112 嘘と矜持

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 大河ペルはハーシ東部に水源を持ち、マヌルドの国土を袈裟懸けのように貫き、下流の一部をワクサレアとイキエスの国境として、最後は南部より海へと注がれている。


 ヴレンデール以外の大陸の大国すべてを通るこの河は、かつてそのものを御神体として祀る宗派があった。

 それが今日のペル・ヴィーラ信仰の源流である。


 旧都シェンナ・ヴィーラよりやや北にある山中を、今日は見慣れぬオオカミが歩いている。


 その姿を人が捉えることはない。

 神たるオオカミは、その身を隠して渡ってきた。


 山肌を流れる河はまだ上流のため、勢い激しく飛沫を散らしながら南へと流れている。

 その河べりの適当なところで脚を止めたカーシャ・カーイは、普段なら大声で呼びつけているのだが、今日は静かに済ませることにした。


 彼の一瞥によって急流は俄かに凍りつき、ばきばきと耳障りな音を立てる。


 ほんの一箇所でいい。大河のすべてはペル・ヴィーラに通じ、彼がこの長流のどこに潜んでいようとも、このささやかな異変は一瞬にして伝わるのだ。

 事実、ほとんど待つまでもなく凍結した水面を内側から割り砕いてそれは現れた。


 全身を鏡のような鱗に覆われた大魚の神である。


 突然の無作法極まりない訪問に対し、ペル・ヴィーラはいたく機嫌の悪そうな声で、一体何の用かとカーシャ・カーイに詰め寄った。

 とはいえ彼の身体が河を離れることはない。

 その身が押し寄せた途端に川面はすべて粉々に砕け散り、氷片はたちまち激流に押し流されていった。


 カーイは気にした素振りも見せずにその場に腰を下ろす。そしてゆっくりと口を開いた。


「たまにはおまえさんにも仕事ってのをしてもらおうと思ってよ」

「……何だ? 藪から棒だの」

「呪われた民ご一行の話さ。あの中にいたおまえさんのとこの民──タヌマン・クリャに操られて、終いにゃ唾つけられてるだろ。あの娘に実家からの迎えが来て、帰す帰さないで揉めてるんだとよ」


 ヴィーラは眉間にしわを寄せたまま、むうと呻る。


「で、おまえさんには選択肢をふたつやる。

 ひとつはこのまま娘をおまえさんの領地に帰らせて、以降は外神が寄ってこないか監視すること。

 もうひとつは娘を取り戻そうとしてる連中を力ずくで黙らせることだ」

「どちらも面倒だの……まあ監視ぐらいであればティルゼンカークあたりにでも頼めようか……」

「そういうのは無しだ、ヴィーラ。それはおまえさんがやらなけりゃあ意味がねえ」

「……何かあるのか?」

「大ありだ。ああ……これは他の誰にも言わないでほしいんだがよ」


 カーイは意味ありげな笑みを浮かべて手招きする。魚神は少し戸惑ったが、その身体を河の淵ぎりぎりにまで寄せてきた。


 彼の水晶のような眼の後ろにある耳の穴に向かって、オオカミは囁く。


「俺は、タヌマン・クリャの居所についておおよそ目星がついてんだ」

「なんだと? いったい如何様にしてそれを……いや、それよりなぜ、そちはそれをアンハナケウで周知せぬのだ」

「そのアンハナケウに裏切り者がいるからさ」


 ペル・ヴィーラは何も言わなかった。

 息を呑んだのかもしれないが、なにぶん地上の獣とは呼吸方法が異なる身体をしているので、そういう反応を見とめにくい。


 ともかくカーイは続けた。


 クシエリスルの内にありながら、外神に助力している神がいることに気づいてしまったが、こと。

 それゆえスニエリタという少女をマヌルドに帰すなら、その後見張るのはヴィーラでなければならないこと。


 他の神は信用ならないから、と。


 盟主の彼にとっては腹心の部下である他の東部の神、たとえばティルゼンカークやアルヴェムハルトでさえ、完全には信用するなと釘を刺す。

 どちらもそう大それたことをしでかすとは思えない神たちだが、裏切り者と通じている可能性がないわけではないのだから。


 ともかく裏切り者が今後どういう手を打ってくるかわからないため、外神に関わる人間はできるだけひとまとめにして監視したいのが本心だ、とも言った。

 だからカーイとしてはヴィーラには説得のほうを任せたい、そうすれば三人の監視はカーイが引き受ける。

 そしてこの話は絶対に他言無用。どうかヴィーラの胸の内にだけ仕舞っておいてほしい、とも。


「……俄かには信じ難い話よ。しかし……カーイ、外神は何処に隠れておるのだ、教えよ」

「そればかりはおまえさんにも言えねえ。それに確信したわけじゃねえんだ、後になって結局違いましたってのは恰好つかねえからな。ほんとうに確信が持てたら教える。それは約束するよ」

「むう……まあよい、信じよう。そちはそう滅多なことを抜かさんからの。ところでこの件、他の神には如何に伝えてあるのだ」

「スニエリタという娘の件なら、オヤシシコロとルーディーンにも。あと話の出どころが西なんでフォレンケも知ってる。

 裏切り者のことは……オヤシシコロと、だな」


 そう答えると、ヴィーラは背びれを震わせた。どういう反応なのかこれもわかりにくい。


「意外だの……主がルーディーンを半端にしておるとは。まさかあれを疑っておるのか?」

「まさか。ただ……あの女に関しちゃ、恥ずかしながら、俺も冷静な判断ができそうにないんでな。もう少し煮詰まるまでは黙っておこうと思ってんだ」

「それがよかろうな。あれで案外と面の皮が厚い女だからの。

 ともかく……そちは娘ら三人を監視する。吾は他の人間を黙らせておく。これでよいか」

「ああ、そうだ。頼んだぜ。その後は向こうの出方次第だが……裏切り者が誰であれ、俺はそいつに容赦をする気はない。おまえさんもそうであってくれよ。外神もろとも打ち砕いてやるんだ」

「うむ」


 ヴィーラが頷いたのを確認すると、カーイは身体を起こした。


 伝えるべきことはこれですべて話した。あとはヴィーラが指示どおりに動いてくれさえすればいい。

 いくら怠け者のこの神でも、これだけ言い含めれば投げ出すことはないだろう。

 もしものことがあれば己の沽券に関わる事態になるからだ。


 ルーディーンと同じく生まれついての神であり、オヤシシコロには及ばないものの大陸全体で見れば古株にあたる、カーイの何倍も由緒正しく歴史深いペル・ヴィーラには、それだけ積もった誇りと意地もある。


 それゆえ瑣末なことを嫌がるという悪癖にも繋がるが、ともかく矜持の高さにおいては盟主でも随一と言える。

 どんなに面倒なことでも、それを怠った場合に己が恥をかく恐れがあるのなら、絶対に彼は手を抜かない。


 そして、その性格を見込んでこのような話の振りかたをしてみたわけだ。

 果たしてこれが吉と出るか凶と出るか。


 しかし……ヴィーラに別れを告げ、北の森へと帰る道すがら、カーイは思っていた。


 ヴィーラがルーディーンを面の皮が厚い女だと評したことだ。

 彼女のどこを見てそう言ったのか、あるいは先ほどカーイ自身が彼に言ったとおり、自分はルーディーンを冷静に見られないのかもしれない。


 溜息をついて、少しだけ進路を南にずらした。人間が引いた国境を無視して、ワクサレアの北部を通る。


 昔のように樹々の隙間からルーディーンを眺めようか。

 まだ彼女の視界に入ることすら叶わなかったころ、あちこちで精霊を食い殺しては、それでどれくらい近づけるようになったのかを確かめるためによくこうしていた。

 もちろん、他の神が彼女に近づいていないかを見張るためでもある。


 ルーディーンがいる場所はすぐにわかる。

 青すぎるほど青い草原の風の匂いがするから、そこは今なお何者にも穢されていないのだと肌で感じる。


 先日、ラグランネと密会していたカーイのことを、彼女はどう思っただろう。何を感じただろう。

 ただでさえ普段からカーイの態度を訝しく思われているようなのに、これでますます手出しをしづらくなった。


 野原に佇む純白の花を、彼女に悟られないほどの距離を置いてただ眺める。


 いっそ毟りとってしまえばいいだろうか。

 力ずくで襲って、花弁も葉もすべて噛み千切って、すべてオオカミの腹に収めてしまえば。


 今のカーイならそれも不可能ではないだろう。そのためにこれだけの力をつけたのだから。


 ああ、だが、きっとそれではもう、カーイは満足できないのだ。



 ‐ - ― +



 オオカミが去り行く背中を見送ってから、ペル・ヴィーラは水中へ戻った。


 大河のすべてが彼の世界。本来はその外になど興味はなかったが、人間たちが河ごと祀り上げてしまったものだから、今は諦めて盟主の地位に納まっている。

 面倒も多いが、そのぶんそれなりの待遇を受けてはいるので文句はあまりない。


 水底の泥に身を埋めて、ヴィーラはカーイに言われたことを反芻する。


 裏切り者の存在。

 タヌマン・クリャの居場所。

 印を残されたヴィーラの民である娘と、それを取り巻く人間たち。


 呪われた民の処遇については今も納得しきれてはいないが、ヌダ・アフラムシカのために彼女を一度はアンハナケウに呼び上げなければならない。


 恐らくそれが行われるのは早くてもアルヴェムハルトたちの試験を終えてからだろう。

 あるいは、他にも下の神々があれこれ言うなら相応の対策をとらねばならない。


 クシエリスル東部においては、ヴィーラはマヌルド南西部に構えるティルゼンカークというカワウソの神にそのあたりの対処を任せてあり、今のところアルヴェムハルト以外に試験を実施したいと申し出た者はいない。

 自力でそういう事業ができるような神が少ないこともあり、大半はアルヴェムハルトの準備に口出しをしたりすることで溜飲を下げているようだ。


 しかし、ティルゼンカークもアルヴェムハルトも信用してはいけないと言われたのは、ヴィーラにしても迷惑だった。


 なんとなればおおよそすべてにおいて彼らに丸投げすることで対処してきたのだ。

 今さらそのどちらをも頼るなと言われるのは困る。


 それに、そもそも。


「……あれも嘘の多いおのこよな」


 ヴィーラの呟きは泡となって消えた。


 カーシャ・カーイの話にはありとあらゆるところに嘘が織り交ぜられていた。それを見抜けないペル・ヴィーラではない。

 向こうもそれがわかっていて、こちらの反応を見たいがゆえにわざとそう仕向けたに違いないが。


 タヌマン・クリャの居所にしろ、裏切り者の正体にしろ、きっと彼はもう確信を持って断定している。


 よくもまあそれをヴィーラに向けて言えたものだと関心さえするが、問題はそれよりむしろ、ヴィーラがカーイに対して感じた疑念だろう。

 あの神こそとんでもない悪事をしでかしかねない。


 長らく眺めてきたものだが、彼がルーディーンに対して向ける異常なほどの熱意は演技ではないだろう。それはヴィーラも他の神々も認めるところだ。

 だが、だからといってルーディーンを悲しませるようなことはしない、彼女を苦しめる手だけはとらない誠実な男かと言われれば、答えは否である。


 ここ数百年は大人しくしているが、カーシャ・カーイの本性は昔のまま。

 あれは血と肉に餓えたけだものだ。

 ルーディーンを手に入れるためならなんでもやる。必要ならば彼女を欺くことすら厭わないだろう。


 あるいはその魔手がクシエリスルや世界そのものに及ぶ可能性も否定はしきれず、そうなるとヴィーラとしては非常にまずい。

 ヴィーラがこれまで積み上げてきたもの、それらにかけた途方もない時間と苦労が水の泡になる。


 もしも。……彼が己の欲望のために、外神や裏切り者の存在さえも利用して、クシエリスルを脅かすことがあれば。


 そのときはカーシャ・カーイを滅ぼさなくてはならない。

 そしていくら彼が北西の柱を護る盟主であろうとも、しょせんは精霊生まれの成り上がり者だ、このペル・ヴィーラの敵にはなりえない。

 もちろん向こうも前クシエリスル期の荒れ狂った大陸でのし上がってきたのだから、決して油断はできないが。


 なんにせよこれから激動の時代が来るな、とヴィーラは思った。


 ありがたくもない。ほんとうなら何もしたくはないのに、周りの連中がよってたかってヴィーラの安寧を脅かす。

 こちらはただ静かに生きていたいだけなのに。

 できるだけ何もせず、水の流れに身を任せて、果てしなく廻り続けることだけがヴィーラの望みだ。


 それを脅かすというのなら、ヴィーラとて容赦はしない。


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