086 穴の中
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どうする。
悩ましい質問だった。緊急度が高いのはスニエリタに違いない。
もう今にも顔まで飲み込まれそうになっているのだ、いつまで蔦を握っていられるかもわからない。
かといってミルンも放っておいたらいつまでも砂に埋まっていそうな感じが否めない。振り返って確認してみたが、さっきと頭の高さが変わっていない。
沈みはしないが出られもしない、そんな際どい状態でなんとか均衡を保っているようだ。
もっともララキだって足元にカジンがいて目の前にオーファトがいたからあんな脱出方法をとれたわけで、何もなしに出られるかというと疑問だ。
単純に考えたら砂の外に樹の紋唱をかけて蔦なりなんなり生やせばいいのだが、飲み込まれている状態では穴に落ちたようなものなので、案外その外が見えない。そして砂が流れ続けているところに紋章は定着できないのだ。
それにミルンを出せば戦力が飛躍的に上がる。それは間違いない。
でもスニエリタをそのために切り離すのかと思うと、どうにも決断しきれないララキがいた。
悩んでいるうちにミルンが叫ぶ。──俺はいいからスニエリタを出してやれ!
だが、それに異を唱えたのはスニエリタ本人だった。
「わたしより、っ……ミルンさんを……!」
そこまで言って、口許まで届いた砂を飲み込まないよう黙る。完全に沈むまでもう時間がない。
助けたい、とララキはそのとき心から思った。それはもう大陸じゅうのどの神の前でも誓って言える。
すぐ駆け寄って引っ張り上げたかったが、それでも心を鬼にして言った。
「フォレンケ、ミルンを出して!」
『りょーかい』
「おいララキ! ……っうわぁあ!?」
ミルンが足元から掬い上げられたように、流砂から吐き出されてぽーんと宙を舞う。
彼はそのまま地面に落ちてしばらく転がったが、がばっと土だらけの顔を上げたかと思うと、第一声でスニエリタの名前を叫んだ。
しかし彼女からの返事はなく、ミルンは悪態を吐きながら立ち上がる。
「なんで俺なんだよ!」
「そんなの言わなくてもわかるでしょうが! あたしだってねえ……っ、とにかく援護してよ!」
「ああクソ! 練壌の紋!」
よほど腹が立ったのだろう、紋唱にもそれが出ていた。
荒々しく吹き出た泥水がオーファトを襲う。前に見たのはフィナナの地下クラブでだったが、そのときの何倍も量が多いうえ、泥水の中に砂礫が混じっているようだった。
オーファトはそれを剣捌きだけでしのいでいるが、たまに刀に小石が当たって耳障りな音を立てている。
お陰でララキは解放されたようなものなので、振り返って紋唱に移った。
炎輪、三角形を五つ、それから囲みに正円。
これもまた、ワクサレアで前に使ったことがある。
「焼花の紋!」
炎の花が咲き乱れ、剣士の神を蕾に包む。
そしてそれが爆発めいた開花を行うと、神のまわりに散っていた泥水が蒸発し、どろどろの土くれとなって彼を包んだ。なんていうか、ばっちくなった。
そこへミルンの水の紋唱が立て続けに殺到する。流水の紋、瀑戟の紋、そしてとどめに氷の紋唱が盛大にぶちかまされた。
「喰らいやがれ、──
怒りの三連撃にさすがの神もその場できれいに凍りついた。
それはもう氷像のように美しく固まってしまったので、人間だったら下手すると死ぬんじゃないかと思われるが、まあ神なので大丈夫だろう。
少なくともすぐに動き出せるようすではない。
そうなれば今度は、今度こそはスニエリタを助けなければ。
もう流砂の中心には彼女の姿は見えなくなっていた。
沈むのをやめた砂は沈黙し、一緒に引き込まれたララキの蔦だけが、その下に彼女がいることを伝えていた。まだスニエリタは手を離していないのだ。
ララキはふたたび樹の紋唱を放って蔦を増やした。それを砂の中に突入させてスニエリタを救出するイメージをするが、内部がどうなっているのか見えないためか上手くいかない。
伸ばしても伸ばしても何も掴めない。焦ってどんどん蔦を増やすので、あっという間にその周りだけ蔦だらけになってしまった。
どうしよう、やっぱりスニエリタを先に助けてもらうべきだったのか。
早くしないと死んでしまう。
いや、結界の中だから死ぬことはなく、逆にだからこそ苦しみ続けるのだ。
どんな状態になっても意識を失うことすらできず、息苦しい砂の中で、スニエリタはそれでも蔦を握ってくれている。ララキを信じてくれている。
泣きそうになりながら蔦を伸ばしていると、横から出てきた影が流砂に飛び込んだ。
もうオーファトが動けるようになってしまったのかと思ったが、それはサソリの神ではなく、ミルンだった。
彼は迷わず流砂の中心にその身を投じ、むしろ進んで潜っていこうとしている。
敢えて激しく手足をもがかせることで、ずるずると異様な速さで沈みながら、その手がララキの蔦を一本掴んだ。
ララキも意識してミルンの手に蔦を集める。彼を絶対に放してはいけないと理解したからだ。
しばらくしてミルンは完全に見えなくなり、蔦が何度もぐいぐいと引っ張られている感覚だけが、その下で起きていることをララキに伝えていた。
時間の経たない結界なのに、待っているのは永遠のように長く感じる。
でも、ララキは見逃さなかった。蔦を一瞬強く引かれたことを。
何の打ち合わせをしたでもなかったが、それが何を意味するのかはすぐにわかった。
引き上げろと言っているのだ。
「恵生の紋!」
絡まった一本の蔦を思い切り逆方向に伸ばさせ、その力でふたりを引き上げる。
ララキも蔦を掴んで一緒に牽いた。気づいたら砂風が蔦の周りをひゅるひゅる舞っていて、もしかしなくてもフォレンケも手伝ってくれたらしい。
大量の砂を撒き散らしながら、魚が打ち上げられるような恰好でスニエリタを抱えたミルンが流砂から飛び出した。
「ふたりとも大丈夫!?」
「がはっ……はぁ、はぁッ……スニエリタ、おい、起きろ、もう大丈夫だから……!」
ミルンが砂を吐きながらスニエリタの肩を揺する。
彼女はぐったりしていて、すぐに下を向かせて背中をさするが、口からぼろぼろと砂が落ちるだけで、スニエリタは動かない。
意識がないわけではないはずだが、呆然としてしまっている。
「クソっ……流水の紋」
何を思ったか、ミルンが紋唱を始めた。攻撃用の紋唱ではないかと驚いたが、どうやら威力を最小限に留めるよう制御して、スニエリタの口内を洗浄しようとしているらしい。
水を大量に含ませてからもう一度下を向かせると、大量の泥水が吐き出される。
それを数度繰り返してからやっと、スニエリタが大きく咽た。砂を飲みすぎて息ができなかったらしい。
安堵したのも束の間、ふたたび地面が流砂に変わる。
「恵生の紋!」
すばやく外に向かって紋唱を放つ。
当てずっぽうだったが一度落ちた経験が活かされたようで、ちゃんと蔦が伸びてきた。
それを三人分作ってそれぞれの腕に巻きつける。これで際限なく落ちていくことは防げるはずだ。
ミルンは蔦を巻いた腕でスニエリタをしっかりと抱きかかえながら、足元へ向けて術を放つ。
水かと思ったら、風の紋唱だった。
どういうことかと思ったが、なるほど流体状の砂に同じく流動体である水を流し込んでも意味がない、下手をすると余計こちらが不利になる。
だが風なら実体がなく、炎のように自分たちを無駄に巻き込む恐れもないうえ、砂を外に散らすことができる。
ひとつの紋唱では微々たる量しか散らせないが、三人でやれば違うはずだ。
ララキとスニエリタは顔を見合わせ、頷き、空いているほうの腕を伸ばす。
「瞬風の紋!」
「翔華の紋……っ」
「突凰の紋っ!」
しかも風といえば、ヴレンデールに来てからいちばん使ってきたといってもいい。
スニエリタは毎日のように練習していたし、普段は使わないララキやミルンも紋唱車のためにさんざん描き、しかもあれこれと試行錯誤を続けてきたのだ。
だから、どんなふうに制御すれば効率よく砂を飛ばせるのかも、なんとなく身体が理解している。
流砂の渦は瞬く間にただの穴に変わり、その下にいたカジンの姿が見えてきた。
地中を自在に動けるらしい彼は、頭上が明るくなってきたのに気づいてすぐに身を隠そうと動いたが、それを許すララキたちではない。
まずララキがまだ伸ばしていた予備の蔦を一本向かわせる。捕らえられずとも、逃げる邪魔ができればそれでいい。
続けてスニエリタが吹き降ろす風の紋唱を行う。──割葉の紋……!
そこにミルンが雷の紋唱を合わせる。──
ワニはのたうち、そのたび尾や頭が地中を掻き回す。
尾の当たったところが崩れ、硬い岩盤に見えたのに瞬時にさらさらの砂に変わって、そこがまた流砂のように三人を呑もうとする。
いや、その砂の中から、骨だけになった何かの獣の手が大量に生えてきた。
わらわらとイソギンチャクの触手のように蠢きながら白いものが迫ってくる図はなかなか気色悪いものがあり、ララキは思わずひええと悲鳴を上げながらそれを蹴る。
ミルンも同じくだが、身長のぶんララキより脚が長かったのが災いしてかすでに何本かに掴まれていた。
小柄なスニエリタはまだ大丈夫だが、そんなことを言っている場合ではない。
「傘火の紋!」
炎の紋唱を落とす。ちょっと火の粉が飛ぶが仕方がない、脚だけなら靴があるから痛くはないし。
しいていえばひとり生脚のララキにはつらいものがあったが耐えた。
嫁入り前の女の子なんだけどなあ。
骨手が概ね焼き壊れたところでほっとした瞬間、それを嘲笑うように三人はいきなり落ちた。
蔦が千切れたはずはない。まさかと思って見上げると、穴の縁に立ったオーファトが嫌な笑顔でこちらを見下ろしている。
「ちょっとおおお! ひどくない!?」
『いや何、先ほどは見事でござったぞ。あとはカジンとの対決を見届けさせていただこう』
だったら余計なことするんじゃない。
腹が立ったが怒っている暇もなく、残っていた骨手が襲い掛かってくる。
この狭い場所ではどんな術を使っても周りや自分が巻き込まれるので、下手なことはできず、手足をばたつかせながら一本ずつ壊していくしかない。
そうこうしているうちに気づいたらカジンは消えていた。
地中のどこかにはいるだろうが、今自分たちがいるのも地中といえば地中であるので、もしかしなくても絶対にこれはピンチだ。
なので叫んだ。外に向かって、ヤマネコの神を呼ぶしかなかった。
「フォレンケェえええ!」
『出してあげるのはひとりだけだよー』
この期に及んでもそれかい!!
「どうする? このままだと三人とも全滅だよ」
「でもひとりだけ出されたところでどうにもなんねえだろ、相手は地中にいるんだし」
「あっ……壁が崩れてきました……!」
スニエリタの言葉にはっとして見回すと、周りの壁すべてが融けるように砂に変わっていくところだった。
このままだとまた流砂になる。しかもかなり深く掘ってしまっているから、ここからこれ以上沈んだら二度と出られない可能性まである。いや、神の結界だからそれはないか。
だが埋まってしまったら、当たり前だが紋章は描けないし招言詩は唱えられない。それこそ詰みだ。
「……よし、ララキ、おまえが出ろ。俺とスニエリタは残る」
「それは何か作戦でもあるわけ?」
「スニエリタが空気を作ってくれればしばらく保つし、紋唱もできる。だからスニエリタは残す。となると、樹の紋唱に慣れてるおまえが上に出たほうがあとあと楽だろ。攻撃自体は俺のほうが上手いし」
「なるほど、じゃあそれでいこう。
──おーいフォレンケー、あたしを出してー!」
ララキの叫びに応える声は聞こえなかったが、吹き込んできた砂混じりの風がララキの体を包んだ。
・・・・・+
残ったミルンとスニエリタは辺りを注意深く見回す。
カジンの姿は完全に見えないが、どうにかして当たりをつけて引きずり出さないことには攻撃が通らない。
効果があるかわからなかったが、他にいい方法も思いつかなかったので、だめもとで探索紋唱を描き起こす。
剣印はぐるぐる回りっぱなしで、やはり無意味だったらしい。
それでも念のためと敢えて消さずに放っておく。
ふとスニエリタを見ると、彼女は不安を滲ませた瞳でこちらを見ていた。
ミルンの苦手な顔だ。何が苦手って、そういう顔をされるのが嫌なのではなくて、むしろ逆だから困る。
決してアレな性癖というわけではなくてなんというのかあれだ、頼られているように感じるからだ。
とりあえず謝ろう、とミルンは思った。
ほんとうはもっと早くに言いたかったがそんな暇がなかった。
「さっきはごめんな。俺がさっさと流砂から出られてりゃ、あんな二択をララキにさせることもなかった」
「いえ……わたしも、もたもたしてましたから……」
スニエリタはそう言うと、ミルンの袖をきゅっと握った。
「それより……空気を作れ、というのは」
「風の紋唱を絶やさずにいてくれればいい。要は俺がカジンを引きずり出して叩くまで、紋唱ができる環境にしておいてくれ。できれば上から光が入るようにしてもらえると助かる」
「……どうしてわたしを信じてくれるんですか? できないかも、しれないのに……そうしたらミルンさんまで生き埋めになってしまうんですよ」
「だから、そうならないようにしてくれよ。……やってくれるよな?」
そう言いながらまた無意識に頭の上に手を置いてしまった。
しまったと思ったが、次の瞬間、止せばよかったのにスニエリタの顔を見てしまった。
大きな瞳をじんわり滲ませて、頬にそっと朱色が差している。瞳はまっすぐにミルンを見ている。
まるでイヌやネコが飼い主に向かって餌でも強請っているような、いや、そんな下品な喩えでは失礼だ、でも、何て言えばいいんだろう。
あまりにも、そう、幸せそうな顔をしていた。
くちびるに眼がいく。まだ砂粒を幾つかくっつけたままだが、果実のような甘い色をしている。
もし今それを……不埒な想像がよぎって思わず息を呑んでしまい、スニエリタが不思議そうな顔をする。
そんなことを考えている場合ではない。首をぶんぶん振って想像を振り払い、深呼吸をひとつ。
「あー、じゃあ、そろそろ始めてくれ。だいぶ砂が増えてきた」
「そうですね……わかりました、やってみます」
……頼むから今のどうか上からララキが見ていませんように。
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