022 雪辱のヤンザール・クラブ②

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 あんにゃろう俺の財布から全額出して渡しやがったな。と、入金のようすを見ながらミルンは思っていた。


 まあなんでもいい。試合さえ成立すれば。

 それにそうやって後がなくなるほうが、いっそう自分の闘志も研ぎ澄まされていくだろう。


 まだ観客に向けてサービス中のスニエリタを横目に、ミルンは紋唱をする。


 ……故郷を心に返す、か。


 そんなこと思ったこともなかったが、なにしろ遣獣たちはみんな故郷で出逢ったものたちだから、彼らからは水ハーシが暮らすアタヴァーヌィの森の匂いがする。そうやって意識せずとも繋がっていたのかもしれない。


「我が友は朗笑する!」


 呼び出したのはシェンダル一匹。それを見て、自分はまたジャルギーヤとニンナを両方呼び出しながら、スニエリタは笑って言った。


「我が僕は英明にして爛漫なり。……あら、イノシシさんは今日はお休みですの?」

「出すまでもないと思ったんでな」


 そりゃあ笑えるだろう。前回のシェンダルといえば突っ立っているだけで何もしなかった残念犬公だった。まだアルヌのほうが、落下するミルンをすんでのところで受け止めるなど、少しとはいえ役に立っていたのだから。


 だが今日はちょっと違うのだ。そのために六日間の修練をした。


「それよりさ、スニエリタさん、俺が勝ったらこれからはあんたのことを呼び捨てにしてもいいかい?」

「お好きにどうぞ。勝てたら、ですけどね」

「ありがとよ。これで心おきなくあんたを引き摺り下ろせる。……シェンダル、やれ!」


 シェンダルは頷き、真上を見上げて吼えた。

 その声は朗々と会場に響き渡り、驚くほど長く続いた。遠吠えだ。それを聞きながらミルンも紋唱の構えを取る。


 一方スニエリタは、気にしたようすもなくジャルギーヤに乗って舞い上がった。

 空中戦ならほぼ無敵の彼女にとって、オオカミの遠吠え程度に何の警戒も必要ないと言わんばかりだ。それよりはミルンのほうを気にしていたのか、大蛇が彼の背後から忍び寄ろうとしている。


 シェンダルはまだ吼えていて助けに行く気配はない。


 ニンナは身体が大きいぶん、顎の力も強そうなら牙も大きい。ただ噛まれるだけでも大きな怪我になるが、もし毒でも持っていれば命に関わるだろう。それが弱い毒だったとしてもひと噛みで流し込まれる量が多くなれば危険度は上がる。

 そんな大蛇の牙がまさにミルンを襲おうとしていた瞬間、ミルンが振り返った。


「──地霜の紋!」


 彼がヘビに向けて放ったのは、水を撒いてもいないのに氷系の紋唱だった。

 むろん合わせて使うための術というわけでもないので、それ単体でも発動はするが、何もないところではほんとうにただの霜程度。身の丈三メートル弱、体幹は太いところで直径二十センチを越える大蛇の動きを封じるには弱い。


 はずだった。


 あっという間に白い柱がヘビの身体を取り囲み、ニンナの動きが止まる。その牙がミルンに届くことはない。


『なっ……何故だ、動けんッ! 貴様何をしたァ!?』

「いや、俺は単にこないだと同じ術を使っただけだよ。下準備のしかたを変えただけでね」

『スニエリタさまァァア!』


 主を呼ぼうとニンナが叫ぶ。見上げた大蛇の大きな眼に、白いものが映る。


 雪が降っていた。


 天井近くに真っ白な紋唱が浮かび、そこから風花が無数にはらはらと舞っている。それも粉雪と呼ぶようなものではなく、雪片が塊に近い大きさで、いくつもいくつも降りしきっていた。

 ついそんなものはさっきまでなかったはずだ。それが今は、変温動物であるヘビの身体を動けないほどまで冷やし、地面に這わせていたニンナの身体が半分隠れるほどには雪が積もっている。


 南国生まれのニンナにしてみれば、初めて見る牡丹雪だった。こんなに早く積もるものかと感心さえした。いや、術でそうしているだけで、きっとほんものの雪はもっとゆっくり積もるに違いない。


 一旦紋章に戻ろうとするニンナだが、身体はもうがっちりと氷付けにされて動けない。


 スニエリタの肩にも雪が積もろうとする。それを手で払い落としながら彼女はやりかけていた紋唱の続きを行うが、さすがに寒い。

 手が震え、紋章が歪む。息をするたびに白いものが口から出てゆき、歯の裏がきんと冷える。


「東の国のお嬢さん、どうだい、俺の国は寒いだろ?」

「ええ、とても……」


 一方のミルンは足に絡んでくる雪の上でもなんなく動き、少しも鈍ったところのない動きで次の紋唱に移る。

 これくらいの寒さは彼にとってはなんともない。彼の生まれ育った大陸北西部は極寒地帯、真冬ともなればこの何十倍もの雪が降るのだ。この程度の雪ならないも同然の感覚である。


 場を自分の得意な環境に作り変えてしまえば、ずっとミルンが有利になる。

 ただでさえ尋常ならぬ集中力が必要になる両手描きの紋唱はほぼ完璧に封じた。


 シェンダルの属性は氷。雪を呼ぶ術は彼の得意技のひとつだ。

 発動にやや時間がかかってしまうのが難点で、その間は周りが攻撃を防いでやらないといけないのだが、スニエリタがまったく警戒しなかったのでそのぶんミルンの手が空いた。

 その点はほんとうに助かった。なにしろ、


「俺はワシなんかよりヘビのほうがずっと怖いんでね……氷閃ひょうせんの紋!」


 これだけの雪の中で行う水の術は、否応なく凍り付いて氷の術の様相を呈する。

 流閃あらため氷閃となった氷の槍が上で旋回しているジャルギーヤを狙い打つ。そしてスニエリタを落とすのだ。この雪原へ、前回のミルンのように。


 しかしワシの機動力はまだ落ちてはおらず、華麗な身のこなしで槍を避ける。行き場のなかった槍は途中でぼろぼろと砕け散った──ミルンがそのように制御をした。あのまま放っておいたらシェンダルが作った雪雲の紋章に当たってしまうからだ。


 この類の術は得策ではないと判断し、すぐに別の術を試す。──雷翔の紋。飛び出した雷電の鳥は一目散にジャルギーヤへと向かっていく。


『やるではないか、小僧……面白いぞ』


 初めてワシが喋った。見た目のとおり、尊大な態度で。ヘビと同じく男にしては高く、女にしては低い、どちらともつかない妙な声だった。


「教えてさしあげなさい、ジャルギーヤ。あなたの翼のほんとうの使いかたを」

『御意に。

 "謳い讃えよ、錦の翼は絢爛なりや──梟撃きょうげき"』


 ジャルギーヤが力強く羽ばたくと、接近していた雷の鳥がずたずたに引き裂かれた。

 何が起きているのか眼には見えなかったが、一瞬見えた紋章から推測はできる。目視不可能なほど速い透明な刃を発したのだ。恐らく風の属性の力だろう。


 手強そうだ、そう思った瞬間、ミルンの身体にも激痛が走った。


 一瞬何が起きたかわからなかったが、外套の肩と胸のあたりがぱっくりと裂けていた。その中に赤いものも見える。

 ジャルギーヤの発した風の刃がここまで届いたというのだ、しかもほとんど音もなく。


 咄嗟に防御系の術を張る。──雪壁せっぺきの紋。


 その判断は正しかった。ミルンを覆うように角度をつけてそびえた氷と雪の壁が、耳障りな音とともにものすごい早さで削られていく。

 これを真正面から身体で受けていたらどうなっていたことか、今ごろ細切れにされていたかもしれない。


 今にも打ち砕かれそうなほど薄くなった壁を張り直し、攻撃が緩むかどうか伺ったが、ジャルギーヤは容赦なかった。スニエリタを乗せて飛ぶ動きのまま、羽ばたきに紋唱を載せてミルンを狙撃し続ける。


 どうやら前回はずいぶん手抜きされてたんだな、と思わず苦笑いが浮かんだ。

 というか、こんなバカ強いワシとどうやって契約したんだか。


地吹雪じふぶきの紋、重ねまして嵐華の紋……」


 身動きがとれないミルンの足元で、雪が突然大きな音を立てて舞い上がった。地中で何かを爆発させたかのような勢いと風圧だった。

 さらにそこから竜巻が生まれてミルンをもっと持ち上げようとする。既視感のある展開だった。

 このまま空高く打ち上げられて、無防備になったところをジャルギーヤに撃ち落とさせるつもりだろう。


 だが、ミルンは数メートルも浮かないうちに空中で止まった。めり、という音もした。


「なんだあれは?」

「よく見えんが何かあるみたいだぞ! オオカミが何かやってる!」

「ああ……空気をまったく含まない氷はかなり透明度が高くなると聞いたことがあるが……」


 観客たちがざわめき、指差す。ミルンの上昇を押し留めたそれを。


 石版のような平たい氷の塊が空中に浮遊していた。いや、それは円形の結界線に沿っている。結界が張られていることを利用して、外に術を出させまいとするその紋章を壁代わりに、そこから直接氷を生やしているのだ。

 氷の板はひとつではない。ミルンとスニエリタの間にある十数メートルほどの空間の、いたるところに出現している。


「いって、背骨打った」

『間に合ったな』

「ああ、いいタイミングだったぜシェンダル」

『まだ油断はするな。氷壁も長くは耐えられない。あのワシは厄介だ』

「そうだな、とっとと落としちまおう。援護頼む」


 ミルンはなんと、身を翻して氷板の上に登った。当然ジャルギーヤとの間には何の障害物もなく、まったくの無防備になる。さらにそこにシェンダルも続く。


 丸腰同然の獲物を見て猛禽の眼が鋭く光った。翼が、振り下ろされる。


 しかし刃は届かない。常にミルンの上に薄い氷の膜が張られているからだ。それは風刃が当たるたびに脆く砕け散るが、その代わり無限のように延々と湧き出るので、一向にミルンには到達できない。

 それを作っているのもまたシェンダルで、驚くほどの持久力でミルンを守り続けていた。


 彼は前に言った。メスとは戦えない、と。そして相手がメスではないと断言できない以上は攻撃することもできない。

 このオオカミのよくわからない主義は今さら変えようがないと知っていたミルンは、彼にこう提案した。


 ──攻撃はしなくていいから、俺の頭と腕だけ守ってくれ。それならやれるだろ?


 そしてシェンダルはその条件を呑んだ。


 彼だってオスで、獣だ。どんな相手にしろ負けるのは好きではない。

 獣の世界では敗北は死を意味する。負けたものは食糧にありつけず、子孫を残すことも叶わない。どんなに魅力的なメスと出逢えても、弱い男、戦いを放棄する男、負ける男は選ばれない。


 選ばれるのは勝つ男だ。それも、格上の存在を乗り越えるような男でなければ。


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