110 遠くにありて想う町

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 ミルンは今さらハーネルの獣害を思い出していた。

 ナベル事件とほぼ同時期で、こちらは確実にタヌマン・クリャの仕業であることがルーディーンの証言からわかっている。


 大祭ルーディーニ・ワクサルスの数日前からエトー街道近辺で発生しており、三人がハーネル町に滞在した日に初めて町の中でも発生した。


 ララキが言うには教会の壁に神の紋章が浮かんでいたとのことだったが、あのときスニエリタの身体を借りた外神は何食わぬ顔をしてミルンたちと一緒にいたのだ。

 だが、ややこしいことに厳密にはスニエリタ自身ではなく、彼女の遣獣という形で傍にいた。


 ニンナというヘビが元々存在しなかったのか、あるいは抜け殻のようなものを寄り代にしていたか──いや、ニンナには立派な牙があったから、抜け殻の可能性は低いだろう。

 あのヘビも外神の被害者だったかもしれない。


 ミルンはヘビの種類に詳しいわけではないが、恐らくニンナの身体は南部原産のものだと思われる。

 元からあの姿でララキの近くに潜んでいたのだろうか。


 なんにせよ言えるのは、タヌマン・クリャが複数の身体を同時に操ることができたという点だ。


 ジャルギーヤとコミはどうだろう。スニエリタが解放されたあとの言動からすると、少なくとも彼らは完全に乗っ取られた形ではなく、スニエリタの遣獣として使役されていたようだった。

 ただ、タヌマン・クリャがスニエリタの身体を使ってマヌルドの軍隊を殺したのは町の上空であることから、ジャルギーヤに乗って飛行していたのは間違いないし、それをあの大ワシは黙って見ていたのだろうか。


 ジャルギーヤの性格はよくわからないし、もうずっと呼べない状態なので真意を聞くこともできないが、彼らにも多かれ少なかれ外神の支配が及んでいた可能性はある。


 つまり、今後もどこかで誰かの身体を借りた外神が出てくる可能性はあるということだ。

 さすがに同じ手を使ってくるとは考えづらいし、そうなればクシエリスルの神々も黙ってはいないだろうが、だからこそもっと巧妙な方法で近づいてこないとは言い切れない。


 そしてスニエリタの背に残されたあの模様。

 あれがある限り、スニエリタはつねにタヌマン・クリャの脅威に晒されている。


 やはりヴァルハーレにも話すべきだろう。

 だが、どう切り出したものか、ミルンはじっと彼を見ながら考える。

 負傷して床についているとはいえ、手さえ動けば紋唱術は使えるのだ。下手に刺激したくはない。


 そんなミルンの視線に気づいてか、ヴァルハーレも挑むように睨み返してきた。

 そして。


「……実に、荒唐無稽な話だったよ。次は僕からの質問だが──おまえの話のどこに信用に足る部分があるのか教えてくれ。

 たしかにフィナナにおけるスニエリタの行動は異常だが、それだけで信じられるほど僕は頭が弱くはないんだ」

「ま、そりゃそうだよな。俺だってアンハナケウに行くとか言い出されたときは笑っちまったし。……悪いけど俺の手元には証拠になるもんはねえよ。ララキとスニエリタが戻ってこないかぎり、その証明は不可能だ」


 てっとり早いのは目の前に神が顕現することだろう。

 その姿を目の当たりにするだけでも百万の言葉に勝る説得力がある、ということはミルンが自ら体験していることでもある。


 しかしそれができるのはララキだけで、しかもそんな「誰かを説得するため」なんていう下らない用件で呼び出していい神などいるはずがない。

 ……フォレンケならいいか? ヴレンデールに入って以降彼に頼りすぎな気もするが。

 どのみちララキが帰ってくるのを待つしかない。


 ミルンは余った時間を、ふたたび身体を動かすことに費やすことにした。

 ヴァルハーレが信じようが信じまいが、スニエリタの動向がどのようになろうが、ミルンにできることは一刻も早くまともに戦える状態を取り戻すことだから。



 ‐ - ― +



 スニエリタはすぐ見つけられた。

 サーリも他のヴレンデールの町と同じように、日干し煉瓦を積んだ低い塀で囲われているため、町の外へ出られる場所は限られている。だから向かった方角さえわかればいい。


 意外だったのは、彼女がいたのはロディルとヴァルハーレがやり合った跡地だったことだ。

 激しい戦闘のせいで足場が悪いし、練習には不向きなのではなかろうか。


 というララキの疑念は、しかしスニエリタの姿を見て吹き飛んだ。


 スニエリタ自身が何かしたのか、先日よりは幾らか起伏の緩くなった地平の中央に蹲っている小さな塊。

 それがスニエリタだと気づいて、慌てて駆け寄る。

 ララキ自身もそれなりに怪我をして、回復の途中でまだあちこち痛みがあるので、思うようにすぐ傍には行けなかったが。


 よたよた走ったせいで砂を踏む足音が歪で、それに気づいたスニエリタが顔を上げる。


「スニエリタ! だいじょ──ぶへっ」

「ら、ララキさんっ!」


 スニエリタの目前でララキはずっこけた。

 痛みを堪えながらの不安定な走りに、足元は抉れた地面と砂利、泥水混じりの粘土というありさまなので、転ばないほうがおかしい。


「いたた……」

「だ、大丈夫ですか? お怪我は……あっ顔が泥だらけに」

「擦り傷くらいは増えたかも……とりあえずスニエリタ、適当に水の術ぶっかけてくれない?」

「はい、えっと……渦華かかの紋……」


 顔面に被った泥のせいで眼を開けなかったので、スニエリタに頼んで手早く汚れを落としてもらう。


 当然びしょぬれになるが、拭くものなんて持ってきていないので、これまた風の術で乾かしてもらうことになった。

 残念ながらスニエリタは熱風を出せる術を知らないようで、これがけっこう冷える。

 このうえ風邪を引いたらたまったものではないと自分でも炎の紋唱を使った。


 こういうときに便利なのが、火力がそれほどでもなくて持ち歩きも可能な灯火を作る術である──燐花の紋。


 柔らかな光を放つ炎の玉が、ふわりとララキの横に浮かぶ。

 さすがに触れば火傷をするが、そうならない位置を保って傍に浮かび続けるように注意して制御すれば、このまま歩いてもついてくる。


 あたしもだいぶ制御上手くなったよなあ、ときちんと後からふわふわ追ってくる玉を確認しながらララキは思った。

 フィナナまでは考えられないほど上達している。

 あのころのへっぽこぶりを思うと、よくイキエスを飛び出してこられたよなあ、と自分でも関心するくらいである。


 それだけ世間知らずで無知だった。

 ライレマ夫妻が大事に育ててくれたし、シッカもララキが危険なことをしないようにいつも見張っていてくれたから。


 せんせーたちどうしてるかなあ、とほんのり故郷に思いを馳せて寂しくなったところで、ようやく自分が何をしに来たのかを思い出した。


 慌ててスニエリタに向き直ると、彼女はまだ心配そうにこちらを見ている。

 大きな眼はまだじわじわと濡れていたし、頬にはいくつも痕が残っていて、また泣いていたのは明らかだった。


「スニエリタ……あたし、あなたが練習してるって聞いて、見にきたんだった。何かあったの? またお腹痛くなったとか」

「いえ、その、そういうわけでは……」


 スニエリタは言いよどみ、眼を逸らす。

 ララキはそれをじっと見つめた。できればあれこれ聞かなくても察してあげられるようになりたいが、まだそれは難しい。


 なんというのか、ララキからすると、ミルンよりスニエリタのほうが考えていることを想像するのが難しいのだ。

 単純に付き合いの長さによるものか、あるいはミルンが意外とわかりやすいからだろうか。

 それともスニエリタが自分の気持ちを押し殺し、感情が表に出ないようにしているから……そのように努めて振舞うからかもしれない。


「……ねえ、スニエリタ。あたしには、スニエリタが思ってる、ほんとの気持ちを話してほしい」

「でも……」

「あたしより話しやすい人が他にいるなら、その人にでもいいよ。とにかく抱え込むのはやめて。あたし、スニエリタが辛そうにしてるのは見たくないの。……友だちだと、思ってるから」


 それとも、そう思うのはララキだけかもしれないけれど。


 だが、スニエリタはそこでちょっと顔を上げて、いないです、と答えた。

 何のことかはわからなくて、ララキは聞き返す。


 ──いないって、誰が?


「ララキさんよりもお話しやすい人、なんて、いないです……お友だちもいません……」

「え、え?」

「そんな人が今までにいたのなら、わたし、きっと死のうなんて思いませんでした。

 わたしと仲良くしようとしてくれる人はたくさんいましたけど、きっとみんな、わたしがお父さまの娘だから、伯爵家の人間だから、……上手く言えないんですけど、その……わたしが他の家の人間で、父が要職に就いていなければ、きっと声もかけなかっただろうと思うんです」

「ああ……ちょっとだけわかる。あたしもせんせー……育ての親がね、世間ではけっこう有名な紋唱学者らしくて、あたしが養女ってわかった途端に食いついてくる人っていたもん。よろしくお伝えください! とか言って」

「まあ、そうだったんですか。ちなみに、お養父とうさまのお名前は……」

「ジャルーサ・ライレマっていうの」

「……えええ!? あ、あの、有名な本を幾つも書いていらっしゃる方ですよね」


 スニエリタの反応を見て、せんせーってほんとうに有名で偉い先生だったんだな、と改めて思うララキであった。


 昔はそんなこと思いもしなかった。

 というか、ララキを引き取ってすぐは彼の名も今ほど知られていなかったはずだ。

 当時ヤラムという町で教鞭を執っていた彼は、教職の傍ら研究していたことを細々と書きとめ、資金が貯まればそれを自費で出版するという暮らしを営んでいた。


 彼の本が売れるようになったのはシッカが力を失ってからだろう。

 何年も前に出したものを、急に大手の出版社から再版させてほしいと言われ、それが飛ぶように売れると今度は首都ハブルサの学校から声がかかった。


 最初は彼も悩んでいた。というのもララキはヤラムの学校に通っていたので、ハブルサに引っ越すとしてもララキを置いていかねばならないからだ。

 なのでララキが背を押した。

 そういうわけで初めはライレマが一人で首都に出て、ララキはママさんとともに学校を卒業するまでの間だけヤラム市に留まった。


 卒業を持って上京し、しかし旅に出ることを考えていたララキはあえて夫妻と同居せず、アパートを借りてしばらく一人暮らしをした。

 そして準備を整えて飛び出してきた、という次第である。


「先生の著書はすべてクイネスの家にもあります。父からよく読むようにといつも言われていました」

「そうなんだ。そっか。じつはあたし、せんせーの本ほとんど読んだことないんだよね」

「ど、どうしてですか?」

「だって本人がぜんぶ直接教えてくれたから」

「そ……それは……そうですね、確かにあえて読む必要はなくなりますね……」


 そのままその場に腰を下ろし、お互いの故郷の話をした。


 スニエリタはアウレアシノンのこと。


 帝都は城壁によって二層に分断されており、より内側に上流貴族と皇帝が暮らすようになっていて、スニエリタは内層で生まれ育ったため外層のことをよく知らないらしい。

 内層の人間だけが通う学校があって、そういう環境で育ったスニエリタには、今まで上流階級の人間以外との交流がほとんどなかった。


 周りはみんなスニエリタが将軍の娘であることを知っている。

 こちらは顔も知らない相手でも、向こうはスニエリタを伯爵令嬢だと知っている。


 スニエリタに悪く思われると、それが伯爵であり将軍でもある彼女の父に伝わるかもしれないというので、みんなスニエリタにはひどく気を遣う……。


 ララキからはヤラムのことを。


 市、とはいってもほとんど町と言ったほうがいいくらいこぢんまりしていて、のんびりとした空気が流れていること。南の田舎だけあり、はずれに行けば密林が広がっている。


 人びとはみんな気さくで人懐っこく、だから逆に遠慮も少ない。

 思ったことをずけずけ言うし、悪気なくあれこれ人に要らないアドバイスをくれるし、逆に困っているときはみんな手助けしてくれるのでありがたい。

 まあ、やってほしくないことまでされる場合もあるので注意は必要だ。


 スニエリタと真逆でドがつく平民が大半で、しいていえば南部は王政なので各地方にもそこを管轄する「地候」と呼ばれる貴族はいるのだが、彼らは家庭教師を雇っているため庶民とは一緒に学ばない。

 のでララキもほとんど会ったことがない。

 たまに彼らが町を見回っているときがあるので、そのときは立ち止まって会釈するのがしきたりだ。


 こちらから話しかけることはなく、もし質問などをされたら失礼のないように返事をすること、聞かれたことにだけ簡潔に答えるように、と言われていた。

 結局ララキはイキエスにいる間に一度も話しかけられることはなかったが。


 しいて言えばララキの姿を見た地候がライレマに尋ねたことはある。

 その娘は見かけない顔だが、どこの者だ、と。


 そのときライレマは、縁あって預かりました、私の娘です、と答えた。


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