077 ウサギは売り子をする
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どこでやっているのか尋ねるまでもなく、賑やかな声と軽快な音楽が聞こえてくる。
通りの向こうに、地面が見えないほど一面に布が敷き詰められ、その上に細々と品物を並べた露天商が連なっていた。
その周りを客が行き交い、あちらでは値引きの声が聞かれ、こちらでは売り切れ間近の鉦が鳴り、大変なお祭り騒ぎとなっている。
このあたりは一般市民が小物を販売しているようなので、とりあえず用事はない。
ミルンは足早に通り抜け、企業が出展している区域へと急いだ。
こんな立地でも国内外から商品を担いでやってくる商人たちの気概にはさすがに感心する。
砂漠越えはつらかっただろうに。それでも利益が見込めるから彼らは活動を諦めないし、その商魂の乗せた声で高らかに語られる各商品の説明には、興味のなかったミルンの心すら揺さぶるものがあった。
最近では紋唱術の商用利用が盛んになっている。わざわざ高い金を払って学校に行かなくても、生活の中で少しだけその恩恵を受けられるというので、紋唱術に縁のない一般市民には好評らしい。
例えば、昔から台所や風呂場で使うために、ボタンひとつで火を起こす道具があった。
それが最近では自由に火力を調節する機能が増えたり、軽量・小型化して持ち運びが容易になるなどの工夫が施されている。
紋唱車の最新式製品も展示されていた。思わず見てしまったが、とても手が出る額ではないので、とりあえず眼の保養にしかならなかった。
こうして紋唱術が一般になっていけば、いつか術師なんていらなくなるのかもしれない。
そんなことを思いながら歩いているとついに見つけた。全自動湯沸かし器の実演販売、の看板である。
看板の向こうからか細い声が聞こえる。
──ご覧ください、こちら、どなたでも簡単にお湯が沸かせます……。
「小型のものでお沸かしした、コーヒーをお配りしています。よろしければどうぞ……」
スニエリタはそう言って、台の上に拡げた使い捨てカップにコーヒーを淹れては、通りがかった人に差し出している。
受け取ったほうは、それはもう見苦しいほどに鼻の下を伸ばして彼女を見る。
はっきり言って心底腹が立ったが、同時に無理もないと思えてしまうのが、なおさらやるせなかった。
彼女が着せられていたのは首と肩を大幅に露出した衣装だった。
今まで貴族の令嬢として、顎から下をほとんど見せないような服装をしていたスニエリタにしてみれば、その時点ですでに下着同然の服装だろう。
かろうじてリボンで引き上げられた胸元にしても、もう少し胸が大きかったら確実に谷間が見えていた。
スカートは一見それなりの丈があるように見えるが、横にしっかりスリットが入れられていて、スニエリタが動くたびにちらちらと白い脚が覗いている。
しかも歩きにくそうな踵の高い靴を履かされていて、どう考えても「わざとよろけさせよう」「前屈みにさせよう」という着せた人間の意図が見え透いていた。
これだから正直嫌だったのだ、スニエリタに売り子をやらせようというのは。
もうあの事務員の口調で嫌な予感はしていたし、この手の会場の売り子がどういうものかも、これまでの人生経験から察することができる。前日まで人間が確保できなかったのも怪しさしかない。
やはり止めておくべきだった、と今さらながらミルンは激しく後悔した。
これがまだララキならいい。決して彼女を見下しているわけではなく、もともとララキは普段から薄着だ。
肩も谷間も、なんならへそと太腿まで出ている恰好であり、もちろんそれが南国ではふつうだったからだが、ララキならこの売り子の衣装にもそれほど抵抗はないのではないかという気がする。
だがスニエリタは違う。
立て襟のシャツをいちばん上までボタンを留めて、腕すら長手袋で覆い隠し、チュニックの下はもちろん生脚ではなく細身のズボンで、今日日珍しいほど露出の少ない服装を貫いている。それだけ実家で厳しく育てられてきたからだ。
その彼女にしてみれば、この服装はほとんど娼婦のそれである。
でもって持ち前のかわいらしさがその不憫さを加速させている。
彼女をよく知らない人間から見ても、若い女の子がなにやら恥じらいながら前屈みぎみになった体勢でコーヒーを手渡してくるという、もう不埒な想像をするなというほうが無理な状況に仕上がっているのだ。
というか、……猛烈に眼のやり場に困る。
なんだこの恰好は。誰が考えてスニエリタに着せやがったんだ。
やっぱり今日限りで止めさせよう。
ミルンはそう決意してスニエリタに背を向けた。仕事中の彼女に会いに来たわけでも激励しにきたわけでもなく、あくまで偵察に来ただけだからだ。
必要なら声もかけようかと思っていたが、もう服装を見て無理だと悟った。あんな恰好で眼の前に立たれたらもうまともに前を向けなくなる。
ところがミルンの背に不穏な声が届く。やめてください、と泣きそうな声でスニエリタが誰かに訴えていた。
思わず凄まじい速さで振り向くと、如何にも好色そうな中年男性がスニエリタに絡んでいた。
「かわいいねえ、見かけない顔だけど、きみ普段はどこの店で働いてるの? 明日もここにいるのかい?」
「あ、あの、わたしはその、臨時と申しますか……て、手を、離してください……」
おっさんの眼はじろじろとスニエリタの顔を見、そこから胸元へと視線が移る。
その動きと口調の粘っこさからして、どこの店、という言葉が差しているのが娼館の類であるのは明らかだった。
そりゃそうだろう、こういう売り子の半数くらいは売れない娼婦や水商売の女が、小遣い稼ぎついでに顔を売るためにやっているという話も聞く。
だがスニエリタはもちろん商売女ではない。
そんな眼で見られていい娘ではない、
本来ならこのおっさんなど口をきくことさえ許されなかったはずの雲の上の住民だ。
自然とミルンは動いていた。
つかつかと歩み寄り、おっさんの薄汚い手をスニエリタから払い退けると、驚いているそいつを睨みつけた。
「連れを気色悪い眼で見ないでもらえるか」
咄嗟に言えたのはそんな言葉だった。もう少し気の利いた言い回しはできなかったのかと自分でも思ったが、おっさんもしばらく唖然としてから、なんだおまえはと言い返してきた。
確かに、今の状況はミルンが急に割り込んできたよくわからない外国人だし、おっさんからすれば売り子に声をかけたくらいで因縁をつけられている、納得のいかない状況だろう。
だが、だからといってこちらも引くわけにはいかない。
こちらの一存でスニエリタを家に返さず連れ回しているのだ、そのうえ必要もない仕事までさせて、せめて危険から守ってやるのがミルンの義務だろう。
「彼女はあんたが思ってるような
「いや、だからおまえはなんなんだ!? 第一、この私を誰だと思って……」
「おっさん、ここに出展してるどっかのお偉いさんか何か? じゃあそれこそこんなとこで騒ぎなんて起こさないほうがいいと思うぜ、……もうかなり注目されちまってるけど。
あ、俺らは単なる旅の術師なんで、あんたが誰かなんて知らないし、あんたと違って揉めようが騒がれようが何の痛手もない」
おっさんの目線が、突きつけられたミルンの指先へ注がれる。
手袋を見て旅の紋唱術師というのが嘘ではないことを理解したのだろう。
そしてミルンの眼がかなり本気で、これ以上おっさんがごねるようなら実力行使も厭わない、という気迫も伝わったはずだ。しかもミルンが言ったとおり、周りの視線が集まってきている。
さすがにおっさんもばつが悪そうに背を向けた。去り際に、主催者に文句を言ってやる、というような捨て台詞を残していった。
あまりに腹が立ったので軽いものを一発背中に当ててやろうかと思ったが、描こうとした手を止めるものがあった。
スニエリタの白い手が、ミルンの腕に触れていた。
大きな瞳に溢れんばかりに涙を浮かべている。
少し化粧をしているのか、今日はいつもより大人びた顔つきになっていたが、それでも涙を堪える顔はいつもと変わらぬスニエリタだった。
「ミルンさん……あ、ありがとう、ござい、ました……っ」
「だから言ったろ、無理しなくていいって。ああいう手合いは昨日もいたんじゃねえか?」
「はい……わたし、ちゃんとお断りできなくて、その……怖かったです……。
で、でもどうして来てくださったんですか? 今日は確か、図書館に行かれるって……」
「ああ行ってきたよ、今はその帰りだ」
話しているとだんだん頭が冷えてきて、今度はスニエリタを直視できなくなってくる。
顔はかわいいし、しかし下を向くと胸元が飛び込んでくるし、かといってむき出しの肩を睨むのもどうかと思い、最終的にミルンは実演用の湯沸かし器を見るしかなくなった。
スニエリタがサボっているように見えないようにコーヒーを受け取って、湯沸かし器を見ている客のような素振りをしながら話を続ける。
「とりあえず明日は断っとけ。絶対また絡んでくる客はいるし、さっきのおっさんが何かしてこないとも限らないしな」
「あの……さきほどの方、たぶんこの街の商業組合の幹部の方ではないかと……最初にお仕事の説明を聞いたときに、主催者の人とそれらしいお話をされてましたから……」
「……あーあ。じゃあ尚更やめたほうがいいな」
「でも、そうしたらわたし、お給料がいただけないです。三日間という約束でしたから。なので、あと一日だけですし……なんとか、がんばってみます……」
「だから無理はするなって言ってるだろ。そもそも、俺らは始めからおまえに稼がそうなんて思ってねえんだよ」
初めから、そのつもりで地下クラブに行った。スニエリタの分まで自分が稼ぐしかないと思ったから。
でも、どんな理由や状況であってもスニエリタに向かって「おまえには無理だ」という言葉をかけたくなくて、斡旋所では黙っていた。
きっと見つからないと思ったから、そのとき慰めるなり励ますなりすればいい。そう思っていたのに売り子の仕事なんて紹介されて、否定せずに止める言葉が思い浮かばず、もしかしたらいい経験になるかもしれない可能性にかけて送り出したのだ。
でも結果はやっぱりこれだった。
スニエリタが悪いわけではない、この仕事が危なすぎる。下着じみた服装をさせられ、周囲からおぞましい視線を向けられて、しかも主催者側の人間にもそういう手合いがいるとなると、仕事が終わってからも何が起きるかわからない。下手をすると犯罪に巻き込まれる可能性さえある。
決してミルンが心配しすぎでも過保護でもなく、世の中には弱い者を狙った悪意があることを知っている。
スニエリタのように人を疑うことを知らず、自衛の手段もろくに持たない若い娘など、そういう輩からすれば恰好の獲物だ。
ミルンが傍についていてやれるならまだしも、ひとりで行動させなければならないとなると、何があっても守ってやることができない。だったら眼の届く範囲に置いておくしかないのだ。
だが、スニエリタは首を振った。消えそうなほど小さな声で、それは嫌です、と言った気がした。
「足手まといは嫌です……おふたりがお仕事してる間、わたしだけ宿のお部屋で待ってるなんて……嫌ですっ……」
泣き出してしまったスニエリタの顔に、妹の顔がだぶって見えた。
昔同じようなことを妹にも言われたことがあったからだ。ミルンがロディルに紋唱術を習い始め、練習のために山へ向かおうとして、そこへついてこようとした妹を家に帰らせたとき。
──私だけお留守番するのやだぁ~! ジーニャ、私にもそれ、教えてよぉ!
そう言ってわんわん泣くので、宥めすかしている間に天気が変わってしまって結局練習ができなかったことが何度もあった。
そういうとき、ロディルは絶対に妹を放っておかずに、ちゃんと泣き止むまで傍にいてやるのだ。
でも紋唱術を教えようとはしなかったあたり、兄なりに妹のことを考えていたのだろう。
妹はミルンに似て活発な性質だから、紋唱術を覚えたら絶対にじっとしておらず、山でも湖でも出かけていってしまう。
それこそ眼の届くところに留まっていてはくれないので、どこでどんな事故に巻き込まれるかわかったものではない。
だから少なくとも妹にもう少し落ち着きが出るまでは教えないつもりでいたのではないだろうか。
もちろんそんな妹アレクトリアと目の前のスニエリタではいろいろと事情が異なるが、訴えている感情は近しいものがあるだろう。
ひとりだけ置いていかれるのは誰だって寂しい。
やろうとしたことを取り上げられるのは、誰だって悔しい。
「……そうか、そうだな。おまえの気持ちを考えてなかった。悪かったよ」
「すいません……わたし、何にも、できなくて……でも、お世話になりっぱなしで、だから何か、したいんです……っ」
つい癖で、妹を宥めるときのように頭を撫でてしまう。
手袋越しでも手触りの良さがわかるほどさらさらの髪は、衣装に合わせたのか後ろで軽く括られていて、髪飾りもよく似合っている。
ミルンにそういうものはよくわからないのだが、とりあえずスニエリタの髪の色には合っているような気がする。
しかし、いつまでもこうしてはいられない。ミルンがずっと隣に立っているとスニエリタの邪魔になる。
しかもただでさえ眼のやり場に困る衣装を着ているので、隣にいるだけでミルンまでもが精神的に磨耗する。
もちろん、見てはいけないという自戒の念と、彼女をじろじろ見る往来の視線に対する苛立ちのためである。
ミルンとしてはもう着替えさせて連れ帰りたかったが、せめて今日は最低限やり遂げたいとスニエリタが言うので無理強いもできず。
考えたすえ、ミルンは代役を立てておくことにした。
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