【拾禄】


      *


 牟宇むう姫は、橋を駆けた。すれ違った侍女達が時に驚いたように、牟宇姫を振り返る。庭師が整えてくれる花々を蹴散らしながら、牟宇姫は必至で門を通り抜けた。

「すみっ、待って!!」

 小さく見えた人影に向かって、牟宇姫は出せる限りの声で叫んだ。息が苦しい。しかし、ずんずん先を歩いていく背が止まることはない。

「すみ―――!!」

 おりは打ち首になった、とだけ侍女達から聞かされた。そしてすみは――伊達家を追われることになった。くわだても、教唆も、おりによるものではあった。しかし、直接毒を煎じたのは、すみだったと言う。しかし、後に当初牟宇姫が食べさせられるはずだったカステーラよりも、すみが煎じた毒入りカステーラは、効果が弱かった。もし、当初おりが作ったカステーラを食べていたら、牟宇姫は確実に死んでいた。

 結果的にすみの行動で牟宇姫は九死に一生を得たこと――なにより、最終的に牟宇姫を助けた功績により、すみは死罪をまぬがれることになった。

「すみ、行かないで!! わたくしの傍にいて!!」

 決死の覚悟で叫ぶ。すみは、ようやく立ち止まった。しかし、牟宇姫が近づこうとすると、

「なりませぬ!」

 と、叫んだ。

「――私は、罪人でございます」

「違う! そなたは、牟宇の乳母じゃ!」

「いいえ」すみは振り返らない。肩を震わせながら、声を張り上げた。「姫様に毒を盛ったのは、この私めにございます。そして、私は姫様の乳母などではありませぬ。乳母の名を騙った挙句、姫様を殺めようとした、咎人でもあります。大殿より、二度と牟宇姫様の前に現れるなと命ぜられました。――ゆえに、姫様に二度と会わぬよう、陸奥を出て行くことに相成りました」

「厭!」

 牟宇姫は叫んだ。

「角田まで一緒に来てくれると、約束したではないか! その約束を破るのか!?」

 すみの肩が揺れる。牟宇姫はぼろぼろと涙を流した。

「そなたが、たとえわたくしに乳を飲ませてくれたでなかったとしても、わたくしのもとに帰って来てくれたはそなたじゃ! わたくしが悪いことをすると叱ってくれるのも、口うるさくて愚痴っぽくて……でも、本当に危ない時に守ってくれるのは、いつだってそなたではないか!」

 牟宇姫が怪我をする前に、守ってくれる。危ない目に遭わないよう、傍にいてくれた。

「口うるさくて愚痴っぽくて……わたくしの傍にいつもいて、叱ってくれて……。……でも、そんなそなたのことが、わたくしは大好きじゃぞ。だから、これからも……わたくしを教え導き、守ってほしいのじゃ」

「……その役目は、私のものでは、もうありません」

 ようやく、すみが振り返った。すみは穏やかに両目を濡らしていた。

「――ずっと、姫様のでいたかったのです」

「もう、でいてはくれぬのか?」

「はい。姫様には、民部みんぶ殿がおられます」

「……家臣如き、と散々言うておったのに」

「ですが、牟宇姫様がもっとも信頼できるお方です。あのお方は、何があろうと牟宇姫様を裏切りませぬ。――たとえ自分が危ういとしても、姫様を守り抜いてくれるお方です」

 牟宇姫の頬から、そしてすみの頬からも涙が零れ落ちた。すみは満足そうに微笑みながら、最後の挨拶を述べて背を向けた。

「牟宇姫様に会えて――私は、ほんとうに幸せでございました」

 遠ざかるすみの背が、どんどん遠ざかっていく。牟宇姫はその場に崩れ落ちると、大声を上げて泣いた。

 なにも気づこうとしなかった。与えられるものを受け入れるばかりで、五郎八姫の真意も、両親のことも、そして一番近くにいてくれたすみの惜しみない愛情にさえも。失ってようやく、すみがどれだけ大きな存在でいてくれたのかに気づく。

 堰を切ったように泣きじゃくっている牟宇姫の前に、影が落ちた。顔を上げると、困惑した顔の宗昭むねあきが立っていた。宗昭は膝を突くと、牟宇姫に手拭を差し出した。

くま……わたくしは、ほんとうに阿呆じゃ。うつけじゃ。馬鹿者じゃ」

 もし、すみの苦悩にもっと早く気がつけていたら――このような結果を生まなくて済んだのではないのだろうか。きっと、牟宇姫はこれから先もこの痛みを思い返して苦しむことになるのだろうか。

「幕府は、伊達だて家に目をつけておられます。しかし、同時に重宝しているのも事実です。東北を統治できるのは、伊達の名あってこそですから。……なれど、油断しては、ならぬのです」

 泣き声を上げる牟宇姫の傍で、宗昭が言葉を続けた。

 牟宇姫と五郎八姫を荷組み合わせ、伊達家を乱すことが幕府の目的だったのだろうか。おりとすみの主が幕府の誰だったのか、今となっては確かめる術もない。

「五郎八様の仰っていたことは、こういうことなのか?」

 今はまだ、伊達家の姫という肩書以外に、牟宇姫は何も持っていない。しかし、これから子を産めば、牟宇姫だけではなく、その子ども達まで狙われてしまうのだろうか。そして、それらを守っていかなければいけないのか。重責が肩にのしかかり、息が苦しくなる。

 きっと牟宇姫はこれから先、見なくても良かったこと、知らなければ良かったことを目の当たりにしていくことになるのだろう。想像しただけで、不安に押し潰されてしまう恐怖に苛まれた。

「牟宇姫」

 顔を上げると、膝の上で震わせていた拳が温かいものに包み込まれた。

「某がおりまする」

 と、宗昭は真剣な面持ちで言った。だが、すぐに目が泳いだ。

「……その、守れもしなかったくせにとお思いやもしれませぬが……」

「そのようなこと思ってはおらぬ」

「ですが、俺が守れたわけではありませんでした」

「それは、どっちでも良い」

「良くないです」

「良い」

 牟宇姫は断言した。宗昭は、牟宇姫の危機に駆けつけてくれた。そのことがこの世でなによりも大切なことであった。

 宗昭は泣き濡れた牟宇姫の頬を拭いながら、

「……姫は、伴天連の教えをご存じですか?」

 と、問いかける。

「伴天連の教え……?」

「病める時も、健やかなる時も、ともにあるのが夫婦である、と」

 宗昭は真っ直ぐに牟宇姫の顔を見上げた。真っ青な、晴れ渡る空の下。鳶が遠くで鳴いた気がした。

「それは日本ひのもとにおいても、いかなる立場の者達であっても同じことなのではないでしょうか。夫婦というのは、そのようにあるべきだと思うのです。病める時も健やかなる時も、これから先、姫にどのような災いが振りかかろうと俺はあなたを守りたいし、どんな些細ないなことであっても、ともに分かり合いたいと思っております」

 牟宇姫は、胸がほころぶのを感じながら、3年前に渡された反物の意味をようやく理解した。

 牟宇姫に贈られた、「葉桜」のような反物は、花が似合わぬという意味ではない。宗昭は花だけではなく、ともに過ごせる一刻一刻を――何気ない日々でさえも、愛しく思おうとしてくれたのである。

 すみ、五郎八姫、お山の方、おり、政宗……。色んな人の姿を目の当たりにした気がする。これから先も人の光と闇に触れながら、それらと戦っていかなければならない。時には裏切り裏切られ、傷つけてしまうこともあるだろう。それでも、宗昭だけは牟宇姫を裏切らない、と思った。そして牟宇姫もまた、宗昭を裏切りたくはないと思った。

 熱を帯びた顔を見られるのが恥ずかしくて、牟宇姫は宗昭に背を向けた。

「父上は、いい年をして野心が強いお方じゃ。ゆえに、早う婚儀を急かさねばならぬな。いつ、やはり別のところに行けと言われるか分からぬ。……わたくしも、なるべく早く角田に行く。ゆえに、熊。そなたは早う、角田へお戻り。花嫁を迎え入れる支度を整えておいてくれ」

 振り返らずとも、宗昭がどんな顔をしているのか。どんな目で牟宇姫を見つめているのか、分かる。きっと夫婦になるというのは、誰かと一緒に生きて行くというのはこういうことだ――牟宇姫は、頬を赤らめながら、そっと微笑を浮かべた。


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