028 女神の真意は?

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 足元はさらさらと風の抜けていく青青とした草原で、遠くに地平線が見える。山も川もない、ただどこまでも草ばかりの平野が遠く続いていく。

 空の色は朝とも夜とも昼ともつかない、不思議な淡い緑色をしていた。


 ララキがあたりを見回していると、草原の彼方になにか白っぽいものがある。

 それはゆっくりと近づいてきた。歩いているようすはないのに、どんどんそれとララキの距離が短くなった。


 白い毛の、ヒツジだった。


 ルーディーンだ、とララキは思った。牧畜を司るかの神は、挿絵ではたいてい人に近い姿で描かれるものの、その頭部には必ずヒツジの角がついているのだ。その姿がヒツジそのものであることがあってもおかしくはない。

 なぜならシッカも、かつては人の姿をとることがあったからだ。今はライオンの姿しかとらないが。


 ララキはその場にしゃがみ込んだ。急に身体から力が抜けてしまった。ヒツジがゆっくり近づいてきて、ララキの顔を覗きこんできた。

 ヒツジの姿のルーディーンは、その碧緑の瞳でララキを見つめる。うっとりするほど美しい眼だ。


 やがて、ヒツジの口がかすかに動き、人の言葉で語り始めた……いや、本来言葉は神のもので、人はそれを借りているだけ……。


『ララキ、と言いましたね。ヌダ・アフラムシカは健在でしょうか?』


 きれいな女の人の声だった。女神だったのか、それともララキが勝手にそのように聞こえてしまっただけだろうか。


「シッカは……今はライオンの姿で、紋唱を通してしか顕現できないほど弱ってるの。

 ルーディーン、あたしはどうすればいい? あの……こうして姿を見せてくれたってことは、あなたはきっと協力してくれるんだよね?」

『私はクシエリスルの内にあるもの。他の神の意向を無視してあなたを導くわけにはいきません』

「じゃあ」

『ですが、クシエリスルとて一枚岩ではない……アフラムシカが離れ、彼がこれまで抑えていた一部の神々が、我らの結実を綻ばせようとしているのも事実。私はどちらかというと、彼の帰還を歓迎する立場にあります』


 ルーディーンのくちびるが、ララキの額に触れた。ひやりと冷たい、と思ったのは一瞬で、すぐにそこはかっと熱くなった。

 思わず額に手をやるララキに、ルーディーンはさらに続ける。


『私はこれ以上の手助けはしてやれない。ですが、警告はしましょう。

 ──"外の神"タヌマン・クリャに気をつけなさい。彼はまだあなたを諦めたわけではない。今もあなたを取り戻そうと躍起になっています……彼はいつでもあなたの近くに潜んでいる。

 ここはクシエリスルの内であるがゆえ、彼も自在に力を揮えはしないが、いずれはそれを乗り越えてくるでしょう』


 ざあっ、と一瞬強い風が吹いた。巻き上げられた草花がララキの周りを飛び交う。

 明るかった空が俄かにかき曇り、遠くに雷鳴が轟いた。


 ルーディーンが言った。──あのように、今もこの私の結界に干渉している。


 今さらだが、ここは彼女の作った結界の中らしい。ララキと直に話をするために呼んだのだろう。

 たしかにあの人混みの中に神が顕現したら大騒ぎになるが、こうして彼女の側にララキだけを呼べば、ふたりでゆっくりと話ができる。

 だが、それを快く思わないものが、外から何らかの攻撃をしている。


 タヌマン・クリャ。


 それは、ララキにとってはよく知っている名前だった。


 その神こそ、クシエリスルを拒み『七柱の盟主』に戦いを挑んだ『外の神』の首魁であり、ララキをあの結界に封じ込めた張本人なのだ。


 ララキは思わず自分のお腹を触った。そこにはまだクリャに刻まれた紋章がある。

 いや、お腹だけではなく、背中、腕、脚、身体じゅうのいたるところに。シッカとライレマの尽力によりかなり薄くなり、一部は消えさえしたが、それでもまだ残っている。


 まだ、自分は、神の贄なのだ。少なくともタヌマン・クリャにとっては。


『そろそろあなたを帰します。"あれ"にこの中に入られるのはまずい』

「ま、待って! お願い、どんなことでもいいから、アンハナケウに行く方法の、手がかりを──」


 景色が急激に薄れていく。真っ白に染まる視界の中で、ララキは必死に手を伸ばしてヒツジに縋りつこうとしたけれど、ルーディーンの姿はどんどん遠くなっていった。

 もがいた指が空を撫でて、地に落ちる。


『……ガエムトに会いなさい』


 最後に、そんな声を聞いた気がした。


 ガエムトって誰なの、と叫んだが、返事はなかった。意識が遠くなる。眠りに落ちるときと似たような感覚で、ララキの内面まで真っ白になっていった。



‐ - ― +



 ……なんだか温かい。


 少しずつ戻ってきた感覚の中で、ララキはそう思った。


 まるで小さいころにシッカの鬣に顔を埋めて寝ていたときのようだ。温かくて柔らかくて、気持ちがいい。

 ただ、それをするとシッカは嫌がった。なにせその状態で心地よく寝込んでしまうと、起きたころにはふかふかの鬣が涎まみれになってしまうからだ。

 それでよく謝りながら拭いてあげたものだった。シッカは毎回嫌がりながら、それでも眠るララキを振り落としたりはしなかった。


 また、あんなふうにすごせる時がきますように。

 そのためならララキは戦う。なんだってする。どんな遠い場所にだって行く。ガエムトって人も探してみせる。


 でも、ところでその、


「ガエムト……って……誰?」


 眼を醒ますと、まったく知らない部屋にいた。

 どこだろう、起き上がってあたりを見回していると、こちらを見ていたスニエリタと眼が合った。彼女は慌ててララキの寝ていた寝台に駆け寄る。


「眼を醒まされましたのね。よかった……みなさん心配していましたのよ」

「スニエリタ、ここどこ?」

「私がお借りしている宿のお部屋ですわ。隣にミルンさんたちもいらっしゃいますけど、お立ちになれます?」

「うん、平気。ちょっと寝惚けて頭ぽやっとするけど……」


 スニエリタとともに寝室を出た。


 それにしても二部屋もある宿って一晩いくらするんだろう。これからはミルンとララキに合わせて激安宿に寝泊りしていただくことになるのだが、大丈夫だろうか。寝台だってあんなふかふかのには当分寝られないぞ。


 隣の部屋はおあつらえ向きに長椅子があって、そこにスロヴィリーク兄弟が並んで座っていた。

 まず声をかけてくれたのはロディルで、大丈夫かい、と優しく尋ねられた。どうやらララキは祭りの途中で気絶して倒れた、と思われていたようだ。

 ミルンは驚いたぞの一言しかなかったが、顔を見るかぎり心配してくれたのは間違いなさそうだったので、ララキはできるだけ笑顔でありがとねと返す。


 窓の外はすっかり暗くなっている。結局『紋言開き』のいちばん肝心なところは見逃してしまったか。


「あのね、病気とかじゃなくて、なんか……ルーディーンって神さまとお話してたんだ、あたし」

「なんだって?」

「夢でも見てたんじゃないのか、って言いたいとこだが……ルーディーンは何て?」

「おや、ミルシュコ、ずいぶん素直に信じるね。珍しい」

「言っただろ、こいつは特殊だからな」


 スニエリタに椅子を勧められ、腰かけてからララキは話した。


 羊の姿のルーディーンが現れて、シッカの話をしたこと。額にキスをされたこと。

 そして、警告を受けたこと。


 どうもララキが倒れていた間、ミルンはスニエリタとロディルにだいたいの事情を教えてしまっていたらしく、ふたりともふつうに話を聞いてくれた。


 ちょっとおでこを見せてもらっていいかな、と言われ、ララキは前髪をめくってみた。

 今はそこに何の熱も感じない。ミルンたちに見せてもなんともなっていないそうだ。


 結局あのキスには何の意味があったのだろうか。手助け、とか言っていたような気がするが。


「タヌマン・クリャか。今まで何か気配を感じたこととかはないの?」

「ぜんぜん。ルーディーンが言うには、ここはクシエリスルの内だから、向こうも好き勝手にはできないみたい」

「クシエリスルの神々の加護を受けた土地では、外の神は力を失うということでしょうか」

「でもそれもいずれ乗り越えるって言われてんだろ。どうすんだよ」


 どうするといわれても、どうしようもない。しいて言えばその前にアンハナケウに辿り着ければまだなんとかしようがあるかもしれない。


「そういえば、起きたとき何か言ってらっしゃいませんでした?」


 スニエリタに言われ、ララキは記憶の糸を引っ張ってみる。なんだっけ。

 ああ、そうだ。


「ガエムトって人に会えって言われたような気がする。あたし、そんな名前の神さまなんて聞いたことないんだけど、みんなは知ってる? もしかしたら神さまじゃないかもしれないけど」

「いや、神だよ」


 なんだか神妙な顔をしてロディルが答える。ミルンも似たような顔をして頷き、その続きを紡いた。


「クシエリスルの神だ。それも七柱の盟主に数えられることもあるくらい強力な」

「え? そうなの?」

「あの、わたくしも聞いたことがないのですが、どちらの神でしょうか」

「ヴレンデール北部からハーシ南西部にかけて広く信仰されてる。でもララキやスニエリタが知らないのも無理はないな、あれはあれで特殊っつーか……」

「ふたりは"忌神いみがみ"という言葉は知ってるかな」


 ララキとスニエリタはそろって首を振る。


 そのあとロディルが説明してくれた話はこうだった。──あまりにも死者が多い土地では、生きている人間の世界とは別に、死者の世界があるという考えかたをする。


 死者の世界で崇められる神のことを忌神と呼ぶ。死者のための神であるため、生きている人間には何かを施すわけではない。

 もちろん、実際に死者の世界があるかどうかは生きている人間にはわからないが、そういう前提の考えのもと、亡くなった身内の死後の幸福を願い、自分たちの本来の守り神とは別に、忌神を祀るのだという。


 そうした風習は大陸の西方に多くあり、忌神も複数存在するが、その中でももっとも広く信仰されているのがガエムトという神らしい。


 忌神の代表であるガエムトだが、あくまで死者の神であるため、信仰地域外にはあまりその名を知られていない。

 また忌神という名称のとおり、あまりその名を口に出すべきではないとされている。

 死者の神に心を開くと、自分も死者の国に連れて行かれてしまう──そのように言われるため、人々は口を噤む。それゆえその名は広まらないのだ。


 兄弟の出身地はハーシの北西部だが、ガエムトの信仰地域とは昔から繋がりがあるため、名前や性質については聞いたことがあるらしい。


「どうしてルーディーンはそんな神の名前を出したんだろうね。死者の神が、生者のきみに何か力を貸すとは考えにくいけど」

「まさか遠回しに死ねってんじゃないだろうな……」

「やめてよー、そんな感じじゃなかったよ!」


 嫌なことを言うミルンの肩を思いきりぶっ叩いてやると、痛えよ!と怒られた。

 そういえば昨日そのあたりに怪我をしていたっけか。今日一日でいろんなことがあったのですっかり忘れていた。


 ほんとうに激動の一日だ。まずスニエリタの突然の同行希望。そしてこれはもともと予定してはいたことだが、ロディルとの再会。

 そして極めつけがワクサレアの神ルーディーンとの思いのほか穏便な対話。


 よかった。攻撃されなくてほんとうによかった。

 ヴニェク・スーと違ってめちゃくちゃ話のわかる人、いや、神だった。ヴニェクなんて対話どころか姿さえ一度も見せてくれなかったのに。


「でもこれで行き先は決まりましたわね、ララキさん。次の目的地はその神の信仰地域ですわ」

「そうだよね。じゃ、案内はミルンに頼んだ!」


 何せララキたちは名前すら知らなかったのだ。餅は餅屋、西部のことは西部の出身者に聞くが早い。

 ミルンも頷いて、経路を調べないとな、と言った。


 そこでロディルが立ち上がる。そのとき長い髪がさらりと揺れて、風が吹いたみたいだとララキは思った。


「じゃあ、僕はこれでおいとまさせてもらうよ」

「……やっぱり、お兄さんは一緒には来てくれないよね。ちょっとだけ期待してたんだけど」

「目的が違うからね。僕はアンハナケウには興味はないんだ」


 でも、とロディルはミルンを見やる。


「明日の朝、訓練場に来るんだよ。そこできみたちの実力を見せてもらう」


 そう言いおいて、ロディルは部屋を出て行った。


 どうやらララキが寝ている間に既にその話は出ていたようで、ミルンもスニエリタも落ちついていたが、ララキはそうではない。なんでそうなるのかさっぱりわからない。


 ミルンが説明したところによれば、これまで何の手がかりも得られていなかったことがロディルとしてはよくなかったようで、ミルンはけっこう叱られたらしい。あのロディルがミルンを叱る姿なんてぜんぜん想像つかないが。

 とにかく、アンハナケウに行くなどという壮大な野望を抱くなら、それなりの力を示してみせろということらしい。


 要するにちょっとした試験を受けなくてはいけなくなったとのことなのだ。


 それって判定基準はどのあたりで、落ちたらどうなるんだろう。故郷に強制送還とかか。

 ……あれ、おかしいな。最初はロディルを故郷に帰らせようとしていたのに、立場が入れ替わってないか、それだと。


 困惑するララキの首根っこを掴んでミルンも退室した。スニエリタは微笑んでそれを見送っていた。


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