第24話 偶像と偶像
「出し惜しみはしない。躊躇いもしない。迷いもしない。オレは――フィルア=ヒュウガは神を信じる、信じているから、お前を倒す――『神に疑いはなく、その遣いである聖女も同様である。願わくば、わたくしめも車輪の彼女へと至らんことを』」
たなびく金の流れを伴って、詠唱が走る。シスター・フィルアは感情渦巻く瞳を見開いたままで、こちらに迫る。
頭の中で近接格闘の記憶が浮かび上がり、回想を終えた頃には身体が最前線へ躍り出ていた。十数名の
双方とも速すぎた。片方は体躯の大きさからして英雄で、もう一方の赤い輝きはシルフィの方か――
「『カタリナの聖女よ』」
「っ⁉」
思考も許されない。敵の纏う信仰が爆発する。フィルアが右手に握るボール状の物体が前方に投じられ、一気に膨張、爆発、伸展。
膨れ上がるは木製の車輪。黙視するだけで総毛立つほどに、その輪には夥しい量の釘が打ち込まれている。鋲は深々と埋まり、尖った下端は乱暴に飛び出し、細い無機物が木目を無残に割いていた。銀の付近でまばらに見られる赤黒い染みは、最早無粋な装飾だ。
ああ、これは元厨二病患者であれば見知った器具だ――拷問用の車輪なんてもの、知らなくていい知識だが。黒歴史を掘り下げる、精神戦から始まっているらしい。
投擲された凶器に対し、俺は右足を前に出していた。シンプルな前蹴り。拒絶の意志を込めた暴力は、血と死の象徴を跳ね除ける。
なお拷問具には傷一つない。車輪は鉄釘によってひどくずたずたであるはずが、過度な暴力を受けても一欠片として零れやしなかった。
「そりゃ、蹴って壊れるようなもんじゃないよな……」
「オレの得物を舐めてもらっちゃ困る」
横方向の力を加えられて主の方へ飛んでいった輪は、少女の手に戻る。狂ったように回転し続けるも、触れている持ち主を傷つけることは無い。
一拍に満たない間隙、極小の合間に武力と武力を交わす音色が響き渡る。後方では甲高い金属が重なり合っている上に、前方では空気と空間が歪む轟音があった。
――アテナはどうなっている。欲に負けて一瞬振り向けば、多くの
厄介な客人から発せられる殺気が、よそ見の寸暇さえ許可してくれないのだ。空間を巻き込みながら車軸と本体が擦れる音は、素朴な死を予感させる。
「シルフィも暴れてるし、オレも派手にやりたいな!」
「何度も言っているが、担当に手出しさせるわけないだろ。まずは事務所を通してからだ!」
すぐそこで、右の靴と車輪が衝突している。反射的な自分の行動に救われた。
乾いた打撃の余剰が音波になって、甲高い戦闘音に混ざり合う。再開される力と力のぶつけ合いの最中、靴底越しに感じ取れるのは乾燥した木の蹴り心地だった。踵で踏みしめてしまったのは、斜めに突き刺さった金釘あたりか。
踵で受け、土踏まずで押しのけてから、爪先での蹴りでフィルアを牽制する。俺が差し込んだ右足に対し、少女は弾かれた木輪を合わせにきて――俺は足技でまたも応じる。素手で触るのは無理だ。直に触るには、赤茶に錆びた金属が禍々しすぎる。
こうして革靴越しに干戈を交えているだけで、自身が汚染されていく感覚があった。アテナから貰った力の一部が、穢されていくようでもある。
「ここは俺の担当のライブ会場だ! 物騒なモノは手放してもらおうか!」
下方向に踏み抜いて不気味な得物を地面に縫い付けようとするも、彼女は一気に体重をかけてシーソーの要領で抵抗する。
俺が車輪を右足で踏みしめ、相手は両手で輪を地面に押し付ける形だ。広場と密着した円環は両者の下に潜り込んでいる。弾けないが、振るえもしない。
この状態での近接戦に持ち込めば――
「『神が私のために血と肉を捧げたもうたように、私も神に血と肉を捧げたく! 故にそう、私は車輪にて刑されず!』」
輪が、弾け飛ぶ。
古びた血液に塗れた鉄釘が飛散して、最悪の凶器と化す。
小さな両手に『斂想』が集中して車軸に吸い込まれたところまでは、記憶に辛うじて残留していた。その残滓も今や、雑多な痛みと刺突の衝撃で忘却の彼方にある。
咄嗟に身体を丸く竦めて両腕で顔を庇っていなかったら、今頃視力は失われているだろう。盾代わりにした四肢は鉄片により裂傷だらけで、血液と熱の流れていない箇所は絶無だ。
ひどく痛くすこぶる寒いが、それでも大人は虚勢を張るものだ。体液と一緒に重要な感情も流失している気がするが、出ていく分までこちらで生み出せばよいだけの話。
――動かせ、口を。余裕を持ってあざ笑え。顔を上げろ。口角を上げて不敵に笑めよ。
それは、昔に還乃と学んだことだ。
どうしてだかブレてぼやけた視界の中央に映るのは、赤毛の修道女。背景には全員が何らかの形で武装した、宗教人の大軍勢が存在した。加えて、それらを一振りの鎌で抑え込む
「神の力を借りたにしては、悪辣で邪悪極まりない攻撃だな、おい」
「黙ろうか。これは我らの主から、そして聖女カタリナから借りた神術。あんたら異教を消し去る、アレクサンドリアの殉教者の御業。――いやそれよりも、あんたはどうして――」
「言葉の続きは、『喋れるほどに無事なのか』、だろ?」
俺が苦痛と共に絞り出した言葉に対し、フィルアは真一文字に口を結ぶ。凛々しい目は忙しなく動いて、対面にいる俺の様子をつぶさに観察していた。視線がしきりに絡みつくのは身体の中心だ。
「急所、いや胴に深い傷が少ない……一体どんな禁忌を……」
「禁忌? おいおい、これはそんな大仰な代物じゃないぞ。お前たちみたいに、歴史ある術だの格式ある詠唱だのとかいう、病気にかかってるわけじゃない――単に俺が
脇腹辺りに痛む手を当てると、五指の腹で確かな固い感触を得られた。チープな冷たい金属の触感が、今となっては頼もしい。彼女の直筆
爆発、飛散した破片からこの身を守ってくれたのは、スーツの裏地に付いた大量の缶バッジ。不良在庫が本当に役立つなんて、分からないものだ。担当が冗談で言ったことを、そのまま実行してしまった俺も俺だが。
バカみたいにグッズを身に着けてしまうくらいには、神殿仕は
「悪いな、これはそう簡単には貫けないらしい」
フィルアは破けたスーツの隙間から露出する、複数の銀の輝きを認めると――視線をまた一段と尖らせ、更に研ぎすませた。小さな両手を開き閉じれば、感情が形を成して禍々しい車輪は再び回り始める。
「オレが持ち出してきたのと同じ、聖遺物のレプリカってことか」
「レプリカ? ふざけるな、直筆だよ全部。一つたりとて同一なモノはない、この世に唯一の宝物だ。そっちのフリマアプリで買えそうなのと、一緒にするな」
振り回される危険な円に対して、俺は二の轍を踏まない。接触が最小限になるように足で受けてから、
「『カタリナの――』」
「手品をやるなら会場外で頼むぞ、厄介オタクっ!」
全て弾き飛ばす。彼らのお仲間が大挙している向こう側へと。
車軸に光が集まり、中途半端な集光ののち軽く破裂する。飛散する残骸は儚く散りながら、あちらの仲間を傷つけていた。
意図していない、十字の民からすれば味方からの不意打ち。突如として投げ込まれた車輪は、繊細かつ複雑な戦場を激変させる。まるでピンボールだ。
友軍からの一撃に対し、十字架で打ち払う対処を選択した神父の首に――音もなくペルセウスの鎌が迫る。
無音は、呪文が許さない。
「『父と子はただ、聖霊においてのみ一致する。神は霊である。分かたれず。ならば、半神は否定されるのが世の理!』」
軍勢の一人が唱えると、空間から縄が生じて英雄へと飛びついた。
ゼウスとダナエから生まれた半神である彼にとって、神を否定するような呪文は致命となるのだろう。信仰と繊維で縒り合された縄は男の身体へと執拗に絡みつき――すぐに引きちぎられた。
青年の動作に極小の遅延が付与されるものの、それでも軍勢の一部は斬撃で散らされていく。
なんて力だ。味方の立場であろうと、総毛だつ戦力じゃないか。
「フィルア様、混血を縛る術式が通用いたしません! 何かほかに方策は――」
「詠唱を複数重ねて!」
俺との殴り合いの最中に、必要最低限のやり取りが飛んでいく。そんな余裕認めたくはないが、こちらも負傷を引きずっている身だ。抑えきるのは難しい。
「多重詠唱は試しましたっ!」
「ディレイ、ずらしは⁈」
「実行済みです!」
「『創』一章一説、『ヨハ』一章一説からの同時引用!」
「それも――くそっ⁉」
「一体どういう仕組みだ⁉ ギリシャの異教を名乗ってるなら、オレたちの術が効かないはずないのに!」
少女の叫びには鎌の風切り音が応じて、青年の声はそれを追うかのよう。
「あなたがたがギリシャ神の信仰を失わせようと、ボクにはまだ縋る場所があります。この力は現代の信仰――人の子らの力によって支えられたモノ! 古き書物と信仰による対処など、児戯にも等しい!」
「「「『なれば、我らが血と肉を捧げるのみッ。我らの神がかつて、迷いなくそう為されたのだからッ‼』」」」
「SNSでバズって『斂想』を得たコスプレイヤーに、古臭い祈りが効くとでもお思いか!」
ペルセウスが一喝すると、負けじと戦場の神父たちが叫ぶ。ズレはあれども複数、心の奥底から噴き出した決死の咆哮が周囲を鼓舞し、信仰の力を噴出させた。
「殉教も厭わないその犠牲精神、昔から変わりませんね! 次々にその身を捧げることで時間を稼ぎ、決定打を奪う方針は褒めてさしあげましょう!」
温和なコスプレイヤーの目つきから、鮮烈な戦場の英雄が放つ眼光へと切り替わる。
「――一時でもこの英雄を止めたこと、誇りとして抱くといい! ヘルメス様より借り受けたこの鎌が止まる時、あなたたちもまた英雄となるだろう!」
「そんなことさせるか、オレだって援護に――」
「先に行きたきゃ俺を――
一気呵成に畳み掛けるペルセウスに、掩護に向かおうとするフィルア。連鎖して行動を変化させるのは俺も例外でなく、ならば他も留まったままではいられない。
シチュエーションは傾斜する。神たる
精神を削り取っていく、武具と武具との衝突音の隙間に声が混じる。シルフィと呼ばれる少女の、高圧的で身震いするような一声が雑音を貫いていく。
「隠野還乃さん――一人でこの状況を傍観している、
空気が変わる。禁忌に踏み込んだとき、大気は飲み込むことが極めて困難なほどに粘性を有する。
いや、これは俺が逃げてきたことだから――息苦しくて溺死してしまいそうなだけか。
「なにを、いっているのですか」
ひどく平坦な返答。それは冷静さとは程遠く、無理に抑え込んでいるからフラットに聞こえるのではと、ふと頭を働かせてしまう。
「わたしのなにをしって、あなたはそんなことを――」
「調べましたわ――いえ、以前から存じていましたわ。あなたの前の事務所も、あなたのマネージャーまでも」
「うそ」
「真実ですわ。あれだけ路上でパフォーマンスをしていれば、覚えますもの。ワタクシこれでも、この地域で布教に励む修道女ですので」
「関係、ない。なにも、わかっていない――あなたなんかが」
槍と槍が重なり合う音も、鎌が空気を割る衝撃も、物を蹴り飛ばし車輪が砕けていくノイズも、すべてが背景音と化した。
「隠野還乃、耳を傾けることはありません。こんなたわ言、私のライブを楽しんでもらうのには邪魔です!」
童女の声でさえ、中心と奥底には届かない。今舞台の中心は、二人だ。
「見ていれば、すぐに理解できましたわ! 貴女の心情、貴女の思いが! 自分が注がれていたはずなのに、そこには別の誰かがいて、前で十分満たされていたはずなのに――」
「それ以上、やめてっ‼ お願い、おねがいだから! ――わたしは、弱いから――」
「ワタクシは保証しましょう、貴女と彼の安全を。――ワタクシたちに手を貸してくれるだけで、約束をします。昔からの、アイドル隠野還乃を見ていた者として」
「だから、もう!」
「さあっ、選択をっ‼ 貴女が貴女のために戦うか、貴女の大事な人が誅する様子を黙ってそこで見ているか、選ぶときは今ですわ!」
号令に合わせて、殺意と敵意と害意が捻じ曲がり始める。
神に仕える軍勢が、英雄を無視して矛先を変えようとする。一部が鎌に刈り取られていくが、そんなのはお構いなし。車輪を持つ少女も反転し、英雄でない方向に対して聖遺物を構える。扇動するシルフィ当人でさえ、アテナとの交戦は二の次という雰囲気を纏う。
彼らは誰を狙うのか、決して明瞭にしなかった。されど重圧が感受先を歪め、勝手な意味を持たせてしまう。
あとは背を押すだけ。名目がわずかでも存在すればいい。
神の槍をぎりぎりで避け、真っ赤な長髪を振り乱し、修道女は呼びかける。
「隠野さん! 無力な観客でいいのですか、貴女は――」
「わたしは――」
「貴女は、得るための努力をしてきたでしょう! 同じように、この場所で! それが、アテナと名乗る不届き者に盗られてもよいのですか⁉ ステージから追い出され、観客になり果ててもよいと⁉」
「わた、しは観客じゃない――他人じゃない! あの人のそばにいた、なのに! 必死に諦めようと、折り合いをつけようとした、けど!」
感情が吹き荒れる。これまでかき集め、集積してきた信仰も一緒くたに巻き上げて――。
「わたしは、わたしはたった一人の感情を独占するためだけに、ここに立った
爆発した激情が柔らかな形を成す。アテナの衣装とは真反対の、黒のフリルで彩られたコスチュームが出現する。それはこの広場の大画面に何度も映し出された、アイドル衣装。地下から這い上がった
今この舞台に、新たな演者が現れる。
「ごめんなさい、神殿さん――わたし、ダメなアイドルなの」
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