190 届かぬ言の葉
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「ッわ、……わかった……、では、あとでな」
「ああ。待っている」
彼の穏やかな瞳を見ていられず、ヴニェクはすばやくアフラムシカに背を向けた。
まだ視線を感じるような気がしてむずがゆい。
歩き出しながら、まだ混乱している。
なんだか今日のアフラムシカはいままでとは違うような気がするが、気のせいだろうか。
ここしばらく彼はアンハナケウから排斥されていて、その間は口を聞けなかったわけだが、その数年でどうも以前より丸みが増したような、あるいは親しみが深まっているような。
そう、距離が少し近い気がする。
別に以前はよそよそしかったというわけではないが、誰とでも一定の間隔を空けて接しているきらいはあったのだ。
困ったことに、正直言って、さきほどの言葉はとても嬉しかった。
おまえにしか頼めない、なんて初めて言われたのだ。
少しだけ特別扱いされてしまったような気がしてそわそわしてしまう。
いや、これだけで浮かれるのはさすがに気が早いぞ、と内心で己に言い聞かせてはみるものの、どうしても表情を引き締めることができない。
──わたしにしか頼めないこと、というのは何だろう……?
いろんな想像が脳裏を駆け巡る。
ヴニェクにしては珍しいほど、己にとって都合のいい想像ばかりが。
「どったのかな、えらく機嫌よさそうだけど」
「ヴニェクの顔が紅いとか、天変地異の前触れか。……もう充分に天変は起きてるが」
よほど腑抜けた顔をしていたのだろう。
ヤッティゴとカジンの前を通りがかったところでそんな声がした。
いつものヴニェクなら軽くカジンを張り倒しているところだが、生憎今日はそういう気分ではない。
フンを鼻を鳴らして戯言を聞き流し、ちょうどいいと二柱の首根っこを掴まえた。
どう見てもどちらも手が空いている。
「くだらんことを言っている暇があったら怪我人の治療を手伝え。言っておくがこれはアフラムシカの指示だからな」
「……なんで自分まで……ヤッティゴだけで足りるだろ」
「手が多いに越したことはない。どうせ暇なんだろう、行ってこい」
「いや自分、忌神なんだが……死んでからが担当範囲……、はぁ……わかったからフード放せ、脱げる」
「あはは、どのみち神の死は範囲外だろ。
……神の死か……」
ヤッティゴは自分でその言葉を口にして、カーシャ・カーイやオヤシシコロカムラギのこと、あるいはドドのことでも思い出したのか、急に表情を曇らせた。
案外後者かもしれないなとヴニェクは思う。
たぶん彼は、クシエリスルの神の中で、今でもドドの死に胸を痛められる数少ない神だ。
とにかく二柱を切り株方面へ強制的に送り出し、ヴニェクも溜息をついた。
ドドのことだ。
結局何がしたくてクシエリスルを乗っ取ったのかはよくわからないままだったが、彼がいちばん気にしていたアフラムシカの手で最期を迎えるとは皮肉な結末だった。
やはりヴニェクは彼のことを、どこか憐れに思っている。
不器用な神だった。
地頭がいいことはヴニェクも知っていたけれど、それを活かせない直情的な性格と女に対するだらしなさで、彼はアフラムシカのように誰からも慕われる盟主にはなれなかった。
それでもヤッティゴのように彼を認めていた神だっていたのだ。
世界を牛耳るだなんてバカな真似をする必要などなかった。
それよりもっと時間をかけて、きちんとした振る舞いを身につけるべきだったろう。
けれどもうドドは消えてしまった。
だから今さら何を思っても、彼にヴニェクの言葉は届かない。
: * : * :
触れ合っていると、不思議な安堵を味わえる。
今まで数々の癒しをみんなに与えてきたルーディーンだったが、自分の心が一切の揺らぎもなく穏やかになるという経験は、思えばこれまでなかったような気がした。
この世界は悲しい経験を多くしている。
生きてきた永さだけそれを見つめてきたルーディーンの胸には、いつも悲しみや不安の種が残っていた。
隙あらばルーディーンに根を張り、外へ向かって芽吹こうとするそれを、無意識に恐れていたのかもしれない。
今も、ほんとうならこれからの神界について憂慮せねばならないときのはずだ。
だがカーシャ・カーイの腕の中では苦難に思いを馳せることがない。
これからどうするべきなのか、彼は一緒に考えてくれると思うし、きっとよい答えをルーディーンに与えてくれる。
そんな気がする。
それは彼から漲る力を感じられるからなのか、それともルーディーンなりに彼を信頼できるようになったのかは、まだわからないけれど。
ルーディーンの髪を指先で遊びながら、カーイが呟くように言った。
「……あんたはそろそろ向こうに戻ったほうがいいな。変に遅くなると勘繰られるかもしれねえ」
その言いかたは、自分は一緒には戻らないと告げているようなものだ。
ルーディーンはまっすぐに彼を見上げながらそれを尋ねた。
──あなたは、これからどうするつもりなの?
「いくつかやることが残ってる。それまでは封印から出たことを奴に気づかれるわけにはいかねえからな」
「私に手伝えることはありますか?」
「そうだな……何人か根回ししておいてくれると助かる」
「今、信頼できそうな神というと……ペル・ヴィーラや、ヴニェク・スーあたりでしょうか」
「いや、ヴニェクは少し待ってくれ。あいつは奴と近すぎるし、あんた以上に嘘がつけない性格してるからな。戦闘力で言ったら引き入れたいのはやまやまなんだが……」
とりあえず話し合って、カーイの生存を密かに伝えるべき相手は何人か決まった。
まずペル・ヴィーラ。
彼にはとくに伝言があるとのことだったが、その内容はルーディーンには聞いただけではよくわからなかったし、説明されたところで信じがたいものだった。
しかしヴィーラにはただ言うだけで通じるらしい。
それからフォレンケ。
なんだかんだいって彼は信頼できるとルーディーンは思うし、それはカーイにとっても同じだったらしい。
最後にアルヴェムハルト。
ただし彼はまだ意識が戻っていないので、それを待ってから。
彼のところにはラグランネとティルゼンカークがつきっきりでいることを伝えると、それならついでに彼らにも、とのことだった。
あとは状況を見ながら、ヴィーラやフォレンケと相談して決めていく。
「タヌマン・クリャはどうします?」
「……結局あいつを信頼していいもんか? あんたはどう思う?」
「そうですね……今回のことで、彼が誰よりも貢献していることは認めます。私も助けられた場面がありました」
「それは事実だな。だが、奴はあくまで生存を第一目標にしてるんじゃねえかと思えてならねえんだよ。
つまり、最終的には優位なほうにつく……そういう可能性はないか?」
「ない、とは断言できないでしょう。でも、クリャはともかく、ララキは信用できると思います」
ルーディーンは敢えて、器に使われた少女の名前を挙げた。
彼女の魂はこの世を去ったわけではない。
まだクリャとともに肉体に留まってアンハナケウにいる。
「あの子はアフラムシカのために旅をした。長い旅ではなかったけれど、常人にはない苦労があったはずです」
「……あんたの言いたいことはわかる。でもあいつらは肉体を共有してる状態で、ララキにだけ話を通すってことは不可能なんじゃねえのか」
「ええ。でも、ララキがクリャを見張ってくれます。
彼女はただの人間ですが……この世でただひとりの、クリャの信徒です。クリャは彼女の言葉を無視できない。
強い抑止力にはならないとしても、アフラムシカのこととなれば、ララキは力を尽くしてクリャを止めるはず」
だから彼女を信じたい。
彼女の旅をルーディーンはずっと見守ってきた。
ゲルメストラに試され、西の神々に翻弄され、ときにガエムトに襲われながらも歩みを止めなかった彼女のことを。
仲間に冷たい言葉をかけた人間に対し、彼女は憤り、抗った。
アルヴェムハルトの試験で仲間と引き離されても、苦しみながらも旅の続行を決めた。
彼女はいつも前を向いている。
その心の強さは、幼くして神の結界に千年もの間閉じ込められるという経験が為したものなのか、あるいは生まれつきの才能なのかはわからないが、それでも確かにある。
だから彼女を信じられると思う。
ルーディーンがそう言うと、カーイも静かに頷いた。
「わかったよ。
ただ、ひとつ条件をつけさせてくれ。ヴィーラとフォレンケからも了解を得ることだ」
ルーディーンは頷いた。
それくらいの譲歩は当然だろう。
「他には……ああ、アニェムイとパレッタ・パレッタ・パレッタはどうですか? とくにアニェムイはずいぶん悲しんでいるようでしたから」
「……いや、どっちもすぐ顔に出るからやめろ」
「カーイ?」
ふいにカーイの表情が暗くなったので、ルーディーンは心配になって彼の顔を覗きこむ。
カーイは眼を逸らしてしまったけれど、そのままルーディーンを抱き締め直して、こちらの肩口に顔を埋めながら呟いた。
──オヤシシコロカムラギのことはもう聞いたか。
ルーディーンが頷くと、カーイは深く息を吐く。
「俺が殺した。喰えって言われて、そのとおりにしたよ。
お陰でクソみたいな岩の封印から出るのは楽だったけどな」
その声があまりに重くて、ルーディーンはそっと彼の背中を撫でる。
泣いているわけではないと知っていたけれど、同じことだと思ったからだ。
彼の心が血を流している。
眼から涙を零していなくても、ルーディーンはそれを感じる。
「……辛かったのね」
カーイは答えなかった。
ただ、ルーディーンを抱く手に少しだけ力が込められた。
震えているのを誤魔化すように。
言うべきかどうか悩んだけれど、結局ルーディーンは口にしなかった。
パレッタはきっとあなたを責めない、という一言を。
それはルーディーンが本心から思うことで、きっとカーイも求めている言葉に違いないけれど、言うのはやめた。
その慰めが彼の心血を止めることはない。
パレッタ自身の口からでなければ、きっと意味がない。
だからルーディーンも黙ったまま、しばらくそのままでいた。
どれくらい経ったのか、急にカーイが顔を上げる。
ルーディーンのことも離し、予定外に引き止めてしまったことを短く詫びる彼は、まだどこか苦しそうに見えた。
できるならその痛みが少しでも安らぐまで傍にいてやりたいとルーディーンは思ったけれど、それをカーイ自身が望んではいない。
ルーディーンは後ろ髪を引かれる思いをぐっと堪え、立ち上がる。
「では、私はあちらに戻ります。カーイ、……その、気をつけて」
「そっちもな。
……あ、いけね、忘れるところだった」
「え? ……あっ……」
立ち去ろうとしたところで腕を引かれ、カーイの手がさっと首筋を撫でた。
突然のことでくすぐったかったが、すぐにそこが、アフラムシカに噛まれた場所だと思い出して恥ずかしくなる。
「あ、あの……」
「痕は消してやったから、あとは襟元を直しておけよ」
ひらりと手を振って、そのまま背を向けたカーイは森の中へと消えていった。
ルーディーンは彼の姿が見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた。
動けなかった、と言ったほうが正確かもしれない。
軽く指先を滑らされただけなのに、どうしてそこがじんわりと熱く感じるのだろう。
ふうと息を吐いて、言われたとおりに服の袷を整えると、ルーディーンも広場に戻ることにした。
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