155恥目 止まる人と進む人

 

 「僕」は何がなんだかわからなかった。娘の過去の事が知れた筈なのに、満足は出来なかった。


 頭が真っ白になって、同時にクラクラ視界が回って、体が熱くなり、そのまま家具に思い切り頭をぶつけて倒れてしまった。そのおかげで足まで捻挫してしまってさ、散々だよ。


 それで「僕」は倒れてからずっと眠っている。けれど、体内に意識はある。夢の中にいるような感覚と似ている。起きているけど眠ってるんだ。「自分」としか話せない。誰にだってあるんじゃないかな、この不思議な感覚。「僕」が他の人と違うところは、その意識が2つあること。もう1人、「私」がいる。


 ずっとこうでいたいなぁ――と思う。1人であるけど独りでないし、目覚めたら知りたかったのに知りたくなかった事をまた知るのならこのままでいい。死にもしないし、生きもしない。「私」がいるなら独りでない。


 「僕」はね、要の言葉を信じたかったんだよ。疑っていてもね、幸せだったと確かに言った事を信じたかったんだよ。親なんだから当たり前だろ。子供には笑ってて欲しいよ。


 でも、過去を擦り合わせたら幸せになる筈がないってわかってしまったんだよね。「僕ら」が死んで、名前も付けることすら拒んだユリさんが引き取ってくれるかなって。あの人は女が嫌いだから、尚更ないと思った。


 そうなると苦しい人生を歩んで来たに違いない。「僕ら」が死んだことで、要は苦しんだんだ。そうさせたのは誰か。誰だってすぐに「僕」だって言うさ。幼い子供を残して死んで、なんて無責任な親だって言うさ。平成も昭和もきっと、誰だってそう言うさ。


 あんなに知り違っていた娘の過去はどうでも良くなった。知れば知るほど「責任」が重くなる。要をに苦しませて、と太宰さん達に嫌われて、相手にされなくなる。


 せっかく手に入った居場所なのに。失いたくない。失うとしたら自分のせいなのに、また要のせいで……と、どす黒い感情が溢れそうで、自分が怖い。「僕」は弱いからきっとそう思う。それは嫌だ、怖い、怖い、怖い――


 一般的な親ならね、子供を優先して子供だけでも助けようとするんだろうね。でも「僕」は精神は子供のまま、体だけ一丁前に大人になって、子供のまま親になった。意味もわからず20歳になると、ただ過ごした年月だけで大人になったと突き放された。

 

 こんな「僕」だよ。「私」がいなかったら赤ん坊の時点で要の首に手をかけていたさ。虐待っていうのは多分、擁護するわけではないけれど、余裕がなくなって自分が保てなくなる人がするんだろうね。


 自分以外を守れなくて、自分を守れる力しか残っていない人がするんだよ。だから子供や身内が悪魔に見える。正当防衛だと言いたくなる。けれど罪悪感と法、世間はそれで許してくれない。


 平成の「僕」は本当に死にたかったのか。違うよ。「僕」はね、死んだフリをすれば構ってもらえると思ったんだよ。誰か助けてくれるって思ったんだ。ユリさんが来てくれるんじゃないかって。本当に死ぬなんてね、思ってなかったんだ。自殺未遂に失敗した。


 最期の日、「僕」は死ぬ程辛くて「本気で死んでしまうか」か「自殺未遂をして合法的に要を手放す」かという極端な気持ちでいたんだ。


 だから今更になって気がついたことがある。あの時「私」は前者を選んだ。てっきり「私」は「僕」を守ってくれる存在だとばかり思っていたけど、どうやら違った。「僕」を守る為に死を選んだとばかり思っていた。


 過去をなかなか話さない要を突き放したのも、あの日死ぬことを選んだのも、「私」が要を守るために選んだことだったんだ。

 こうやって殺したいだの逃げたいだの言っていたのは「僕」なのか。それを「私」は「私」が想って実行していると思わせてくれたんだ。


 都合のいい奴だな。それがわかるとますます目覚めたく無くなった。起きたらきっと責められて、罪悪感に押し潰されそうになって辛いだけ。


 寝過ぎて体が痛くなっても起きないよ。もう目は覚まさないよ。死ぬとは違うんだ。もう外の責任なんて嫌だ。逃げたい。逃げれるまで逃げてやる。


 人の過去なんて知ろうとするもんじゃない。自分も傷つく覚悟がないのなら。



 ようやっと東京に着いた。大雪で列車が立ち往生1週間は止まっていたと思う。久々に降り立った上野駅は相変わらず人だらけだ。ここで視界に入れた人間だって、もう一生見ることはないだろうし、記憶にも残らないくらい人がいる。


 やっぱり人ごみは苦手だ。この中から大将を探さなければならないと思うと気が遠くなる。焦ってはいる。けれど、持病の喘息が出ないように慎重にいかないといけねぇってのが面倒だ。


 一番早いのは白金代の富名腰を訪ねることだが、要に会うリスクを考えるとそれは避けたい。というか絶対に行かない。富名腰に会って事情を話せば何とかなる。

 とにかく先ずは愛子のところに行こう。持病に暴走されたらたまったもんじゃない。愛子なら頼れるし、事情もわかってくれるだろう。


 人で溢れる上野駅を出て、数ヶ月前の記憶を頼りに浅草行きのバスに乗る。長旅で疲れ切った体がバスに揺られ、一眠りしようかと思えば降りるはずのバス停に着いていた。慌ててバスを降り、はあと一息深く吐く。

 

 愛子の家は自宅兼店舗だ。なんの商売をやっているかというと簡単にいうと飲み屋。もっと詳しくいうと、平成でいうと言い方は悪いが俗に言うオカマバーだ。雇われている「オンナ」は皆男。その店の店主が愛子って訳。異性が苦手なオレからすればありがたい。


 まあ、その店に入っていかなきゃいけないってのを除けばな。


 大正ロマンを思わせる菱形の色ガラスが付いた木製の扉を開けると、オレンジ色の着物を着て夜の営業に向けてせっせと準備をする愛子がいる。変わりなさそうだが、少しだけほっそりした気がする。忙しそうなところ見ると店が繁盛してるってことか。


「愛子」


 声を掛けるか迷ったが、いずれはそうするのだから名前を呼んだ。


「……学!?」


 ドラマで見るようにゆっくりと振り向いた。オレだと確認すると、持っていたグラスを床に大人し、まるで薄い氷が何枚も割れたような音を立ててガラスが細かく散らばった。


 愛子は再会を喜んでくれると思った。自惚れてると言ったらそうなんすけど、だって愛子はオレを気にいってるし、快く居場所を提供してくれるに違いないと疑わないでいた。


 けれど愛子は顔を顰めて泣きそうな表情しては、口元を右手で隠してこう云う。


「遅いわよ……もう、何もかもめちゃくちゃなんだわ……」

「何が、すか……?」

 

 遅いと言われて一気に胸が騒ついた。オレが東京に来るのが遅かったというのはそういうことでしかない。


「あなたは見たくないと言うかもだけど、外の窓から居間を見てみて」


 愛子はそれ以上詳しい事何も言わなかった。自分の目で見てという強いメッセージを感じる。それなら有無を言わさず見に行くしかない。責任を感じたから、逃げたらいけないと腹を括った。

 指一本分の隙間が開けられた窓から、言われた通り居間を除いて見る。


 視界に入った景色で、呼吸も瞬きも忘れた。感情も声も失いそうになった。オレは悪い夢を見ているんすよ、夢なら覚めてくれりゃあいいのに。


 窓の向こうには要と思われる人間が虚な目をして天井を見つめ、口元は緩み、そこからだらりと唾液を溢している。

 ガタガタと震えが起きた。あの時と同じだ。兄弟に好き勝手された後の姿と重なったんだ。助けてやれなかったという後悔が、涙となって溢れてくる。


 要に気づかれないように咽び泣き、外壁に体を擦り付けながら崩れ落ちた。大将が要に余計なことをいうかも知れないなんて何度も考えたはずなのに、その現実を受け止められないでいた。何処で大将にそんな勇気はないだろう、あの人はオレが大事に想っている妹に残酷なことはしないだろう、そう信じていたからさ。


 一縷の希望に縋っていたんだと思い知らされた。地獄みたいな日々が別な顔で迫って来るんだ。息がおかしくなる。吸うも吐くも乱れて、気管が盗られて自由が効かない。愛子が背中を摩りながら「聞いて」と優しく宥めた。


「事情は富名腰が帰ってからの方が良いのだわ。夜に要は他の場所へ帰るから、その後にまた来て。全部話すんだわ」


 そうか、富名腰はちゃんといてくれたのか。完全に希望が無くなった訳じゃない。オレは学習しないから、再び希望に縋った。今は愛子の言葉を信じるしかない。呼吸が落ち着いてきたら、言われた通り夜まで別な場所で過ごすことにした。


 どこに行きたいかと聞かれても、考える気力はないから返事もしない。夜まで外に居れるようにと愛子が手配してくれたのは、浅草らしい人力車。


「宇吉、前に言っていた人だわよ。よろしくね」


 人が1人乗れるサイズの人力車と車夫らしい腹掛けと法被、それから黒の股引。菅笠の下から見えた顔は黒髪の長髪で少しつり目の男性だ。この人に一日中乗せられてろってか、と愛子を見ると、男は顔に似合わず大きな声で目立ちたそうに笑い始めた。


「これは初めまして。学殿、宇吉は紫安宇吉しあんうきちでござる。宇吉めは良い男でござるが、愛子殿と要殿とはただのお友達故、ご心配なさらず!」


 こんなに気持ちは落ち込んでいて、そうでなくても鬱陶しくて仕方がないような人なのにカラカラしていて裏表が無さそうで、自分を持っていそうだと感じた。

 愛子は「宇吉も学と少し似ているところがあると思うんだわ」というから、オレは拒まず頼ることにした。


 

 

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