173 外神復活 地(つち)滅べる忘念の翼

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 ララキが人でないものに変容していく。

 その異常な光景を目の当たりにして、ミルンとスニエリタは言葉を失った。


 『生け贄』ではなく『器』になることが彼女の最後の役目だと彼らは言った。

 文字どおり、タヌマン・クリャの本体がこの世に顕現するための容れものの扱いだ。

 そこにララキという人間個人の尊厳や意思は微塵も省みられていない。


 こんなことがあっていいのか。


 こんなことのために、自分たちは彼女を探し出してしまったのか。


 やはり間違っていたのだとスニエリタは理解した。

 あれほど信頼し慕っていたヌダ・アフラムシカからこんな裏切りを受けるくらいなら、何も知らずにラスラ島で令嬢トレアニの偽者として生きていたほうが、きっと遥かにましだった。

 そしてララキをこんな地獄に引きずり込んでしまったのは、その手助けをしたのは他でもない自分自身だ。


 取り返しのつかないことをしてしまった。

 世界のことなど無視して、クリャを黙殺しておくべきだったのに。


 あまりにも卑怯だ。ミルンを送って寄越されたら拒むなんてできやしない。

 きっと彼らもそれを見越してミルンにも声をかけたのだ。

 スニエリタがどんなに彼に焦がれていたかを知っていて、その気持ちを利用した。


 ミルンもまた、彼が仲間想いなのを利用された。


 誰もかれもが神の手のひらの上で踊らされていたのだ。


「なんてことしやがる……! そいつはあんたを信じてたんだぞ!」


 ミルンは怒り、耐え切れずに拳を振り上げた。

 けれども人間の手が神に触れられるはずもない。

 アフラムシカから歩幅三つほども離れたところで見えない壁のようなものに弾かれ、反動でそのまま無様に地面を転がる。


 その姿をまるで憐れむように見下ろす男は、両腕に今も獣と化したララキを抱いたまま。


 いや、それはもう、ララキではないのだ。

 さきほどからぴくりとも動かないし声も上げないけれど、その姿は完全にタヌマン・クリャのそれと同一のものとなっている。


 隣でそれを黙して見ていた傀儡は、今はゆっくりと崩壊しつつあった。

 本体を取り戻したらもう傀儡は不要だとでもいうのだろうか。


 スニエリタはミルンに駆け寄って、彼が立ち上がるのを手伝いながら、眼からは涙が零れるのを感じていた。


 悲しいといえばいいか、悔しいといえばいいか、腹立たしいといえばいいか──いろんな感情がめちゃくちゃに入り混じった涙だ。

 そしてただ、ララキが哀れだった。


 こんなことならもっとたくさん話しておくんだった。

 話したいことがたくさんあるのに、何ひとつ伝えられないまま彼女はいなくなってしまった。

 きっとララキだって聞きたいと思ってくれただろうに、それなのにこんな、あっけなさすぎる別れなんて。


「こんなの……あまりにもひどすぎます……!」


 泣きながら、アフラムシカを睨んで叫ぶように言った。

 こんなに大きな声で、こんなに強い感情を込めて誰かを罵ったのは生まれて初めてだ。


 こんなにも誰かを許せなかったことなど今までにない。


 きっと、これからもないだろう。ララキより大事な友だちなんてもう二度と作れない。


『……私は、鬼だ。人や獣の生命を神の都合で歪めてはならない、という原則を自ら定めておきながら、真っ先に己がそれを破ってしまったのだから。

 おまえたちの怒りはもっともだ。ゆえに反論はするまい。……ほんとうに、この子には可哀想なことをした』

「ララキさんを返してくださいッ! 返して、そして、彼女に謝って……!」

「もうどうにもならねえのかよ!? あんた神だろうが! 神ってのは、人間を救うもんなんじゃねえのか!!」


 這いつくばって、泣き喚いて、行き場のない激情がその場にこだまする。


 何ひとつ納得なんてできやしない。

 こんな結末のためにふたりは、いや、三人は旅をしてきたのだろうか。

 誰も何も得られないまま、たったひとつのかけがえのないものを失って終わるなんて、こんなくそったれな物語があっていいのか。


 ──物語はハッピーエンドで終わらなくちゃ──冗談めかした彼女の口癖が、ふたりの脳裏に閃いてはじくじくと痛む。


 ほんとうにもう、どうすることもできないのか。

 何かないのか。


 ふたりが無意識に、ほとんど同時に虚空に向けて手を伸ばした、そのときだった。


『……うーん……?』


 聞こえるはずのない声がした。

 それは神々の言葉と同じように、鼓膜を震わせるのではなく、直接頭の中に流れ込んでくるようだった。


 ミルンとスニエリタは眼を見開く。

 紫紺と空色、それぞれの瞳に映りこんでいる光景は、アフラムシカの腕に抱かれた小さな獣のわずかな身じろぎだ。


 一見して鳥、しかしところどころに爬虫類じみた特徴を備えたその獣は、やがて両手両足、もとい前後の脚をぐーっと伸ばした。

 翼の先には小さな鉤爪が覗いている。

 獣はふるふると尾羽を震わせながら、ゆっくりと眼を開く。


『んー、っと……ふたりとも何を騒いでんの? え、あれ、しかも何、泣いてる? ミルンまで?

 ……どしたの!?』


 それは、姿かたちはどう見てもタヌマン・クリャだったが、声と口調は完全にふたりがよく知るララキそのものだった。


 ふたりはもはや声も出ずに呆然とその姿を眺める。

 何が起きているのかまったく理解がしがたかった。


『彼らはおまえのことを嘆いてくれているのだ。ララキ、好い友人を持ったな』

『え、え、どゆこと? ていうか……シッカ、いつまであたしを抱っこしてるの? ……嫌ってわけでは、ない、けど』

『……今しばらくこうさせてくれ』

『わ、……わか、った……けど……ミルンたちがいるし、さすがに人前は恥ずかしいかも……。

 ってうぇぇえーーーーーーッ!? 何っじゃこりゃああぁぁ!!?』


 クリャの姿をしたララキ、たぶん、は照れ隠しに口許を覆おうとして、自分の前肢が人の腕でなくなっていることにようやく気がついたらしい。


 さすがに驚いて尋常ならざる悲鳴を上げ、その圧倒的な声量にその場の全員が頭を抱える事態となった。

 アフラムシカだけは彼女を落とすまいとなんとか堪えたようだったが。


 己の姿に大混乱している姿を見て、ふたりは恐る恐る彼女に近づいた。


「ララキ……だよな?」

『そうだよ、なんか見た目が変なことになっちゃってるけど……あ、でも落ち着いて考えたら眠くなる直前にもうこんな感じになりかかってた気がする……』

「外見はタヌマン・クリャのそれですけど、中身はララキさんで間違いないんですよね?」

『うん! ちゃんとふたりのこともわかるし、もう頭ははっきりしてると思う』

「おい、じゃあ、神の器がどうたらっていうのは……」


 ふたりと一匹が唖然としながらアフラムシカを見ると、彼はまた悲しそうな瞳をしながら語った。


 ──このとおり、ララキは人ではなくなってしまった。俺のせいだ。


 彼が言うには、このように千年以上にも渡って人間の胎内に神を封じるというのは、過去に前例がないことらしい。

 それでも神の知識を以てすればある程度の予測はできる。

 永い年月ひとつの肉体を共有しているうちに、ララキとタヌマン・クリャの魂が癒合しつつあったことも彼は感じていた。


 そして封印を解放したことにより、ついに完全に同化してしまったのだ。


 つまりララキとクリャとの間の境目がなくなってしまい、今は肉体を完全に支配したのはクリャであるが、元あったララキの人格、つまりは紋章も残留したままの状態になっている。

 むろん本来のクリャの神格が消えたわけではない。


『クリャ、出てこられるか?』

『お呼びとあらば。……なんだ貴様ら、まだ居ったのか。帰ってよいと言ったろう』

『……このような状態だ。説明を続けるので一旦ララキに代わってくれ』

『──すごい、気持ち悪い! 一応クリャが表に出てる状態でも、あたしにも話は聞こえるみたいだけど……なんかやだー!』


 羽毛を震わせて前後の脚をばたつかせるララキに、アフラムシカはもう何度目かわからない謝罪の言葉を口にする。


『ほんとうにすまない、ララキ。おまえの意思を無視してこのような姿に……。

 だが今は非常の時、しばらくはこの不便に耐えてほしい。


 まず私はフォレンケを探さなければならないのだ。一緒に来てくれるか』

『……うん。なんか今ね、頭の中でクリャの声がして、世界がどんなことになってるのか教えてくれてる……。

 あとね、フォレンケのとこに行くなら、ミルンたちも一緒に、って』

「俺とスニエリタも?」

『フォレンケから何か頼みごとがあるみたい。人間じゃなきゃできないんだって。ふたりは……いい?』

「もちろんです」


 迷わず即座にそう答えたスニエリタを見て、ミルンがちょっと驚いた顔をした。

 だが、彼もたぶん同じ気持ちなのだろう、そのまま黙って頷く。


 自分たちの旅は、まだ終わってはいない。


 それに今ここで別れたらもう再会できる保証はないのだ。

 ララキがこの先どうなるのか、人間に戻る日が来るのかどうかを見届けるには、まだしばらく行動を共にする必要があるだろう。

 それに世界の異常を知ってしまった自分たちは、このまま何も考えずに日常に戻れはしない。


 中途半端なところでふたりだけ終わるより、最後まで三人で終わらせたいのだ。

 この旅を。


 それにスニエリタ個人としても、もっとララキと話がしたかった。

 ハーシで離れ離れになってからというもの、いくら時間があっても語りつくせないほど、いろいろなことがスニエリタにはあったのだ。

 きっとララキにも。


 何も話せないままマヌルドに帰ったら絶対に後悔する。

 それより一緒に行くことを選びたい。


 ふたりの意志が固いことを理解したのだろう、アフラムシカも静かに頷いて、それから彼の身体はゆるりと熔けるように変貌した。

 自分たちにはよく見慣れたライオンの姿になったのだ。


 鬣に覆われた首の後ろにララキがちょこんと乗った状態で、さらにその背にスニエリタとミルンも乗るようにと指示してきた。


 神の背に騎乗したことのある人間なんてそれこそ前例などないだろう。

 そもそも乗れるのだろうか、という不安がよぎる。

 もちろんただの人間であるスニエリタやミルンは、神を前にしただけで脱力し、近づくほどに膝を衝いてしまうのだから。


 しかしそのあたりは神の側で調節でもできるのか、今はどれだけアフラムシカに近づいても平気だった。


『ふたりはあたしに掴まっててね』

『フォレンケはどこに?』

『──それにはオヤシシコロカムラギを訪ねられよ』


 なんの前置きもせずにララキとクリャが入れ替わるのには面食らうが、スニエリタはしっかりとその小さな身体を抱くように掴んだ。

 不思議とそうするだけでアフラムシカともぴったりくっついていられるのだ。

 ちなみに最後尾がミルンである。


 次の瞬間、ライオンの神は力強く大地を蹴った。


 大地が消えた、と思った。それくらいの一瞬だった。


 全員を包むのは前後左右上下すべてが空で、いななくような激しい風で、想像を絶するような速さで神は空を駆けていく。

 それなのに驚くほどに快適だ。

 ゴーグルをつけなくても眼は痛くならないし、耳もひりひりしない。


 眼下に広がっていたイキエスの美しい自然が、すぐに秋を装ったマヌルドへと変わる。

 家に戻るのはいつになるだろうか、そんなことを今さらのように思いながら、スニエリタはそっとララキに囁いた。


「あの……ララキさん。わたし、ララキさんとお話したいことが、たくさんあるんです」

『……うん。あたしもいっぱい話したいし、聞きたい』

「あとでゆっくり時間がとれるといいですね」

『ねえ。……じゃ、あたしたちでちゃちゃっと世界を元に戻しちゃおう! 大丈夫、ほら、あたし今ある意味、神だから!』

「うふふ、ほんとですね」

「……ほんとおまえはぜんぜん変わんねーよな」


 ミルンが呆れたような、しかしどこか安堵したような声で、そう言う。

 まったくもってそう思う。


 姿かたちが変わってもララキはララキのままだ。


 どうしてそんなに強いのか、やはり千年も独りぼっちで結界に閉じ込められるという究極の経験をしたせいなのか、あるいは生まれ持った素質なのだろうか。

 いずれにしてもララキのそういうところを尊敬している。


 それと同時に、言いたい。


 自分たちは変わった。

 成長したのだ。

 できるならその成果を見てほしい、と。


 今はそんな時間はないとわかっているから、スニエリタは黙ったまま、ララキを抱き締める手に力を込めた。


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