129 帰還
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ゆっくりとハーシに冬が近づいている。
窓を叩く風の音が日増しに激しくなっていくから、それがわかる。
ハーシには、秋の終わりに窓を揺らすのは妖精の仕業だというおとぎ話がある。
カーシャ・カーイの眷属である雪の妖精フリュイが、人間たちに冬支度をさせるため、雪を降らせる前に窓を叩いて知らせるというものだ。
長く厳しいハーシの冬を無事に越すためには、雪が降る前に大量の薪や保存食などの貯蓄を済ませなければならない。
妹が小さかったころは、フリュイの姿を見たいと言って、風が吹くたびに窓際に駆け寄っていく姿をよく見た。
もうアレクトリアはそんなことをしない。
今の彼女には鍋の火加減やらオーブンの中身やら、気にかけなければならないことが多すぎるからだ。
台所で妹の手伝いをしていると、兄が入ってきてテーブルに着いた。
すでに外套や帽子は脱いでいるあたり、ついさっき帰ってきたばかりというわけではなさそうだが、いつの間に帰宅していたのだろうか。
玄関から台所まで長い廊下を隔てているせいか、ちっとも気づかなかった。
もともと仏頂面をしていることのほうが多いヴィトレイは、今日はいつにも増して表情が硬い。
食卓に料理を並べている間、三人は誰も一言も話さなかった。
それはこの家ではとても珍しいことだ。いつもアレクトリアが作業の傍ら、何やかやと口を動かしているのが常であり、たいていそれにはロディルやミルン、そして彼らが不在の間はヴィトレイがそれに返事や相槌をうっていた。
このところずっと、アレクトリアが塞ぎこんでいる。
それだけでこの家は静寂の海に沈んでいく。
冷たい波間に石を投じるように、ヴィトレイがぼそりと呟くように言った。
「……ミルシュコの顔を見てきた。ずいぶん
「ああ、うん。……もう二週間も経つんだね」
壁掛けのカレンダーを見ながらロディルは答えた。
三人が眼を醒まさなくなってから、時間だけがいやに早く過ぎていた。
恐らくは神の結界に魂を攫われてしまった三人は、眠りに落ちてから二日ほど経ったころから、身体のあちこちに菌類や苔類などが生えるようになった。
今では傍目に生きているかどうかすらわからない姿へと変貌してしまっている。
一応顔を近づけると寝息のようなものは聞こえるし、当初のようにうなされていることは少なくなったようだが。
今までもそうだったのだろうか。
これまでに彼らが神の試験を受けたときはどうだったのか、もっとよく聞いておくべきだったとロディルは思ったが、もはやこうなっては後の祭りだ。
思わぬ異常事態に途方にくれている兄妹たちに、神はわざわざ説明しに来てはくれない。
誰の仕業でこうなっているのか、一体いつまでこの状態が続くのか、果てしない夢の中で彼らが何をしているのか、二週間が経過した今でも何もわからないままなのだ。
そしてこちらからできることも、恐らくない。
明らかにいちばん憔悴しているのはアレクトリアだった。
一日じゅう家にいて、ミルンたちの姿が変わり果てていくのを間近に見続けているのだから無理もない。
初めのうちは彼らの身体の変化を逐一報告しては泣き喚いていたが、今ではもう何も言わない。
黙ったままひたすら家事をして、少しでも時間が空けば彼らのようすを見にいって、しばらくすると眼を真っ赤に腫らして戻ってくる。
それを日に何度も繰り返していた。
彼らがいつ眼を醒ましてもいいように、台所には常に温かいスープが用意されるようになった。それもとても三人では飲みきれない量だ。
何度も諭したが、アレクトリアにはその作り置きをやめることができないので、ロディルがようすを見てちょくちょく近所におすそ分けに行くようになった。
そのたびにそこの家人に尋ねられる。
──ジーニャ坊ちゃん、ミル坊たちはまだ
町の人にはミルンたちは病気だと伝えている。
旅先でハーシにはない菌を拾ってしまったらしい、他の兄妹は平気だから怖い感染病ではないようだが、念のためこの家に近づかないでほしい、という具合に。
しかし小さな田舎町のこと、そろそろ嘘だということはバレてしまってもおかしくはない。
あるいはありもしない噂が広まるか。
どちらにしても、今よりアレクトリアの心労が増えることにさえならなければ、もう誰に何を言われようが構わないとは思う。
幸いなのはロディルがともに帰ってきていたことだろう。
さすがにマヌルド帰りの威光は強い。
本来ならこうした病人の出現は、医療設備の乏しい田舎ではもっと大きな騒ぎになってもおかしくないが、ロディルが対処していると告げただけでずいぶん周りの反応は穏やかになった。
外国や紋唱術について詳しくない町民たちからすれば、マヌルドの帝都アウレアシノンは想像を絶する大都会。
そこでロディルが学び得たものは、あらゆる不可能を可能へと変えてしまう、魔法のような素晴らしい技術なのだ。
実際にはできることは限られているし、それなりのことをするには相応の準備と手間を要するわけだが、そんなことはこの町の誰も知らない。
それが神の前ともなれば、ますますロディルは無力だった。
魂を攫われた弟はもちろん、それを見て胸を痛めている妹の心すら、どうすることもできずに見守る日々だ。
こんな体たらくでは病床の恋人を救える日も遠いと思える。
今日も妹は大釜いっぱいにスープを作り、洗いものを済ませると台所から出て行った。
たぶんまたミルンたちのようすを見にいったのだろう。そしてきっと、暗い顔をして戻ってくるのだ。
ロディルもヴィトレイも、それがわかっていてどうすることもできず、台所で温いお茶を啜りながら妹を待つしかないのだった。
「もう三日くらいリェーチカの声を聞いてない気がするな」
「夜は特に静かだからね」
ここ最近は、兄とはこんな会話ばかりしている。日に日に紅茶の渋みも増すような気さえしている。
皮肉なことに、ヴィトレイとロディルで交わす言葉はむしろ、ミルンたちが眠り始めてからのほうが多くなった。
ヴィトレイとは少しばかり歳が離れているせいもあって、今までロディルはより歳の近いミルンの相手をすることのほうが多かったからだ。
そしてそれ以上にアレクトリアの面倒を見る時間も長かった。
ヴィトレイは物心ついたころからずっと、父の後を継ぐための勉強で忙しかった。
ロディルはくれぐれも兄の邪魔にならないようにと言われて育ち、兄もまた、弟妹のことを気にしていられる暇はほとんどなかっただろう。
それにロディルは留学に失踪と、長いこと家から離れていた。
予定外の帰省で久しぶりに見た兄は、記憶にあるより大人びた、というよりは老けたという表現が似つかわしい。
それに拍車をかけたのは自分の身勝手な振る舞いもあっただろうと思い、なおさら兄とは気軽に話せなくなってしまっていた。
それが今は真逆だ。
アレクトリアが塞ぎこみ、ミルンが沈黙したので、他に口を聞ける人間がいなくなってしまって初めて、この兄弟は正面を向いて会話ができるようになった。返すがえす皮肉なことに。
「それに少し痩せたんじゃないかな……このままじゃミルシュコがどうかなる前にリェーチカが倒れそうだ」
「そうならないようにしてくれ、ジーニャ。日中はおまえしかいないんだからな。わかってるだろうが、リェーチカがいなけりゃこの家は回らん」
「……気をつけてはいるよ。でも、そうは言ってもどうしようもないだろ、ミルシュコは自力で戻ってこなくちゃならないんだ。僕らには手出しできない領域にいるんだから。
それよりトーリィはそろそろ結婚相手を探したほうがいいと思うけど」
「話を逸らすんじゃない」
珍しく兄が苛立った声を出した。
当たり前だが、ヴィトレイもまた弟の変事に胸を痛めていないわけがないのだ。
もちろんそれはロディルとて同じで、だから今のは、決して冗談のつもりではない。
「……逸らしてないよ。ほんとうに僕らがやれることはそれくらいしかないんだ。
最悪、ミルシュコたちが
「それは……そうだが……」
ヴィトレイが苦々しく呟くのを遮るように、廊下へと繋がる扉がぎいぎい呻いた。
兄弟揃って顔を上げてそちらを見ると、扉のところにアレクトリアが俯いて立っていて、その手には何か四角くて白いものが握られている。
無言のままゆっくりと歩いてきた妹から受け取ったそれは、手紙だった。
宛名のところに柔らかな筆致で、兄妹四人の名前がすべて書き連ねられている。
ロディルはヴィトレイに断ってから封を破り、中を改めたが、内容は便箋が二枚入っているきりだ。
紙を広げる。そこには見慣れた懐かしい文字がびっしりと、紙面が足りないと言わんばかりに書き込まれていた。
とてもその場で読み上げられるような長さではなかった。
──私の愛する子どもたちへ、という書き出しで、その手紙は始まっている。
「……ああ……トーリィ、もしかして、母さんに手紙を出したの?」
「ああ。おまえたちが帰ってきたその日の晩に書いた……」
ロディルは手紙を兄に渡す。そして、歩み寄ってきた妹を抱き締めた。
手紙を受け取ったヴィトレイの手は震えていた。
「モロストボリに帰ってくるって……父さんも一緒に、僕とミルシュコと……その友達の女の子たちとも、会えるのを楽しみにしてる、って」
「……お母さんが」
腕の中でアレクトリアが呻くように言った。久しぶりに聞いた妹の声は、やっぱり涙が混じっていた。
母が今のミルンの変わり果てた姿を見たらどう思うか、と。
もうしばらく会ってはいないが、ロディルの知るかぎり、母はこの世でいちばん優しい人だった。
子どもたち四人に分け隔てなく溢れんばかりの愛を注ぎ、父を支えるために長男以外まだ成人していない子どもたちを置いて首都に出ることを最後まで躊躇っていた。
そんな母がミルンのあのような状態を知ったら、きっとアレクトリアよりも先に壊れてしまう。
だが、ヴィトレイを責められようか。
ずっとひとりでモロストボリを守ってきた兄に、やっと帰ってきた放蕩者ぞろいの弟たちのことを母に伝えるなと、どうして言えるものか。
兄は物静かに何も語らない、言い訳さえもしないけれど、その知らせを送った兄の心境はロディルにもわかるので、これ以上は何も言えない。
明後日だ、とヴィトレイが手紙を読みながら呟いた。
それが二年ぶりに両親が帰宅をする予定の日付だった。
しかしだからといって、何度も言うが、残念ながら、ロディルたちにできることなど何もない。
ただ、祈るしかできないのだ。
──我らを護るクシエリスルの偉大なる神よ。
どうか弟を、一刻も早く、この世に還らせてやってください。
「……あ……」
果たして、その祈りがカーシャ・カーイか、あるいは他のいずこかの神へと通じたのか。
ふたたび台所への扉がぎいと鳴いた。ともすれば聞き逃しそうなほどの小さな音だったが、三人は一斉にそちらを見る。
少しだけ開いた扉の向こうに、ドアノブの上を彷徨う、それ以上開けるのを戸惑っているような手が見えた。
ロディルが動くより早く、アレクトリアが駆け出す。
「ミルシュコ!?」
妹はそう叫んで扉を開け放った。アレクトリアのこんなに大きな声を久しぶりに聞いた。
だが、そこにいたのは兄弟ではなかった。
イキエスからやってきた、呪われた民の末裔──ララキという名の少女が、たったひとりで立ち尽くしていた。
彼女の他には誰もいない。
身体のあちこちからキノコや苔が剥がれ、ぽとぽとと絶え間なく落ちては床に散らばる。
そしてそのどれもが数瞬のうちに跡形もなく消えていく。
地獄から這い戻ってきた、そんな姿をしたララキはまず目の前のアレクトリアを見た。
それからロディルを見て、ヴィトレイを見て、最後にその瞳から大量の涙を溢れさせてその場に崩れ落ちた。
一体何があったのか、ミルンとスニエリタはどうしたのかと矢継ぎ早に尋ねるアレクトリアに、ララキはただ首を振った。
ごめんなさい、とだけ、何度も咽ぶようにして言いながら。
彼女の眼から零れた涙だけは、何粒落ちても消えることはないまま床を濡らしていった。
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