161 邪智暴虐のけだもの

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 甚振られてぼろぼろのラグランネが放られて、アルヴェムハルトの肩にぶつかる。


 こちらの痛みより彼女のくぐもった呻き声のほうが胸に刺さった。

 どちらかといえばかわいらしかった顔は紫色に腫れ上がり、くちびるの端から血を垂らして、女神はぴくりとも動かない。


 馬鹿なことをするからだ。疑われるのがわかりきっている状況で、ドドに媚びる素振りなど見せるから。


 そんなにカーシャ・カーイを守りたいのかと呆れ、同時にもう少し別の感情に喉を軋ませながら、アルヴェムハルトは彼女に手を伸ばす。

 せめて傷口を冷やしてやらなければ。

 だが、その手がラグランネに触れる前に、彼女ごとドドによって踏みにじられた。


 平たく大きな足が、ラグランネの腹を下敷きにアルヴェムハルトの手首から先を押し潰す。

 もうラグランネに意識はないようで、自分自身の痛苦の声だけが地面にのたうち回るのを、どこか他人事のように聞いた。


 このままでは手首が砕けるし、ラグランネの内臓も破裂する。

 わかっているのに抗う術がない。

 今のアルヴェムハルトは激痛に耐えるのに精一杯で、ドドの脚を払いのけるだけの力は出せないのだ。


 しかもドドはその体勢のままアルヴェムハルトの頭を殴打した。

 ラグランネへの平手など優しいものだったのだとわかるほど、一切の容赦も手加減もなく振るわれたドドの豪腕は、アルヴェムハルトの頭蓋を一撃で砕いた。


 神であるがゆえ死にはしないが、意識は飛ぶ。

 視界が真っ赤に染まってぐらぐらと揺れ、そのあと他にも何箇所か殴られたようだったが、知覚する余裕もなく時が過ぎる。


 かすれた心の底でぼんやり思う。どうして自分はこんなに弱いのだろう、と。


 盟主を務めるような大神と、自分たちのような中堅の神との差は、どこから来るのだろうか。

 強くなろうとする意志を持っていたかどうか、かもしれない。

 カーイやドドのように容赦なく周りを喰らって勢力を伸ばせばよかったのか。


 しかし思い出せるかぎり、アルヴェムハルトの神生じんせいにそんな暇はなかった。

 生きていくので必死だった。


 近いところにペル・ヴィーラのような古く強力な神がいたので、彼の従者として生計を立ててきた。

 そうした存在に逆らって何もかも失うよりは、機嫌を伺ってときどきおこぼれに預かるほうが、弱い神にとっては賢い選択だったのだ。

 おかげで風見鶏などという不名誉な渾名を頂戴する結果になったが、それ自体を恥じたり後悔したことはこれまでなかった。


 だが、今はどうだ。


 もっと力をつけて、カーイやヌダ・アフラムシカのようにこうした非常事態への備えをしておけば、こんなことにはならなかったのではないのか。


 きっと目の前で嬲られるラグランネを見なくて済んだ。

 そもそも彼女にあんな愚かなことをさせなかった。


「……大人しくなったな。では、記念すべき最初の糧は、"渓谷の賢者"アルヴェムハルトだ」


 血溜まりの中に転がるアルヴェムハルトを見下ろして、ドドは酷薄な笑みを浮かべる。


 一体何が彼をここまでの邪悪に駆り立てるのだろう。その言動には良心のかけらもなく、もはや暴力と収奪のための器官となり下がったその手が、アルヴェムハルトを摘み上げる。


 赤黒く染まった金髪からなおもぼたぼたと血が垂れ続けているのも構わず、ドドは大口を開けてその腕に喰らいついた。


 ぶちぶちと筋を引き千切る音があたりに響く。

 意識のある者は悲鳴を上げ、アンハナケウは阿鼻叫喚の地獄と化した。


 アルヴェムハルトは付け根から腕をもがれ、傷口から滝のように血が溢れる。

 ドドの足元に転がっていたラグランネの上にも降り注ぐ。

 傍で這いつくばっていたフォレンケや他の神にも。


 これ以上ないほどのひどい光景だった。

 もはやアルヴェムハルトは呻くことさえなく、意識があるのかわからない状態で、呆然としたまま暴行を受けていた。


 それを間近に見ていたフォレンケにいたってはもはや発狂しそうになりながら、あまりの残虐さに眼を逸らすことさえできない。


「貴様……ドド……そこまで堕ちたか……!」


 ヴィーラが呪詛を吐いてもドドは少しも顔色を変えず、アルヴェムハルトの腕を貪り喰らう。


 逆に、そのような言葉を口にできるのはもう彼だけだった。

 先ほどまでラグランネのために怒りを露わにしていた面々も、酸鼻を極めた場面を目の当たりにして言葉を失っている。

 本能的な恐怖に萎縮してしまっているのだ。


 次は自分だ、とその場の誰もが思った。


 カーイやアフラムシカが戻ってくる気配はない。

 彼らがどこで何をしているのか誰も知らない。


 いつこの暴虐が収まるときがくるのかわからないし、それまで自分が無事でいられるという保証もないのだ。

 みな一様に震え、怯えた。




 ヤッティゴは縮こまった。

 自分の尾なら千切られてもすぐに再生するが、アルヴェムハルトの腕はそうではない。


 きっと今は声も出せないほど苦しいのだろう、なんとか助けてやりたいが、ドドに逆らう力は自分にはない。

 今は、ではなく元からないのだから、どんなに力を振り絞っても無意味だとわかりきっている。


 それに下手なことをしたら自分も喰われてしまう。

 正直、それは怖い。神にも恐怖や痛みはある。


 ああ、どうしてこんなことになったのだろう。

 クシエリスルに入ってから、ドドだって案外いいやつだと思っていたのに、あれはぜんぶ嘘だったのか。

 ドドが一体何を考えているのか、さっぱりわからない。




 オーファトは拳を握り締めた。

 もう少し力が戻れば己の手に刃を生み出すことができる、そうすれば口だけでなくドドに対抗する術もあるだろうに、今はその僅かな差を縮めることができないのだ。


 なんと己は無力なのだろうか、誰かがやられるのを黙って見ているのはこんなにも口惜しいものか。


 武芸の神である己を、ドドが見逃すはずはない。近いうちに己の番が来る。

 そのときまでに、なんとか反撃の姿勢を整えなければならないが、それには一体どうすればいいのだろう。




 ティルゼンカークは項垂れた。

 同じく東部に生まれついた神として、互いに精霊のころからアルヴェムハルトとは付き合いがあり、クシエリスルに下ってからはもっぱらヴィーラの補佐仲間として親しくしてきた。

 人間風に言うなら友人にあたる彼がこんなふうに甚振られ、自分の足元にまで血が流れてきたのを目の当たりにしている。


 彼はラグランネを守りたい一心だったのだろう。

 風見鶏と揶揄されたほど慎重派のアルヴェムハルトが後先も考えずにドドに逆らうなんて、それしか考えられない。


 その気持ちはよくわかる。

 わかるからこそ、やりきれない。




 ペル・ヴィーラはドドを睨んだ。

 ねめつけながら己の内の感覚を研ぎ澄ませ、今の自身ができる限界の地点を探る。


 中堅の神々よりは動けることを確信してはいるが、ドドを倒すには至らないだろう。

 しかし、ドドがアルヴェムハルトの捕食に集中している隙を狙えば、あるいはやつから何かをそぎ落とすこともできるのではないか。


 しょせん今のドドが纏っているのは紛いものの神格で、完全にその身に馴染むにはかなりの時間を要するだろう。

 ヴィーラの攻撃が成功すればその繋がりに衝撃を与えることも不可能ではないはず。

 ただし機会は一度きり、もっとも確実な瞬間に、今できる最大限の一撃を食らわせなければならない。


 その時機を伺うのだ。


 アルヴェムハルトのことは完全には救えないかもしれないが、まだ見放したつもりはない。

 自分は東部の盟主だ。

 アフラムシカに指名されたときから、その位に見合った責は負うつもりで引き受けている。




 そして、フォレンケは、ガエムトの名を呼んだ。

 かすれて消えかけた小さな声で、途切れ途切れになりながら。


「い……ガ……エム……ト……のぼ……て……」


 ──来い、ガエムト。昇って来るんだ、今すぐ、アンハナケウに。


 知らずフォレンケの眼から零れ落ちた涙が、そのまま地面に吸い込まれていく。


 けれども顔の下に小さな染みがひとつできただけで、忌神の王からの応答はなかった。

 いつもならすぐにあるはずの反応は、例えば地揺れや咆哮の類は、どんなに耳を凝らしても聞こえてこない。


 そんなことは初めてだった。気まぐれで自分勝手で誰の言葉も聞かないが、フォレンケの指示にだけはなぜか絶対に従ったガエムトが、要請に応じないことなど今まで一度もなかったのに。


 まるで世界から彼が消えてしまったかのようだった。


 あるいはガエムトも別のどこかに囚われているのかもしれない。

 それもそうだ、ドドもガエムトに対してはそれくらい慎重に対応していることだろう。

 誰だって真っ先に彼を警戒する。


 とにかく言えることは、今のフォレンケは絶望的に無力であるということだけだ。


 元から強いほうではない。

 それこそ単純な力比べでは同地域のオーファトの圧勝だが、ガエムトを従わせられるという一点で、クシエリスルにおいては重要な役を任されることもあった。

 主神を名乗っていたのもそれゆえだ。裏を返せば、ガエムトという後ろ盾がいなければフォレンケには何もないのだ。


 戦乱や闘争はどうも苦手な性質だったから、それでいいと思っていた。

 そして必要以上の強さを求められないという点で、万神平等たるべしというクシエリスルは、フォレンケにとっては優しい仕組みだった。


 何が間違っていたのだろうと、ずたずたに齧られていくアルヴェムハルトを見つめながら思う。


 すべての神を繋いでしまったことか。

 それとも、その仕組みがこれほど簡単に利用されてしまうほど、機構の保全体制が甘かったことなのか。

 あるいはこうした事態にほとんどの神が備えをしていなかったことかもしれない。


 たった二柱だけ対策していたらしいアフラムシカたちは、どこにいってしまったのだろう。


 このままだとアルヴェムハルトが死んでしまう。

 それにきっと、ドドは血に興奮して、ここから殺戮を活発にしていく。


 あからさまに逆らわなくても喰い殺されるのは時間の問題だ。

 ドド自身、もとから女神以外はひと柱たりとも残すつもりはないようだった。


「……ッ」


 不意に、フォレンケの内側に奇妙な感覚が生じる。

 声に出して反応することも億劫な状態だったので、ろくに身じろぎもなく、ドドなどには気づかれなかった。


 だからといって安堵できるわけでもなく、違和感はすぐに膨らんでいく。


 引っ張られている、と感じる。

 どこかから、誰か強い力を持った者に、呼ばれているような気がする。


 この状況でフォレンケを呼ぶのは誰なのか、さっぱり見当がつかない。

 そもそも呼ばれたところでフォレンケに応じる自由はない。

 身体はアンハナケウに見えない鎖で縫い止められたような状態で、たとえ立ち上がったりできたとしても、フォレンケの意志で外に出ることなど不可能だ。


 だが、呼び声はなおも続く。

 信じられないほど強い力でフォレンケを召喚しようとしている。


 異様だ。今、ドドより強い力を有する神はいないし、姿を消しているヌダ・アフラムシカやカーシャ・カーイでも、こんな力が出せたならすぐにでもドドを止めていると思えるほどの力強さを感じる。

 他にクシエリスルの呪縛を逃れた神や精霊などいようはずもない。


 そこまで考えて、まさか、とフォレンケは出ない声で呟いた。


 ひと柱だけ残っている。

 クシエリスルに属さなかった唯一無二の神が、この大陸に。


 しかし、だが、タヌマン・クリャにこれほどの力があるわけがない──困惑するフォレンケを、さらに強く何者かが引く。


 そして、その場にいてフォレンケの異変を感じた他の神の何柱かは、彼の姿が地中に飲み込まれるのを見ただろう。

 フォレンケ自身が狼狽や驚愕の表情を浮かべていたのにも気づいたはずだ。


 そして彼らのざわめきが、食事中のドドの注意を少しだけ引くことになった。


 ドドは喰いかけのアルヴェムハルトを一旦離し、神々の見つめる先を伺う。


 いるはずの神がまたひと柱消えた。フォレンケがいなくなったことにはすぐに気づいた。

 状況を理解した瞬間、ドドはアルヴェムハルトを放り投げ、立ち上がっていた。


 アフラムシカやカーイなどより、よほど脅威になる存在に逃げられた。


 ドドはそう解釈した。いくらクシエリスルを丸ごと手中に収めたといっても、ガエムトに関してはこれで完全に御せたとは言いがたい。

 なんとなれば元の神盟ですら満足に彼を制御できていたわけではないのだ、ここでフォレンケを逃がしてしまうのは、最終的に他のどんな神の反乱よりも確実にドドを脅かすことに繋がる。


 彼がガエムトと接触する前に連れ戻さなければならない。


 ドドはそう確信し、無言でアンハナケウを飛び出した。


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