205 朝陽の陰り
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仮にも神を名乗る身で、最期に見るのがこの光景か。
視界は己の血霧で紅くけぶっている。
ドドは爪の割れた両腕を空に仰がせ、今まさに地に倒れこもうとしているところだった。
オオカミに食い破られた首筋からは鮮血が吹き上がり、忌神の
ヒヒの見上げる先には黒い影がひとつ浮かんでいた。
彼女は力をもがれて翼を失しても、猛禽の矜持は失くさなかった。
密かに姉と慕ってきたヴニェク・スーの表情は、生憎の逆光でよく見えない。
出ない声で呟く。
──なあ、己は、間違ってたかい?
赦してもらおうとは思わないし、それでなくとも彼女に優しい言葉なんて期待できないけれど、一度くらい尋ねてみたかった。
先ほどアンハナケウじゅうに響くほどの大声で喚き散らしてやったことについて、ヴニェクがどう思うのか。
これでもなおヌダ・アフラムシカの行いは正しいと思うのか。
ドドが彼を非難するのは間違っていたのか。
あいつが道を誤ることなどありえないと頭から信じきっている連中に、その筆頭と言って差し支えない立場にあるヴニェクに、問いたかった。
「……大馬鹿者め」
女神が呟いた言葉はドドには届かずに、ヒヒを捕える檻が着々とその形を強固にしていった。
: * : * :
これで、ほんとうにぜんぶ終わったのだろうか。
ララキはぼんやりとすべてを眺めている。
アンハナケウの広場だった場所にそびえ立つ、鉛色をした巨大な箱は、先ほどからしんと静まり返っていた。
その中にいると思われるドドが暴れるようすはない。
箱の周囲には神々が集まっていた。
全員で手分けをして、後片付けを行っている。
「失礼!」
オーファトがそう声を上げて腰の刀を抜いた。
そこから具体的な指示は続かなかったが、あたりの神々はみんなすばやく箱の傍から離れた。
彼らには何が行われるのかわかっているらしい。
もともと集団のいちばん外にいたララキはその場を動く必要もなく、ただじっと見守っている。
白刃が煌き、風を切る音がした。
ララキにはオーファトが軽く刀を振ったようにしか見えなかった。
切っ先が箱に触れたとは思えなかったが、どうやら問題なく何かの作業が行われたようだ。
オーファトはとくに表情を変えることなく再び刃を収める。
そして次の瞬間、箱に等間隔で亀裂が入った。
割れたところはすぐに崩れ、穴が開く。零れ落ちた破片はすべて融けるように消え、箱は枠をそのままに、冷たく歪な檻へと変わる。
中には薄汚れた白い獣が一頭、顔を伏せた状態で蹲っているのが、ひび割れの隙間から見て取れた。
ペル・ヴィーラの片割れが大儀そうに片手を挙げる。
それを見た神々は、今度は彼の前方にわらわらと集まり始めた。
アフラムシカもそちらに行こうとしたのでララキも一緒についていこうとしたが、彼はふと立ち止まって、ララキの肩に手を置く。
「ララキはフォレンケと一緒にいてくれ」
そう言ってアフラムシカはすぐ傍の木陰を指差した。
ララキは思わず、そちらを見ないまま尋ねる。
「ねえ、何が始まるの?」
「罪が裁かれる。ドドと──俺もそうだ。そしておまえは裁く側になる」
「なんで? クリャはともかくあたしは人間だし、……シッカのしたこと、責めるつもりなんて、ないよ」
「……たとえおまえが許しをくれても、俺はすべての神に
大きな手がララキの頭をゆっくりと撫ぜた。
なんとも言えない気分でララキは彼の顔を見上げ、じっとその眼を見つめたけれど、それ以上何の言葉も浮かんではこなかった。
ドドが喚いていたことは、もちろんララキもその場で聞いていた。
彼の言わんとしていたこともなんとなくわかる。
神々だって呪われた民の国を滅ぼすことに良心の呵責がなかったわけではないのだろうし、それを招いた大元の原因はアフラムシカの指示にあったことは、ララキとしても残念に思う。
でも、これ以上彼を怨まないと決めたからチロタでクリャを受け入れて、ここに来たのだ。
「……自分でも、バカだって思うけどさ……」
去っていく背中を見送って、ララキも向きを変える。
フォレンケと一緒にいろと言われたのだ。
とりあえず今はその指示に従うしかない。
「ってあれ、フォレンケ? 大丈夫?」
アフラムシカの指示した木陰には少年がぐったりと倒れこんでいた。
ララキはすぐさま駆け寄ってようすを見るが、もともと顔も手足も傷だらけだったせいか、フォレンケの顔色はすこぶる悪い。
ララキの声にもあまりはっきりとした反応を見せなかった。
虚ろな眼差しを空に向けながら、フォレンケの口が小さく動く。
言葉は聞き取れない。
もっと曖昧な、吐息としか表現できないような微かな音が彼の喉を震わせている。
もしかしたらそもそもララキの知っている言葉ではないのかもしれない。
遠い昔、大陸では民族ごとに別々の言語を用いていた。
今も名残で地域の訛りはあるし、人の名前なんかは語源を同じくするものでも完全に違う発音をすることもあるが、それでも今では国境を越えて旅をするのに何ら支障がないほど共通語が広まっている。
古い言葉はもう祭事くらいでしか聞くことがない。
いつか、ミルンと一緒に見たジェッケの夜祭の掛け声のように。
──神よ、神となれ、新しく……。
「……ララキちゃん、ちょっと離れて」
「え?」
急に声がかけられたかと思うと、ララキの目の前でフォレンケの身体がふわりと浮いた。
少年の身体を包むようにしているのは寝台のように膨らんだ丸い水の塊だ。
ふり返ると、そこには神が二……いや、三柱立っていた。
長い髪を縄のようにひとつ編みにした女神と、その腕に抱えられた上半身に片腕だけの男神。
そして、彼らの傍らに佇む男には見覚えがある。
かつてララキをアンハナケウに初めて運んだ、あのカワウソの神が最初に見せていた人の姿だ。
「えっと、たしかティルゼンカークと……そっちはラグランネとアルヴェムハルト?」
「そ。フォレンケはそんな状態だからティルゼンが運ぶわ」
「その代わりラグを支えてやってくれ。アルヴェはこのとおりで、ラグもまだ脚が治ってないからさ」
「きみにフォレンケは重いだろうから」
言われて見てみると、ラグランネの右の足首は痛々しく腫れ上がっていた。
脛から下に蔓草が巻き付いているのは包帯の代わりなのだろうか。
足取りの不安定な女神の傍に駆け寄って、ふとララキは思う。
「えっと……アルヴェムハルトを代わりに運べばいいの?」
「んーん。うちの背中、支えててほしいの。
アルヴェくん抱っこしてるせいで後ろにひっくり返りそうになるんだよねぇ」
だからその荷物を預かるべきでは、と思ったのだが、ラグランネは首を振る。
よくわからないままララキは彼女の肩を抱えるようにして歩きだした。
先導するのは水の籠でフォレンケを運んでいるティルゼンカークだ。
紋唱術で似たようなことができれば便利そうだが、それらしい術をララキは知らない。
またミルンたちに会えたら雑談ついでに聞いてみよう。
そのとき明るい報告ができればいいのだけれど。
ララキの願いとは裏腹に、アンハナケウに流れる空気はあまり良くはない。
誰もが大なり小なり傷つき疲れ果てていて、彼らの中央には大きな檻。
そしてその脇に佇む神は、──ララキにとっては何よりも大切なアフラムシカは、今は身を小さくして俯いている。
裁きを受けるのだ、と彼は言った。
そうしなければ先に進めないのだと。
少し歩いて、どうやらララキたちは着くべき席に辿り着いたらしい。
ティルゼンカークとラグランネが足を止め、じゃあこのあたりに座ろう、と言った。
ララキはラグランネが腰を下ろす間もずっと彼女の腕を掴んで支えた。
一方、ティルゼンカークは座らずにもっと前のほうへと歩いていく。
ララキがそれをぽかんと眺めていると、アルヴェムハルトが溜息めいた声を出した。
「フォレンケの席はここじゃない」
急にぼそりと吐かれた言葉は、どうやらララキの疑問に対する返答らしい。
ララキは振り返る。
「大丈夫かな。なんかすごく苦しそうだったけど……傷もひどいし痛むのかも」
「平気よぉ、こんなになってるアルヴェくんよりマシでしょ」
「あっそれもそっか。
……むしろアルヴェムハルトは、なんでそんな状態で平気なの? さっきからふつうに喋ってるけど」
「手足をもがれたくらいで死ねるなら楽だったんだけどな。
それにフォレンケと僕じゃ事情が違う。あれは苦しんでるんじゃなくて、
「なか……何? なんて?」
ララキが聞き返すとアルヴェムハルトは顔をしかめた。
何が彼の気に障ったのかはよくわからないが、抱えているラグランネが唯一残っている彼の手を宥めるように撫でると、これまた大儀そうに息を吐いた。
なんかこの感じ知ってるな、とララキは思った。
同じ東の神であるペル・ヴィーラもよくこういう顔をしてくる気がする。お国柄ってやつだろうか。
「簡単に言うと、あのフォレンケは抜け殻なんだよ。中身は今はガエムトに入ってるらしい」
「何それどういうこと?」
「うちらもよく知らないんだけど、あのふたりってもともと同じ神だったみたいよ。
昔はよくあったらしいしねぇ、神が分裂して複数に分かれちゃうってことが」
「……なんじゃそら……」
「ヴィーラだって雄と雌に分かれてるだろ。あの
そもそもこの大陸には初め七柱しか神はいなかった。何度も分裂して今の数になったんだ。
もともと先にいたのはガエムトだ。どういう事情かは知らないけど、彼から分裂してフォレンケが生まれた。
だからほら、見てみなよ」
アルヴェムハルトが顎で指した先には、しゃんと背筋を伸ばして立っているガエムトがいる。
その周囲には忌神たちが控え、ちょうどそこにフォレンケが届けられたところだった。
ティルゼンカークから少年を受け取った男──雰囲気と頭に着けている三つ繋ぎの骨面からしてワニのカジンだと思われる──は、それを大切なもののように恭しくガエムトに差し出した。
ガエムトの足元にはひれ伏す女。唯一の忌女神であるサイナだろう。
彼女はガエムトからフォレンケの世話でも仰せつかったのか、すぐさまフォレンケを傍に寝かせてその顔を拭い始めた。
「いつもよりまともだろ、ガエムトが」
「たしかになんか、威厳あるっていうか……あんなガエムっちゃん初めて見た」
「うちらも見るのは初めてよ。分裂してたってのもさっき知ったくらいだもん。フォレンケも最近まで自覚なかったみたいねぇ」
「逆に、事情を知ってた忌神の連中が今までフォレンケを雑に扱ってたことが不気味だよ」
「そーね。まあ忌神って変な人が多いし。
あ、ティルゼンおかえりー」
戻ってきたティルゼンカークがラグランネの隣に腰を下ろす。
そしてそのすぐあと、ララキの隣にも誰かが立った気配がして、見ると癖毛の男性が佇んでいた。
中央のシカの神、いつか迷路の試験を出してきたゲルメストラだ。
「私の席は?」
「あぁ、ララキちゃんどうすればいいかわかんなかったから、うちの隣に呼んじゃったの。どのみちほら、アルヴェくんのぶん席が空いてるし」
「……やれやれ、せめて南部の側に行かせておくべきだろう。中身はタヌマン・クリャなのだから」
「そりゃやめたほうがいいっすよ。あっちは今はそっとしといてやったほうが……ヴニェクなんかどうなるかわかったもんじゃないし、ヤッティゴだって冷静じゃないでしょ」
「二柱の盟主がふたりして
東部の神々のそうした言葉に、ゲルメストラは苦笑してララキの隣に座った。
どうやら地方ごとに集まって座るようになっているらしい。
そんな会話の間にも周囲に続々と神や精霊が集まってくる。
最初にアンハナケウに来たときにその数と威圧感に立ち眩みそうになったことをふと思い出し、なんだか妙に懐かしく思えた。
今はララキもタヌマン・クリャと同化しているから彼らの圧は感じない。
ララキの意思や想いは変わらないまま、それ以外のいろんなことが凄まじく変化している。
やがて、切り株の傍に少女が現れた。
隣にはオーファトがいる。
司会席であるらしい大きな切り株にはもともと鉦が取り付けられていたが、さまざまな戦いの余波のためか、今は歪んでしまっている。
オーファトはそれを直す役目らしい。
彼が刀を振るうと、それが力を使うための引鉄となっているらしく、みるみるうちに鉦はかつての形状と艶を取り戻した。
さらにオーファトは手のひらから金属の棒を取り出して少女に渡す。
パレッタ・パレッタ・パレッタは本来スズメの姿であり、普段はくちばしで鉦をつついて鳴らしていたが、今はまだ人の姿に囚われたままであるからだ。
澄んだ音色が広場に響き渡ると、葉擦れのように絶え間なかった雑談の声がぴたりと止んだ。
「……これより、ドド神ならびにアフラムシカ神の、審判を執り行いまする」
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