171 贄はふたたび岩戸に帰る
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突然やってきた旅人たちが、おまえはトレアニ・ラスラハヤではないと口々に言う。
両親はそれを聞いて泣き崩れ、従兄は呆然と立ち尽くし、修道女は言葉を失ったまま自分を見つめている。
なんだかとんでもないことになってしまったと、彼女は思った。
珍しい喋るウサギの来訪を喜んでいた場合ではなかったのだ。
思わず旅人の少年のほうに駆け寄って抗議を試みるけれど、彼は揺らぎのない瞳でまっすぐこちらを見つめ返しながら、もう一度同じ言葉を繰り返した。
──ほんもののトレアニはあの墓石の下だ。おまえじゃない。
では、それなら、自分は一体何者なのだろう?
「……おい、クリャ、早く呼んでくれ」
少年はふいに空を見上げ、そう呟いた。
聞いたことのない名前だ。
しかし誰に向かって言ったのだろう、彼は少女のほうを見てはいないし、だいいち女性の名前には聞こえなかった。
けれど、次の瞬間。
身体がぼんやりと熱くなるのを感じた。
まるで寝苦しい夜の、ねっとりと湿った熱気に包まれているような心地だった。
意識もふわりと浮き上がり、今、自分がまだちゃんと立っているのか、それとも倒れてしまったのかもわからないほど、全身から感覚がなくなっていく。
やっぱり自分は病気なんだろうか、なんてことを思ったのも一瞬で、すぐに違うとわかった。
頭の奥にだけ氷を差し込まれたような冷たさが走る。
鋭い痛みを伴ったそれは、そのまま身体を縦半分に割り開いたように爪先にまで一気に駆け下りた。
一瞬のことだったが、あまりの苦しさに、たぶん悲鳴を上げたのだと思う。
まだうっすらと開いていた視界のけぶりの中に、駆け寄ってくる旅人の少女の姿を見た。
不思議と、それを嬉しいと感じた。
初対面のはずなのに、まるで長年親しんできた友人に会ったかのような気分で、どうにかして彼女の名前を呼びたいと思ってしまう。
知りもしないその名前を……。
崩れそうな身体を両側から旅人たちに抱えられて、ただ精一杯に息だけを繰り返す。
どうしてこんなに苦しいのだろう。
これは彼らのせいなのだろうか。
この少年が、少女が、あるいはクリャという名の誰かが、自分の身体に何かしたのだろうか。
家族は、傍に来てくれない。両親も従兄もこちらから顔を背けているようだった。
修道女だけは目を見開いてこちらを見つめているけれど、その表情は驚愕というより、恐怖に近い色で塗り潰されている。
どうして、と出ない声で呟いたとき、震える己の腕がちらりと視界に入り、その意味を理解した。
見たこともないおぞましい模様が皮膚の上を走っているのだ。
見えるかぎり、二の腕から指の先まで、もしかしたらきっと身体じゅう、模様に侵されていない部分はない。
なぜならそこがひどく熱い。顔も喉も、胸も腹も脚も、すべてが煮えたぎるように熱いのだ。
「ぁぁああああッ──!」
気づけば己の喉から、吹き上げるような絶叫が漏れ出ていた。
「ララキさん、ララキさん……っ」
「おいクリャ! どういうことだよ、なんでこんな──ぁがッ!?」
突然、少年が撃たれたように倒れ、支えを失った自分ももろともに地面に転がった。
あるはずの芝の感触もわからないほど身体じゅうが熱い。
もはや熱気などではなく、直に炎に包まれているかのように。
少女の泣き叫ぶような声が聞こえる。さっきから彼女は自分のことをララキと呼んでいる。
──それが私のほんとうの名前なの?
尋ねたいけれど、それどころではない。
ものすごく熱くて、めちゃくちゃに痛くて、どうしようもなく苦しいのだ。
息すらまともにできなくて、このままではきっと死んでしまう。
──助けて。
誰でもいい、誰か、助けて。
誰か。
誰かの腕が。
力強い腕の感触が、急に自分を
それが触れた瞬間から嘘のように熱が収まり、そして同時に氷が解けるように、胸の奥に閉ざされたものたちが返ってくる。
名前。ララキ。
生まれは呪われた民の国。物心ついたころ、結界に閉じ込められて人生の大半をそこで過ごした。
そのあとイキエスの紋唱学者、ジャルーサ・ライレマの養女になった。
けれどどうしてもやりたいことがあったから旅に出ることにした。
そこで出逢ったのが、少年ミルンと、少女スニエリタ。大事な相棒と大好きな友だち。
思い出した。
思い出してしまった。
ララキは涙でぐしゃぐしゃになった眼で、目の前に立つ男性を見上げる。
浅黒い肌、屈強な肉体の上を踊るように広がる鮮やかな刺青、赤銅色の美しい頭髪。
額に翳した金の装飾が陽光を受けてきらきらと輝いている。
その下にある蒼金色の瞳は穏やかに澄んで、けれども今は、悲しそうに歪んでいた。
「……シッカ……」
そうだ。彼の名前は、ヌダ・アフラムシカ。
今は人の姿をしているが、本来はライオンの
どうして今の今まですっかり忘れてしまっていたのだろう。
それにここはどこで、ララキはいったい何をしていたのだ?
改めて自分の恰好を見てララキは仰天した。
どちらかというと自分よりスニエリタが着たほうが合いそうなきれいなドレスを着て、髪なんかほとんど下ろして邪魔ったらしいことこの上ない。
そのうえ両手とも素手ときている。
いつもの服と手袋はどこへやってしまったのだろう。
というかなんでこんな衣装なのだ。
ぽかんとしたままシッカを見上げると、彼はまだ辛そうな表情を浮かべたまま、昔よくしてくれたようにララキの頭を撫でた。
また子ども扱いして、と言おうとしたが、次の瞬間ララキの身体が思わぬ浮遊感に襲われたので、それどころではなくなってしまう。
背中と太腿の裏に力強い腕の感触がある、ということは。
ララキはシッカに抱きかかえられた状態で、ものすごく近くに彼の顔がある。
「……ええええ!?」
何がなにやら分からないまま、次の瞬間には凄まじい風に包まれていた。
あまりの風圧に眼を開けられなかったのでわからないが、体感だけで言うなら、竜巻の真ん中に飲み込まれたような気分だった。
それが収まったかと思うと今度はまた湿った熱気が襲ってくる。
しかし、今度のは身体を蒸し焼きにするようなひどいものではなく、ただ身体中にまとわりついて不愉快なだけだった。
おそるおそる眼を開けたララキの目の前に、嫌というほど見覚えのある風景が広がっている。
散らばった岩。
その表面に刻まれた気分の悪くなる模様。
ララキの記憶と違うのは、今はミルンやスニエリタもいることだ。
このわけのわからない状況の中、彼らはわりと落ち着いているように見える。
ふたりとも心配そうにこちらを見ているのが少しくすぐったい。
ようやくシッカが大きな岩の上に下ろしてくれたところで、これで落ち着いて話ができそうだとララキは思った。
それにしても、どうしてこんな場所に。
さっきの芝生の上のほうが空気も爽やかだったのに。
ララキは無言のまま足元の瓦礫を見下ろす。
どれもこれも見覚えがあるものばかりだ。というか、あれだけ永い間見つめてきたのだから、もう死ぬまで忘れようもないのではないか。
つまりここは、タヌマン・クリャの結界があった場所。
かつて生贄としてララキが捧げられていた祭壇の成れの果てだ。
『……おかえり、我が贄よ。気分はどうだね』
ふいに聞こえてきたその声に、ララキの肩がびくりと固まる。
見上げた樹の上、今にも折れそうな枯れかけのか細い枝の先に、そいつの姿が見える。
すべてが泥の色をしたこんな場所で、異様に鮮やかな飾り羽が輝いているようだった。
「クリャ……」
『無事に取り戻せてよかった。しかし悠長にしている暇はない、早くするべきことをしようじゃないか』
「何の説明もしてやらねえのかよ」
口を挟んできたミルンに向かい、クリャは嘲笑うような表情で答える。
『おまえの役目はもう終わりだ。ご苦労だったな。
……もはや神に関わる必要もない、スニエリタともども故郷へお帰り』
「そういうわけにはいきません。あなたがたがきちんとララキさんに事情をお話しするまでは、わたしもミルンさんも、ここから離れませんから……」
ララキはぽかんとして、自分とクリャの間に立ちふさがるスニエリタを見た。
自分より小柄で気も弱かったあの彼女が、どうして今はこんなに頼もしく思えるのだろう、まるでクリャに操られていたころの彼女のようだ。
それにスニエリタの隣には、寄り添うようにミルンが立っている。
なんだか自分が離れている間に長い時間が経ってしまったみたいだ、とララキは思った。
こうしている間にも少しずつ記憶は戻りつつある。
ハーシ連邦のミルンの故郷を訪ね、そこでタヌキとキツネの神の試験を受けたことや、その結果みんなと離れ離れになってしまったこと、追ってきたミルンとも再び引き離されたこと。
そしてアンハナケウに連れられたこと。
シッカの枷が外されるところも目の当たりにしたし、あの時点でララキの目的は概ね達成されていた。
だが、クシエリスルの神々はララキの存在をまだ認めてくれてはいなかった。
処遇をどうするべきかという話になり、カーシャ・カーイの不穏な一言でシッカの立場や議論の流れが怪しくなったときに、異変が起きたのだ。
そのあとの記憶は、ない。
気付けばララキは見知らぬ土地で別人として生きていた。
「ララキ、おまえがアンハナケウに行ったときに、この世界はどっかの神によってひっくり返されちまったらしい。
今は世界中が『クシエリスル』って名前でそいつを崇めてる状態だ。他の、もともと祀ってた神のことはすっかり忘れてる。
俺もシッカとクリャが現れるまでは旅をしてたことすら忘れてた」
「わたしは背中の模様の効果で記憶は無事でした。そこへミルンさんが来てくださったので、一緒にラスラ島まであなたを探しにきたんです」
「え、え……? でも、なんであたし……待って、よくわかんないんだけど、あたしはなんでそんなとこにいたのかとか、ふたりが探しにきてくれたのは嬉しいけど、シッカとクリャがミルンのとこに来たってのはつまりどういう」
「はっきり言うと、こいつらは初めから
ミルンがシッカを、そしてスニエリタもクリャをじっと見据えてそう言った。
ふたりから静かな怒りの気配が立ち上っている。
ララキはその言葉をぼんやりと聞いていた。
きっとふたりは自分のために怒ってくれているのだということがわかるし、それは正直言って、とても嬉しいことだった。
だからこそ胸の内の大半を占めているのはどうしようもないやるせなさだ。
ララキはもうほとんどすべてを思い出してしまった。だから、わかっていた。
「……クリャに、クシエリスルから出ろって言ったのは、シッカなんだよね……」
「知ってたのか!?」
「うん、一回だけ、そういう夢を見たことがあって。いろいろあってふたりには相談できないままだったんだけど……」
彼の指示で、ララキの神は同盟からの離反者となった。
その彼がわざわざクリャを襲撃し、そこに囚われていたララキを救出して自らの加護を与えたなんて、やはり何かおかしいと思っていた。
ただの人間、しかも自分の信徒ですらない小娘を助けることになんの利点もないどころか、他の神の不興を買って己を窮地に追い込むことにまでなったのだ、シッカの行動は明らかに歪んでいる。
消えかけてぼろぼろになったシッカの姿を思い出す。
体中に重い枷を着けられてどんなにか苦しかったろう、彼が何のためにそんな苦行に甘んじたのか、よくよく考えてみればわかることだ。
ララキを己の信徒にせよというルーディーンたちからの提案も拒否した。
そんなことをすればクリャの存在が危ぶまれるから。
彼もまた、クリャのために、どうあってもクリャの信徒としてのララキを生存させなければならなかった。
彼がララキにくれた優しさはぜんぶ、クリャのためのものだったのだ。
薄々わかっていた。
クリャに自分の指示で汚れ仕事をさせる以上、シッカは彼を裏から守ることに徹していたのだろう。
すべてはその一環で、ララキはただ、たまたま生け贄だっただけ。
そうしてここにもう一度連れて来られたということは、恐らく求められるのはただひとつ。
また神への供物となること。
きっとそのほうが、シッカにとっても都合がいいのだ。
『──違う』
それまで静かに人間たちの話を聞いていたシッカが、ふいにララキの前に歩み出た。
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