118 "蒼天の鏡"ティレツィ湖
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屋敷の外は背丈の低い草がまばらに生えた、なんとも寂しい景観が広がっていた。
裏手には深い森が広がり、その先に背の高い山々がそびえている。
まだ秋だというのに山肌は白いが、あれが万年雪ってやつなんだろうか、とララキは上着の袷をひっぱりながら思った。
この上着、眼が醒めた時点ですでに着ていたが、ララキのものではない。
恐らくララキの寒々しい恰好を見かねた誰かが貸してくれたものと思われる。少し大きいので持ち主は男性だろうか。
というわけで、外はめちゃくちゃ寒かった。
スニエリタも誰かに借りたらしい上着を羽織っているが、なにぶん風が強いため、外に出て数歩で腕を抱いて固まってしまった。
気持ちはわかる、ララキもこれ以上先に進みたくない。
秋で、雪も降っていない時期からこうとなると、もう雪が降り出すころにはたぶんララキもスニエリタも一歩も外に出られなくなってしまうだろう。
マヌルドもイキエスも気候は温暖だから寒さに慣れていないのだ。
なるほど、この状況で温かくなるまで泊まっていけと言われたら、否応なしにその言葉に従うしかなくなる。
これが雪国のやり口か。
などとアホなことを考えながら、とりあえずミルンを探してあたりを見回す。
「風が強いね……そしてミルンがいないね……」
「もうかなり歩けるようになったそうなので、もしかしたら紋唱術の練習に行ったのかもしれませんね……」
「うう、た……探刃の紋……あっちだ」
震える手で探索紋唱を行い、指し示されたほうへ向かう。
山側でないほうはどこも雑木林に覆われているが、その内側に開けた場所があり、民家が幾つも建っているのが見える。
集落の中には幾筋も小川が流れていて、恐らくは人工的に整備したものと思われる。
その近くには畑もあるが、もう時期は過ぎたようで何かが植えられているようすはなく、農家の姿も見られない。
と思ったら、原っぱになっているところに老婦人たちが集まって、なにやら噂話に花を咲かせているところに出くわした。
彼女らの手にはそれぞれ布と糸、そして美味しそうな焼き菓子の数々が供されている。
おばあ……おばさんたちはララキたちを見るなり、ちょっとちょっと!と声をかけてきた。
「あなたたちどこから来たの? このあたりじゃ見かけない顔立ちだし、旅の方よね? んまぁ~珍しいわねぇ」
「ちょっとお話していかない? お菓子とお茶もあるわよ」
「……美味しそう。ね、スニエリタ、ちょこっとだけ休んでこう。ほら、お茶をもらえばあったまると思うの」
「そ、そうですね……いい匂いです……」
まんまとお菓子の甘い香りにつられておばさんの輪に加わる。
バスケットに入ったお菓子はすべて手作りとのことで、お茶とともに持ち回りで準備しているらしい。
なんでもこちらのおばさんたちは民芸品を製造するのが仕事なのだそうだ。
こうしてみんなで談笑しながら日々作品を作り、たまに大きな街に出て売ることが、ささやかながら水ハーシ族の収入と宣伝に貢献している。
しかし田舎の小さな村では話題も少ないというので、ララキたちのような外部の人間の話をぜひ聞かせてほしいとのことだった。
ちなみに彼女らの夫は今の時期、湖が凍るまでの間にできるだけ漁をしなければならないというので、日中ほとんどそちらに出かけている。
その湖の方角を聞いたらミルンがいるのと同じだったので、彼もそこにいるかもしれない。
とりあえず自己紹介をしたが、そこでもうおばさんたちはパニックに陥った。
まず、そもそもこの村を訪れる人間の九割九分はハーシ人らしい。まあミルンに聞いた限りではかなり辺鄙な場所らしいからそれも無理はない。
そういうわけで、とりあえずふたりの外見からハーシ人ではないことはわかっていたおばさんたちだったが、さすがに地理的に近いヴレンデールやワクサレアを想像していたようなのだ。
だが、蓋を開けてみれば旅人はイキエス人とマヌルド人。
しかもマヌルド人のほうは帝都出身ときている。
ララキがイキエス出身だと応えると、おばさんたちは顔を見合わせていた。
続いてマヌルドのアウレアシノンから来ました、とスニエリタが言った途端、何人かのおばさんは絶句し、残り全員は声にならない声で叫んだ。
ララキたちがこちらの暮らしをまったく想像できなかったように、おばさんたちもこちらの故郷のようすなど一片たりとも知りえないわけで、しかもマヌルドの貴族ともなれば尚更で、おばさんたちは二の句が告げない状態だった。
驚きすぎて何を言えばいいかわからないという感じだった。
まあ、ララキも初めてミルンに会ったときはまさかハーシの西の端っこから来たとは思わなかったので、気持ちはわかる。
イキエスは大陸南部といってもやや東よりなので、東ハーシ南部あたりが妥当なところだと思っていた。
「ご……ごめんなさいね、イキエスやマヌルドの人と会うのなんて初めてだから驚いちゃって……」
「随分遠くからいらしたのねえ……なんでまたモロストボリに……?」
「も、もろ?」
「この町の名前よぉ。え、知らないで来たって、まさか迷子なの?」
「ああいやあの、なんていうか、知り合いの家にお呼ばれしたというか、そんな感じだったから……ね、スニエリタ」
「ええ、あの……スロヴィリークさんという方なんですが」
スニエリタの言葉に、おばさんたちはまた顔を見合わせる。今度は困惑ではなく納得の表情だ。
「あらま。里長さんのとこのお客さんね! そういえばリェーチカちゃんが言ってたわねえ、お兄ちゃんたちが急に帰ってきたとかって……」
「そうそう、お客さんも一緒だって。
まあ……こんなかわいらしいお嬢さんがただったなんてねぇ」
この流れはまずいな、とララキは思った。
たぶんおばさんたちはアレクトリアと同じかそれ以上の期待をララキたちに対して抱いてしまっている。
つまり、町(規模が小さいので村かと思っていたが違った)を出ていた兄弟が女連れで帰ってきた、すなわち外で嫁を見つけてきたのだろうという発想だ。
これは誤解をそのままにしておくとどんどん尾鰭がつくパターンだろう。
よりによって居合わせているのが噂話の好きそうな中年熟女集団というのは非常にまずい。
しかし、隣のスニエリタを見てふと思う。
この子に関してはむしろ尾鰭をつけてもらったほうがいい可能性もあるのでは。
それで周りから煽られまくれば自覚するかも、いや、さすがにそこまで追い詰めるのは可哀想だろうか。
ララキに見つめられているのに気づいたスニエリタは、どうかしましたか、なんてきょとんとしている。どうやらおばさんたちの誤解には気づいていないようだ。
そういえばさっきもアレクトリアの視線の意味に気づいていなかったし、そういうところはちょっと鈍いな。
ちょっと考えてから、ララキは立ち上がった。
どうせちょっと否定したくらいでは誤解を解くことはできないし、今はその気力もあまりない。
それに自分だけ潔白を表明しつつスニエリタにだけ尾鰭を生やさせるのは難しい。
もう面倒だからふたりまとめて好きなだけ吹聴してもらっておこう。
前までは、人からあらぬ誤解を受けるのが我慢ならなかった。
というか、それをシッカが聞いていたらどう思うだろうと思って、とにかく必死に否定していた。
たまにはいろいろ言われてみるのもいいかもしれない。
それであとからシッカにどう思っていたか聞いてみようか。もしかしたら何とも思わないかもしれないのだから、一度くらい否定しないことがあってもいいのではないか。
なんて、ララキはなんかいろいろと投げやりな気持ちになっていた。
それにスニエリタはララキ以外の人間からもあれこれ言われたほうがいいだろう。
どうしても無理そうならあとでフォローでもなんでもしてあげればいいし、これで彼女の気持ちが据わればそれでいい。
「お菓子とお茶、ごちそうさま。あたしたちもう行くね」
「あらもう? もしかしてそのまま帰ったりしないわよねえ」
「いえ……今はミルンさんを探しているだけです。たぶん、もうしばらくお世話になると思います」
「ああ~、そう、そうなの。よかった、ぜひまたここに来てね。このごろは毎日いるから」
そうなの、の一言にいろんな含みを感じながら、ララキはおばさんたちと一旦別れる。たぶんスニエリタはそれにも気づいていないんだろうなと思いながら。
歩きながらふたたび探索紋唱を行ったが、ミルンの位置はあまり変わっていないようだ。
小川に架けられたこぢんまりとした橋を渡っていく。
どうやら向かう先は川の流れに逆行していて、恐らくその湖というのが水源なのだろう。
湖に向かう道は里の人たちもよく使うのだろう、雑草ひとつなくきれいに砂利を敷いて整備されており、歩いていくとやがて樹々の向こうにうっすらと青い色が見えた。
雑木林を抜けたかと思うと、急に視界がぱっと開ける。
ティレツィ湖、というらしい。
それは想像していたのよりもずっと広く、穏やかな水面は遥か遠くまで続いていた。
銀蒼色の空と、周りの森を映し込んできらきらと日光を反射している湖は、さながら巨大な鏡、あるいはそれ自体が一個の宝石のようにすら見える。
全身真っ白な水鳥たちが戯れる姿もじつに優美だ。
アンハナケウが実在するならきっとこれと同じくらい美しい場所だろう。
そんなことをふと思うほどに、現実離れした麗しい景観が広がっている。
思わずスニエリタと一緒に感嘆の声を上げる。
そんなふたりを見て、漁をしていた地元の男性が笑った。まるで自分が褒められたかのような、なんとも誇らしげな笑みだった。
そして案の定、こちらでもおじさんたちがララキたちに寄ってきた。他所から来た若い女が珍しいのだろう。
仕事中なので持ち場を離れられない人もこっそりこちらを伺っているのが見える。
もちろん話の流れはふたたび出身地の質問になり、隠してもしょうがないので正直に答える。
「あたしはイキエス。この子はマヌルドから来たの」
「へええ!? そりゃあすごい、俺らなんかこの歳でもまだヴレンデールより向こうにゃ行ったこたねえのよ」
「おれなんかハーシからも出たことねえよ。嬢ちゃんたち、あれか? モンショー
「は、はい。未熟者ですが……」
「すげぇなあ、マヌルドじゃ女の子でも習うもんなんかい」
「いえ、それは家庭にもよるかと……ハーシにも女性の術師はいらっしゃいますし」
そしてどことなく、スニエリタの周りのおっさんが多い。気のせいじゃなくララキの倍くらいいる。
さすがに美人は集客力が高いなあ、とか呑気に構えている場合ではなさそうなのは、ひきつっていくスニエリタの表情でわかった。
たぶん売り子の仕事をしたときのことを思い出してしまったのだろう。あのときもこんな感じで見知らぬ不特定多数の男性に囲まれて、怖い思いもしただろうから。
これはさっさとミルンを探して帰ったほうがいいな、とララキがきょろきょろあたりを見回すと、ちょうどよくミルンがこちらに向かって歩いてきていた。
……どことなく、ミルンの周りの気配がどす黒い。
気のせいじゃなく過保護と嫉妬が爆発しているやつだ、あれ。
「何やってんだ」
そしてこれまた案の定、めちゃくちゃ機嫌悪そうな第一声がかかる。
声に怒気が滲みすぎておっさんたちどころかスニエリタまでびくついていた。
そっちは怖がらせちゃダメでしょうに。
「何ってミルンを探しにきたんだけど。そろそろ帰らない?」
「ああ、……そうするか」
「お……おいおい待ってくれミル坊! あとひと曳き手伝ってくれよ!」
「悪い、俺もまだ本調子じゃねえんだ。それにもともと俺は頭数には入ってなかっただろ」
ミルンは追ってきた漁師にすげなくそう返し、すたすたと町のほうへ歩いていく。
どうやら漁を手伝っていたらしい。
曳く、ということは網を使った漁法のようだが、この前まで満足に歩けなかった身体でよくそんな肉体労働の手伝いができたものだ。
それとももしかしてララキはけっこうな期間寝ていたんだろうか。
そういえば今日は何日なのか誰にも聞いていなかったし、ミルンの足取りは記憶にあるよりずいぶん回復しているようだ。あとで確認しておこう。
帰りの道中、まだおばさんたちは同じ場所で手芸作業をしていた。
代表格のおばさんが満面の笑みでミルンに向かって、よかったわねえ、と大層含みのある発言をかましたので、ミルンは顔を真っ赤にしながらそうじゃねえよと答えた。
それを見てララキは笑い、やっぱりスニエリタはきょとんとしていましたとさ。
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