第六十八話・虎と三郎五郎
side:織田信秀
「そうか」
「はっ。少なくとも民は松平の統治を望んではおりませぬ」
久方ぶりに会ったが、三郎五郎が息災そうでなによりだ。三河がようやく好転したのも吉報か。
考えてみれば当然のことよな。食べ物がないならば与えればいい。それだけのことだ。奪うばかりの者より、苦しい時には与える者を望むのは当然のことよ。
「ただ、国境付近の村では、松平方に略奪される村も出ておりまする」
「防げぬのか?」
「今のところ各々の国人に任せておりますれば、防げておる者もおりますが、防げぬ者もおりまする」
流行り病の対策と食料を与える賦役は、三河でも上手くいったか。
ただ、松平領は流行り病の対策も出来ておらぬばかりか、食べ物が足りず飢えておる。当然ながらこちらの村に略奪に来たか。
「食べ物を送ろう。困窮する者は賦役をやらせて、飯を食わせろ。今しばらくそのままでよい。奪う松平と与える織田。その違いを三河者によく理解させろ」
どうやら松平広忠には理解出来ぬようだな。与える意味が。奪えるものがあるのならば奪えばいい。まあ、わしも以前は同じことを考えていたのだからよく分かる。
されど、あそこは三河であり、かつては松平が本領としておった地なのだぞ? そこの民の僅かばかりの食べものを奪うとは、愚かとしか言いようがない。
「国人衆からは兵糧があるのならば、攻めるべきだとの声もありまするが」
「捨て置け。放置すればするほど、松平宗家と広忠に義理立てする者がおらなくなるのだ。最早、松平単独ではいかんとすることも出来まい。松平の三河統一の夢を打ち砕くまで、放置するのが得策よ」
「今川は動きませぬか?」
「邪魔な国人を磨り潰すつもりで、後詰めに送るくらいはしよう。されど矢作川西岸にいくらの兵を出す? 戦続きで実入りも少ない土地ぞ?」
多少こちらが有利となったとはいえ、それほど容易く今川に勝てるならば、苦労はせぬわ。
現状で今川は、嫌がらせ以上に動くことはあるまい。今川が考えるのは三河の統一ではないのだ。織田と尾張をいかがするかなのだからな。
「そういえば今川との商いが盛んだというのは、本当のことでございましょうか?」
「ほう。三河にもそのような噂が届いておるか」
「はい。今川と織田は和睦をするのではとの噂がありまする」
「和睦の話は出ておらぬな。だが商いはしておる。三郎五郎よ。よく聞け。今川との商いは、織田のみならず今川にも利がある商いなのだ。この意味、そなたに分かるか?」
言葉に詰まったか。すぐに理解は出来ぬであろうな。
松平は形の上では今川に臣従する姿勢を見せておる。三河では松平と、松平を助ける今川との戦が続いておるのだからな。
されど織田と今川の商いは、取り引きが増えておる。そこのからくりを理解出来ぬ者は生き残れまい。
「三河に送っておる銭や兵糧の何割かは、確かに今川から得たものだ」
「ですが、それでは今川も織田から得た品や利で、攻めてくるのではありませぬか?」
「今川がその程度の考えならばよいのだがな。現に今川は攻めてこぬであろう? 今川は三河の統一など興味がないのだ。今川が欲しておるのは尾張ぞ」
最早、三河は以前とはまったく違う様子になっておるのだ。
広忠と松平宗家の者は気付いておるまい。義元と噂の雪斎坊主ならば気付いておるであろうがな。
「攻めるよりは和睦をしたほうが得だと思わせるのでございますか?」
「その答えでは半分だな。わしが今欲しいのは時だ。清洲を恙なく治めて尾張を統一するためのな」
今川は強大だ。しかし尾張が一致団結すれば容易く攻められるほど弱くはない。
今は今川と商いをして時を稼ぎ、織田が大きくなることなのだ。
「そう案ずるな。もし今川が出てきたら後詰めを送る」
「はっ」
「よいか三郎五郎。戦も政も複雑なのだ。城ひとつ村ひとつを取った取られたと一喜一憂してはならん。岡崎を見よ。あれの真似だけはするな」
三郎五郎は愚か者ではない。だが三河に置いているせいか、少しばかり今の織田弾正忠家を理解しておらぬようだな。
三河に影響されては困る。なにか考えねばならぬか。
side:織田信広
久方ぶりに尾張に戻ったが、尾張も父上も変わられたな。本当に変わった。
先日まで大和守家が治めていた清洲でさえ、民の表情は明るい。父上は戦をせずに国を獲ることを始めたらしい。
そういえば三郎をうつけと囁く声が聞こえなくなったな。
三郎は織田弾正忠家を継ぐには相応しくない。あのようなみっともない格好でと、わしにまで囁く者が以前はおったのだがな。
肝心の服装はあまり変わっておらぬらしいが、流行り病で追放された敵方の民を那古野に受け入れ粥と薬を与えたと評判だ。しかも三郎自身も病人の世話をしておったらしい。
元々、那古野の領民に三郎の評判は悪くはなかった。騒いでおったのは家中の者ばかり。それが掌を返したように変わったか。
理由は久遠一馬。南蛮船を複数持つ商人を、召し抱えたことだろうな。
わしは三郎がうつけには思えなかったが、それでも理解も出来なかったのが事実だ。あまり人に己の考えを伝えるのが、得意ではないのだろう。
「殿。尾張は凄い賑わいでございますな」
今回、オレは三河の国人を幾人か連れてきた。父上と織田弾正忠家の力を三河者に見せるのが狙いだ。
効果は言うまでもないだろう。金色に輝く透き通る酒に三河では見たこともない料理の数々。松平宗家と織田の力の差を理解したであろう。
内心では三河の所領と比べて、惨めな思いをしてる者もおるかもしれぬが、すべては己の責任だ。
「当分岡崎は攻めぬようだ。まずは矢作川の西側を落ち着かせねばならん」
「宗家が邪魔でございますかな?」
「そこまでは言わんが、こちらが下しても言うことは聞くまい。岡崎の者は今川でも織田でも変わらん。松平宗家による三河統一が狙いなのだからな」
父上は松平宗家のことなど眼中にない。いかにして今川と対峙するかということを考えておられるようだ。
今川も同じであろうな。 広忠が少し哀れに思えてくる。
ああ。戻る前に三郎と久遠殿には、改めて礼に行かねばならぬな。流行り病の際には奥方を三河まで寄越してくれたのだ。こちらから出向かねば。
あの兵糧と奥方の治療で、いかほど統治が楽になったか分からん。
賦役で飯を食わせ病人は治療する。それだけで民は従うようになり、国人たちも少しは言うことを聞くようになったのだからな。
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