第二十五話・医聖ケティ

side:久遠一馬


 信長さんの命令だからか、それとも給金がいいからか知らないけど、翌日には早くも十代半ばの人たちが三十五人ほど集まった。


 とりあえず住む場所と仕事だよなぁ。住む場所は長屋でも用意してもらうか。那古野と津島に半々くらいに分けて住んでもらおう。


「これが石鹸という。手とか体を洗う物。外から戻った時とか厠を使ったあととか、食事の前にもこれで手を洗うこと」


 仕事に関してはひとまず置いておいて、最初に最低限の教育をすることにした。いわゆる読み書きそろばんと、衛生観念を教えていく。武芸は最低限出来るんだよね。信長さんが使っていた人たちだから。


「ケティよ。それはなんの意味があるのだ?」


「病に罹かりにくくなる」


 まずはケティによる手洗い指導を始めたけど、一番興味深げに食い付いたのは、やっぱり信長さんだった。


「ケティ殿。石鹸は非常に高価で、尾張ではまず手に入りませんが」


「大丈夫。私たちは作れるから」


 そしてオレが人を雇うと聞いたからか来てくれた大橋さんと政秀さんの二人だけど、大橋さんだけは石鹸を知っているらしくビックリしていた。


 この時代の石鹸は大陸にもないから、ヨーロッパから輸入品がほんの少しだけ入ってくるくらいだからなぁ。知っていることにビックリするよ。


「そのようなものがあるのだな。ケティは詳しいな」


「私は医術を習得してるから」


「そなたは医師だったのか!?」


 ケティは津島に来てからは料理くらいしかしていないし、あまり目立たないからね。本来は医療型アンドロイドなんだ。


 信長さんたちは信じられないと言わんばかりに驚いてる。


「南蛮の医術を習得してる医師など、聞いたこともない」


「身体を清潔に保つのはいいこと。間違っても馬糞や尿は薬にはならないから使わないで」


「馬糞や尿は駄目なのですか」


「うん、駄目。尿は出したばかりなら、傷口を洗うくらいならいいけど。水があるなら水のほうがいい」


 なんか大橋さんが勝手に誤解しているけど、訂正するの大変だな。南蛮ゆかりの医術ということにしておくか。


 ケティはついでにこの時代の消毒や応急処置が間違っているって教えたけど、これは政秀さんが一番ビックリしている。まさか長年信じてきたことが間違いだとは思わなかったんだろうな。


「怪我した時とか傷を負ったら、これを使う。消毒用の水」


「中身はただの水ではないのか?」


「うん。私の母が作った秘伝の薬を入れた水」


 そのままケティによる応急処置の指導が続く。消毒には生理食塩水をケティが作った。


 別に隠すほどじゃないんだけど、この先も薬とか使うたびに説明するの大変だからね。秘伝の薬にすることにしたんだよね。


 ただ戦もそう頻繁にあるわけじゃないし、武士がオレたちの話を素直に聞くとはあまり思えないところもある。現状ではウチで使う分があればいい。


 それに、消毒なんて概念はこの時代のヨーロッパにもないからね。久遠一族の秘伝かなんかにしとかないと。


 もちろんケティにお母さんはいないけど、両親が医師だったという架空の経歴を作っておかないと、いつか辻褄が合わなくなるからね。


 あとは読み書きそろばんなんだけど。これも本当は草書体を楷書体に直したいんだけどね。特に公文書くらいはさ。まあ今のオレたちがそんなこと言っても、誰も聞いてくれないから言わないけど。




「今年の米は駿河が安いですな」


「その値ならいいですね。買いましょう」


 応急処置の授業の後は一益さんに読み書きの授業をしてもらい、オレとエルは、信長さんと政秀さんと大橋さんと米や大豆や麦の購入について話していた。


 三河や美濃の対策として、味方の国人衆に米や麦を与えるという提案をしたことと、酒造りのための米なんかが必要なんだよね。


 ガレオン船で買い付けをしてもいいんだけど、目立つし騒ぎになるのが目に見えている。なので米や麦や大豆の買い付けは、津島と熱田の商人を通すことにした。


 大橋さんは諸国の商人と付き合いもあるようで、近隣の米の値をある程度把握しているみたい。エルも虫の形をした超小型の偵察機を各地に派遣して、値を調べたみたいだけどね。


「駿河へは、こちらから金色酒と鮭に椎茸を出すのがいいでしょう。絹織物も少量持っていくべきかと」


「今川の米で今川対策をするのか?」


「酒や嗜好品で戦は出来ません。それに米の値が上がれば今川の負担が大きくなります。やり過ぎれば警戒されますので、量は様子を見ながら買わねばなりませんが。当面は商いの量を増やすのが先決ですから」


 ただ信長さんは今川の対策に使う米を、今川領から買う計画になんとも言えない表情をした。


 安いから買うという理由もあるけど。米は主食の戦略物資でも、酒や高価な食べ物は嗜好品だからね。嗜好品を売って戦略物資を買えば、来年の春に今川が三河安祥城を攻めるにしても多少は負担が大きくなるはずだ。


 現状だと駿河にウチの商品を売り込む方が先だから、あまり負担が増えて早くから警戒されるのは得策じゃないけどね。


 駿河に銭を払うよりは、嗜好品をばら蒔いたほうが一石二鳥になる。


「お前たち、怖いことを考えるな」


「まことに恐ろしき策を考えまする」


「今川は大国ですからね。影響は微々たるものですよ」


 しばらくエルが説明すると、信長さんはオレたちの策を理解したけど。今川に物流で戦を仕掛けることに、素の表情で驚いてる。大橋さんもそんな真剣な顔で、恐ろしいとか言わなくてもいいのに。


 この策は、今川が一方的に損をするわけじゃないのが肝なんだよね。嗜好品だけど価値がある品物に変わりはない。その気になれば転売して儲けることも可能だろう。


 ただ人は美味しい物に慣れると、再び欲しくなるものだからね。こちらの経済圏に取り込むには嗜好品が一番だろう。


 あまり今川を早くに弱体化させると武田が怖いから匙加減が難しいけど、そこはエルに任せるしかないね。


 とりあえず織田家としては、今川から得た米で三河と美濃対策をする。でも正直この策は、裕福な今川相手だからやれるんだよな。


 悪いけど三河は織田と今川に翻弄されて、嗜好品どころじゃないからな。それに貧しいせいで一向衆も強い土地だし。


 この時代だと三河武士の忠誠とかないしね。史実の三河の評価は正直、家康が天下を取ったから都合よく書かれただけの気もする。


 まあ史実の話はいいとして、三河の扱いって難しいね。根本的な戦略を早く考えるべきかもしれない。




◆◆

 『久遠家記』には久遠一馬が滝川一益を召し抱えた後日、信長の紹介で三十五人の家臣を召し抱えたとあり、久遠一馬の奥方で医者でもある薬師の方こと久遠ケティによる医術の指導があったと記録されている。


 現代では医聖と称えられ、近代医学の祖と言われる久遠ケティの最初の記録になる。


 当時、どこにもなかった衛生概念をすでに確立していたと思われ、久遠ケティの一族の医術が現代に至るまで世界最先端だとも言われる由縁である。




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