161恥目 嫌な予感


 泣いてる誰かに何と声を掛けたら正解なのだろう。声を掛けなければ薄情だし、声を掛ければ余計に傷付けるかもしれない。


 この子が泣いている理由なんてオレが見た事が原因である筈なのに、他の深い所に核があるんじゃないかと深読みしてしまう。


 そもそもどうして女川町から仙台に来たんだ。その理由だって知らない。まさかいつかの晩に話していた売春話が本当になったのか。だとしたら此処に居るのは不味い。

 けれどオレには逃してあげられる術がない。ならせめて、味方が1人居ることを教えてあげればいいかな。

 

「何か飲む?」


 自分が考え過ぎてるだけなんだと言い聞かせ、スンスンと控えめに啜り泣く妹に優しく声を掛けた。


 ずっと涙を流していれば喉が渇く。辺りを見ても口に出来るものは1つもなかった。断られるかもしれないと怖くもあったが、出来る限りの事は提案してあげたい。

 妹は一点を見つめて迷う様子ではあったが、言葉は出さず、小さく首を縦に振る。


「取ってくるから、待っててね」


 飲み物1つの事なのに、頷いてくれた事がとても嬉しい。だってほんの少しは信頼してくれている、と言っても間違えではない。と思う。


 ランタンは置いたまま、自室へと音を立てないように早歩き。備え付けの小さな冷蔵庫の中にあったミネラルウォーター、甘いソーダの炭酸飲料、受験勉強用の為に用意していたパウチゼリーを数個、それから小分けのお菓子と大袋のお菓子を適当な紙袋に入れた。


 紙袋を抱え、再び蔵に向かいながら、思いを巡らせる。


 蔵の扉を開けっ放しにして逃げてしまったらとも考えた。でもそれはそれでいいと思ったし、オレに止める権利はない。

 けれどどうせなら飲み物を渡した後に行って欲しい。何かしてあげたいというエゴが叶うなら、せめて飲み物の一つくらい手渡したい。


 どうせ居ないだろうと保険をかけつつ扉を開ける。

 蔵から漏れるボワッとしたオレンジ色の灯りの中に体育座りの影がある。


「居たんだ」


 嬉しかったのと、どうしてこの家から逃げなかったんだと、ぐしゃぐしゃした感情が胸に絡まる。口から出た言葉は後者であったが、気持ちのパーセンテージで言えば前者が圧倒的に上回っていた。


 妹はオレを見ると小さく頷いて、紙袋を見つめている。その目が喉が乾いているから早く飲みたいと訴えている。


 慌ててミネラルウォーターを手渡すと、震えた手でキャップを外そうとしたので、また受け取り開けてあげた。妹はペットボトルの口を覆うように加え、勢いよく喉を鳴らす。

 昼間に閉じ込められて以来何も口にしていなかったんだろう。水がほぼ空になったのを見てから、持って来たお菓子を見せると目を離さない。


「チョコだけど、食べる?」


 戸惑った様子で生唾を飲む。パッケージを破いて差し出すとゆっくりと指先だけで受け取り、前歯だけで齧る。


「美味しい」


 泣き顔という空に垣間見えた笑顔と、小声のありがとうに心がキュッと熱くなる。

 友人が守りたかった理由ってこういう事か。よくある「守りたい、この笑顔」ってこういう事。腑に落ちて顔が赤くなる。妹って凄い。ただチョコレートを食べただけなのに、この破壊力。

 泣き顔しか見ていなかったから尚可愛く見える。


 今なら怖さも和らいでいるだろうから、本当に「妹」かどうか、今更答え合わせをしていこうと思った。


「あのさ、えっと、名前は?」

「……要です」

「要ちゃんね……苗字は……」


 これでもし「生出」と言ったら、母親に貶められたあの人の子だ。そしてオレの母親から生まれた、父親が違う妹。


 彼女は言うかどうか迷っている様子だったが、手に持ったお菓子とオレを2度交互に見て、小声で呟いた。


「……生出」

「生出、要ちゃん?」

「うん」

「そっかぁ……」


 やはりそうだった。この子は正真正銘のオレの妹。ずっと会いたかった――そう言いたいのは山々だけど、たださえ普通でない状況で「オレは君のお兄ちゃん」と無神経に伝えたら、もっと混乱させる。


 正体を明かすのはまたの楽しみとして、今彼女に起こっている事を聞き出すことにした。


「要ちゃんはなんでここに閉じ込められてるの?」

「……父さんが……死んじゃったから」

「えっ、と」


 チョコレートを貪る口から出た台詞は、とてもとても重いものだった。1番辛いのは要なのに、全身が重力に圧されるように苦しくなった。

 たった一瞬この瞳に写しただけの人。でもきっと、うちの馬鹿な母親に陥れられて、苦労して、怯えて、不遇な道を歩まされたに違いない。


「それは、辛かったね」と、出てきそうな涙を堪えて続ける。しかし、彼女はすぐに「いや」と言って真っ直ぐな目をした。


「父さんが自分で決めた事だから、仕方ないの。愛は命懸けだから」


 まだ小学生の子が言うような台詞とは思えなかった。父親が自分で決めたというんだから、恐らく自殺したんだ。その理由が何だったとしても、彼女の中で父親が自殺してしまった事を納得している。


 なんとも妙な話だが、その目に曇りはないし、去勢を張っているようにも見えない。

 あまりにも大人びているというか、割り切り過ぎている彼女が、凄いとも怖いとも思った。

 

 オレは返し方がわからず、間を開けてしまう。すると要は近くにあった段ボールのガムテープを外し始めた。小さな埃がランタンの灯りでふよふよと漂っている中で、何をする気だろうか。


「あった」と小さく聞こえて直ぐに、オレに本を手渡して来た。表紙はボロボロ、紙は黄色く年季のある一冊。

 要がランタンを本に近づけてくれると、はっきりと文字が見えるようになった。


 「津軽」というタイトルに、その下にはかの有名な文豪・太宰治の名前。小学生の女の子が読むには渋過ぎやしないか?


「あっちの家から、これしか持って来れなかったの。私が好きなのは走れメロスだけどね、これは父さんがくれた本だから……」


 悲しい顔。ではなく、昔を懐かしむような寂しい微笑み。同い年の子達より、ずっとずっと大人びている。もしかしたら嘘をつくのが上手で、そして我慢強い子なのかもしれない。


「大事な物だね」


 そんな子の1番頼りにしている物――父親の形見をオレが触るわけには行かない。彼女に返すと、要は本を優しく胸で抱いた。


 泣いている理由や、ここにいる理由を深く掘るよりも、好きな物の話をして安心させてあげた方が良いかもしれない。

 

 1人で居たらどうにかなりそうな場所で暗い話をするよりいい。

 だから持って来たポテトチップスをパーティー開けし、ソーダのペットボトルを2本開けて、一本は要にあげる。

 さっきまで泣きそうだったてのに、なんだかワクワクして来た。


「文豪ね、オレも好きだよ」

「文豪って何?」

「凄い文を書いている人かな。要ちゃんとお父さんが好きな太宰治も文豪だよ」

「へぇ……父さん、そこまでは教えてくれなかったな」

「まだ難しいと思ったからじゃないかな。オレだってうまく説明出来ないよ」


 ふぅんとよくわかっていないような返事に、もっと勉強しときゃあよかったなと後悔する。言葉はわかっていても意味がうまく説明出来ないなんて恥ずかしい。

 それを誤魔化すように飲み物を飲んだ。


「じゃあ、誰が好きなの? その、お兄さんは……」

 

 お兄さんと呼ばれ、口に含んでいたソーダを垂れ流しそうになる。憧れのお兄さん呼び。欲を言うなら「お兄ちゃん」が良かった。


 けどダメだ。ここで「お兄ちゃんって呼んで」なんて言ったらロリコンみたいで気持ち悪がられるかもしれない。せっかく打ち解けて来たのに最悪だ。


 呼び方に迷っているようだったので「学っていうんだ。だから、学でいいよ」と言うと「学さん」と直ぐに同じ質問を投げかけられた。


「オレは星が好きなんだ。銀河鉄道の夜を読んでから、すっかり宮沢賢治が好きだよ。知ってる? 注文の多い料理店とか、学校でやらないかな」

「あ、5年生になったら習うって言われたよ」

「そっか。よかったら本を持って来ようか?」

「あ……」 


 間がある。これは要らないと言えないって事で、気を使わせて困らせたパターンかもしれない。


「あ、いや、読みたくなければ大丈夫! 学校で習うのに、先に知ったらつまんないよね。ごめんね」


 嫌われたくなくて、ついつい早口で無理強いしてしまった事を謝った。


 要を見ると、険しい顔をして両手をギュッと握っている。あぁ不味い。やっちゃった。何か他に、要が好きそうなものがあるはずだ。部屋に戻って探してこようと何も言わずに立ち上がると、右手が急に温かくなる。

 指を少し動かす。温もりの正体は柔らかい子供の掌に掴まれていたからだ。


 右下に顔を向けると、要が変わらず険しい顔で水中で息継ぎをするように言う。


「出来れば、ここから、出たいって言ったら、学さんも怒る?」


 蔵に閉じ込められいたら、誰しもが思う事。こんな所にずっと居たいなんて思うわけがない。勿論出してあげたい。

 けれどあの母親が閉じ込めていて、万が一バレて要に何かあったらと考えれば、安易にいいよと返すことは出来なかった。

 

 要の今の心の健康を守るべきか。

 それとも先まで見て、それを断るか。


 オレは悩んだ。悩んだけど、やっぱり「いいよ」なんて言えない。馬鹿なオレ。オレが大人だったら、こんな所直ぐに出してやって、一緒に家を出てってやるのに。


「怒らないよ、でも――必ず夜に来るから。出るのはもう少し待っててくれるか?」


 責任が取れなくて、安全を選ぶ。今のオレに出来る最善はこれしかない。

 無力でごめん。そういうのも違うけど、必ずこの檻から出してあげるから。


 要は「そうだよね」としか言わなかった。でもやっぱり、大人な子だから泣き喚いたりはしない。


 オレはこの時決心した。高校生になったらアルバイトをして金を貯め、要と一緒にこの家を出ようと決めた。

 

 その晩は世が明けるまでなんでもないような話をした。要は閉じ込められた事を前向きに捉え、秘密基地みたいだねと笑う。

 

 それから数日間――昼間は勉強、夜は蔵へと忍び込み、要との時間を楽しんだ。小遣いから費用を出して食べ物を買い込み、夜にこそこそ会いに行く。まるでお泊まり会のような感覚が嬉しい。


 誰も言えない妹との逢瀬。ある晩の事。いつも通り、家族が寝た頃に蔵へと向かった。要はスルメが好きだと言うから、コンビニで買って持って行く。


 その日は蔵から灯りが漏れていた。要ったら、用心するように言ったのに少し気が緩んでるな。そういう所は小学生らしくて可愛いと思うけど、あの母親に見つかったら大変だ。

 兄ということは明かしていないが、ここは兄として少しキツめに言わなくては。


 蔵の扉を開ける。すると要にしては大きい影がある。よぉく見てみると、要ともう1人居る。


「なぁんだ。学かぁ。お前もさぁ、気付いてたんだぁ」


 洗っていないようなボサボサ髪と不気味な薄ら笑いとすきっ歯。目の下に青いクマを作るその人は、三男である「ごう」が要の手を恋人繋ぎのように握っている。


 要は複雑な顔をしていたが、オレと同じような人だと思ってるんだろう。


 大変嫌な予感がした。母親の次に会わせてはいけないのが三男だと思っていたから、心臓が酷く煩くなった。


 その薄ら笑う不気味な表情を深く深く読み取るべきだった――と、この日の事を永遠に後悔するのである。

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