾張に来て、藁にもすがる思いで頭を下げた某を八郎様は受け入れてくださった。
路銀も底を尽きかけていて、駄目ならば賊に成り下がるか命を断つしかない某たちを。働く前から温かい食事と寝床を用意してくれた情けと恩は決して忘れぬ。
最初の役目は三河を探ることだ。誰ぞを探れと言われぬのは試されておるからであろう。小者の六助とふたりで旅の行商人に扮して、那古野を発ち三河に向かう。
商いの荷を用意してくれたのは有りがたい。常ならばすべて己で支度をするのだがな。荷は薬と塩と小さな魚を干した品だ。
「すまぬな。六助。そなたの歳になっても、かような旅に付き合わせて」
「なにをおっしゃいますか。いずこまでも付いていきますぞ!」
「しかし目的がないと難しいな。いかなることを探ればよいのやら」
「恐らく岡崎などには別の者が入っておるでしょう。我らは要衝の地を避け、あまり人が行かぬところに行きましょうぞ」
「ふむ。戦にならば使えずとも商いになら役に立つな」
「久遠様は商いをされておられます。三河の細かな話は、必ずや商いでお役に立ちましょう」
妻と六助の妻を置いていくのは不安だが、連れてはいけぬ。人質なのだからな。だが同じように近江から来た者の話では、男衆がおらぬ間も食うには困らんという。
そればかりか女衆は、滝川家で読み書きを教わるのが習わしのようだ。読み書きが出来る者には、仕事を世話してくれるのだという。
仕事は八郎様の家での下働きから、久遠様の所領や代官を勤める場所での仕事など、いろいろとあるらしい。
女衆の纏め役をしておられるのは八郎様の奥方様だ。余計なことを案じなくてもよいので役目を果たすようにと言われた。
「仏の弾正忠様か。信じられぬな。銭のない者でさえ流行り病が治るまで面倒をみたなど」
「どうやら事実のようで。おかげで尾張では弾正忠様の悪口を口にする下々の者はまずおりませぬ。それは実際に差配して病人を治療した久遠様も同じでございます」
三河は戦続きで荒れておる土地柄故に、気を付けるように言われた。
織田様の領地はまだいいが、その先は駿河の今川家に従う領地だと言う。しかも西三河は独立心の強い松平家がおって、織田様と今川家の狭間に喘いでおると。
さていかなる土地やら。素破働きで他国に行ったことはあるが、畿内から出たのは初めてだからな。
気を引き締めねば。
side:久遠一馬
「
信秀さんの表情が芳しくない。
「尾張はまだいいほうです」
ウチの品物の影響で、尾張は伊勢湾から東は東海や関東、北は美濃や近江にまで販路を広げつつある。
銀や銅を筆頭に、米や雑穀に様々な品が集まるのはいい。問題は戦国時代でお馴染み、鐚銭と悪銭まで尾張に集まることか。
それはウチや織田家も例外じゃない。せっせと良銭を造っても鐚銭がたくさん集まっちゃう。
「悪銭の原因は明です。海禁の影響もあり日ノ本に流れてくる銅銭は、質の悪い私鋳銭が多いのです。あと国内の私鋳銭も質がよくありませんから」
この日オレとエルは、信長さんと政秀さんと共に清洲の信秀さんのところで銅銭の問題を話していた。
尾張の商人が領外の商人に対して、鐚銭や悪銭の受け取りを拒否することが、すでに起こっているんだ。
いわゆる力関係が強い尾張が拒否していることになる。金色酒を筆頭にウチの品物は他では手に入らないか、入りにくい物が多いからね。
現在もオレたちは尾張に集まる銅塊の大半を船で島に運び、金銀の抽出と銅銭の鋳造をして尾張に戻してる。工業村でもそれらは始まったけど、現状では職人の数の問題もあって銭の鋳造量は少ない。
市場に流す時には一定の鐚銭と悪銭を混ぜて放出しているが、尾張領外からはそれ以上の鐚銭や悪銭が集まる。商人たちが拒否する気持ちはよく分かるね。
「今のところ大きな懸念はあるまい?」
「公方様が撰銭を幾度か禁じておるはずでございますな。あまりやり過ぎると、お𠮟りを受けるかと」
この問題は意外に根が深い。質が悪い銅銭を駆逐するには日本全体を考えて良質な銅銭が必要になる。
だけど室町幕府は明から入ってくる悪銭を、率先して使っていた形跡すら元の世界では指摘されていた。
この時代の明は大国で先進国だけど、密貿易をする商人にモラルなんてあるわけないしね。銅銭も作れなければ生糸も作れない蛮族相手に、質より儲けを優先しても不思議じゃない。
まあ中華は数百年経ってもあまり変わらないけど。
誰かが儲けを企んだというよりは、悪銭しかないから使わざるを得なかったんだと思いたいけどね。
「エル。策はないのか?」
「申し訳ありません。現状の私たちでは、根本的な解決は難しいとしか申せません。元々貨幣のことは、朝廷や公方様が扱うような日ノ本全体のことでございます。策があるにはあるのですが、現状で敵を増やすような策は望ましくありません。商人の撰銭を見てみぬふりをしつつ、他所からの追及をかわすのが無難かと」
正直、信秀さんも信長さんも、撰銭の問題はあまりピンと来ないらしい。信秀さんは単刀直入にエルに策を求めたけど、エルですら現状の織田家では抜本的な対策は難しいんだ。
まあ織田家も尾張も立場が強いからね。鐚銭と悪銭を拒否してもあまり影響はない。経済の流通を考えると明らかにマイナスだけど、価値の低い鐚銭や悪銭を受け入れてやる義理もないか。
「ただ領民との小額の取引には、鐚銭や悪銭も受けとるようにしたほうがよいでしょう」
「そうだな。五郎左衛門。商人にそのように言うておけ」
現状だと領民の鐚銭と悪銭を使えるようにするので十分か。領外の商人にそこまで気を使う必要もないしね。
なんか他国との取引は物々交換が増えそうな予感。
でもこの方針は領地が広がれば無理だよね。なんか楽市楽座と逆行しているけど、金色酒・絹・木綿・硝石などの誰もが欲しがる物を持つ立場の強さが原因だろう。
経済格差とそこから来る生活水準や国力の差は、確実に広がるね。
いろいろ気を付けないと、敵を増やしたりしそうだ。
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