第72話 第34局

 金曜日、深夜、大学の休憩スペース。いつものように師匠と将棋を指す。


「師匠が一番好きな本って何ですか?」


 師匠は対局中に本を読むことが度々ある。本人曰く、本を読みながら対局したい気分になる時があるのだとか。・・・ちょっとよく分からない。


 まあ、それはそれとして、師匠の一番好きな本というのがふと気になってしまったのだ。


 読みかけの本をぱたりと閉じ、師匠は僕に向き直る。


「一番は・・・・・・ない・・・かも。」


「そうなんですか?」


「・・・うん。」


 こくりと頷く師匠。


 どうにも意外な答えだった。あれだけ本を読んでいるのだから、何かしらの名前が挙がると思っていたのに。


「あ!あれですかね。多すぎて決められないっていう。」


「・・・まあ、確かに、いいなっていう本は沢山あるけど、・・・えっと・・・」


 急に師匠は押し黙ってしまった。その頭の中では、一体どんな思考が駆け巡っているのか。僕は、師匠の言葉をじっと待った。


 休憩スペースにある自動販売機が、その駆動音を響かせる。それが合図であったかのように、師匠が口を開いた。


「『一番好き』ってどんな感覚なんだろ・・・。」


 ・・・・・・まさかの答え!!


 しかし、そう言われてみると、なかなか説明が・・・あれ?


「えっと・・・師匠、どうかしましたか?」


 ふいに、師匠がまじまじと僕を見つめていることに気が付く。むずがゆさと同時に、心臓の鼓動がその速さを増す。


「『一番好き』・・・か。」


 そう呟く師匠は、どこかいつもとは違っているように思えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る