143恥目 青春とも言えないその日に
というわけで、アタシは安吾さんを絶対に味方に付けなければならないんだわ。
例え、この店が潰れようとも・・・・・・とまでは言えないけど、学達の為にも必ず味方にして逃げ道を作ってあげる。
二言がないと言った以上、アタシの策が上手くいったと見て良いはずなんだわ。
手の関節を鳴らすと、安吾さんはキョトンとして酒を呑みながらアタシの顔を上目で見た。
「ああ、ねえさ」
「じゃあ、アタシが何かどうしても頼み事をしたくなった時、必ず聞いて頂戴ね」
「ハイハイ、キクキク」
面倒だから相槌を打っているんでしょう。そうそう、それでいいんだわ。もう十分言質は取った。けれど、念には念を。もうすっかり酒に呑まれた安吾さんに、契約書と書かれた一枚の紙とペン、それから朱肉を差し出した。
案の定、彼はいい気分を邪魔されたと当然不快感を思い切り顔に出して来た。歯ぎしりのギシギシという音に背筋が寒くなった。この音、苦手なんだわよね。
「それに名前と拇印を押してくださる? 飲み放題の契約だわ。安吾さんだけお金を払わずに呑んでいたら、他のお客さんに示しがつかないでしょう? 安吾さんだって気持ちよぉくお酒が飲みたいはずなんだわ」
「んなもん書かなくたって口で言えばいいだろ」
「ダメよ。口約束だと言った言わないで喧嘩になるもの。アタシも忘れちゃいそうだし、ね? お願い。あ、安吾さん本名も書いてね」
「だぁもう、わかったよ!・・・・・・おら!」
雑な文字だけどしっかりと名前と拇印を貰った。「坂口安吾」と、彼の本名である「坂口 炳五」の2つ。その上に書いてある文章なんか読みもしないから、何の契約書かも知らないでサインする。
せっかくよく見えそうなメガネを掛けているのに、面倒臭さ勝り、人を信用し過ぎてしまったら見えるものも見えなくなってしまうわよねぇ。
そのほうが好都合だからよかったけど、少し罪悪感があるのはアタシが善人だからかしら。
「それじゃあ、契約成立ってコトで」
その罪悪感も彼に酒やご飯を提供したら徐々に消えてく。それに今まで散々暴れたり、ツケを支払ってくれなかったりされたんだもの、この位されていいんだわ。
これでいつもみたいにしらばっくれられても大丈夫。
いつ逃げても平気だということを、富名腰へ手紙を書いて送ってあげなくちゃ。
*
人は誰しも、忘れてしまう事がある。
それが自分にとっては些細な事であっても、他の誰かには忘れられない何かである事もある。
忘れるくらいの事だから、大した事はないという根拠のない言い訳で済ます事もあるだろう。
それがもし、その忘れモノで誰かを死に導いてしまっていたとしたらーー。
人は、その意識のない罪にどんな言い訳をするのだろう。
*
朝早くに修治さんが東京に帰って来た。彼は寝ていたが、起きたら要の説教が始まるんじゃろうと思い、仕事に出掛ける中也さんと文人と共に家を出て来た。
今回は随分東京に滞在してしまったから、家に埃が溜まっているのだと考えると気が気でない。
しかし、1つやり残した事があったあったので、それを済ませてから帰ろうと決めちょった。
「え!? 薫となっちゅうさんが不倫?」
「薫さん、中也さんと不倫してるんですか!?」
「そうじゃ! しとるんじゃろ、不倫!」
この数日、なかなか捕まらなかった薫を飴屋でようやっと捕まえた。
中也さんが恐らく後2年で死んでしまうとなると、不倫なんてしとったら時間の無駄だと思うので、直接不倫相手に別れるよう話をしに来たっちゅう訳じゃ。
しかし、なんじゃ。薫はポカンと口を開けながら、顔をの上半分は心底嫌そうに眉間に皺を深く掘っている。
「しとるん、じゃろ?」
旦那である吉次の前でもう一度同じ事を聞くなんて酷じゃが、これはコイツにも重要な問題じゃ。呑気にお茶汲みなんかしとる場合じゃないっちゅうに、吉次は余裕そうに微笑んどる。
旦那の小さな笑声に反応すると、薫は更に憎しみを込めたような表情をして俺の胸ぐらを掴んで来た。
「するわけないじゃん! なんでなっちゅうさんなの!? 薫にも不倫相手を選ぶ権利くらいあると思うんですけど!」
「違うんか!?」
「なっちゅうさんと失格さんと文人くんはマジ論外! 薫は絶対に不倫相手になんかしないもん! ていうか、薫は好きになったら好きな人の事を刺すもん!」
「あ、そうか」
確かに要にお熱だった時も刺した。本人の言う通り、不倫相手と言えど好きになっても大人しく隠し通すなんて事は出来ないか。
疑って悪かったと謝ると、薫は本当に心外だと頬を膨らまして機嫌を損ねてしまった。
このまま帰るのは気持ちが悪いので、何とか訳を話して仲直りしようと試みる。
するとすぐ近くでボソボソと泣き声を含んだ小言が聞こえてくる。
ふと吉次を見ればお盆で口元を隠しながら、棒のように立っていた。
「ぼ、僕、さ、刺されてない・・・・・・」
「なんじゃって?」
「僕は薫さんと結婚したのに刺されてないんです! それって好きじゃないって事ですか!?」
「何言っとんじゃおまっ・・・・・・」
馬鹿げた事を言いんさんなと言い掛けた時、薫に後ろから口を塞がれた。横目で薫を見ると「ヤバ」と瞬きを何度もして、わざとらしく笑みを見せる。
「そういえば吉次くん刺してなかったぁ」
「ショック受け取るぞ。何とかしてやれ」
「よ、吉次くん! 薫は刺さなくても吉次くんが一番好きなんだよ! 純愛! 真心なの! 薫は吉次くんしか見えてないもん」
「・・・・・・一番」
薫の言葉で落ち着いてくれりゃあいいが、何せ散々遊んでる奴が吐きそうな台詞を惜しげもなく言いまくるので、逆に信用出来ん。
俺が捻くれちょるのか? 吉次は素直じゃけぇ、きっと薫の言葉をそのまま受け取るか。いけんのう、恋愛経験ゼロの弱みがこんな所でも影響するとは。
脳内一人反省会を開催しとったら、薫が悲鳴を上げた。
「吉次くん何してるの!?」
「一番なら、誰よりも刺してください。僕だけ刺されていないなんて、そんなの、そんなの耐えられません!」
薫の向かいに、要を刺したお馴染みの包丁を握った吉次が悲劇のヒロインのような面持ちで涙を流して震えている。
自分だけが愛されていないなんてとは言うが、お前ら結婚しちょるじゃろうに。
刺さんでも好き同士だって理解できんかのう。
こんな痴話喧嘩に付き合ってられん。
「アホ」
「いたっ」
吉次の首の後ろを手刀で軽く打撃した。アニメやドラマのように気絶はしなかったが、軽くでも痛かったようで包丁を丁寧に台の上に置いてから患部を摩っていた。
ようやく正気に戻ったようで、薫に何度も頭を下げた吉次はまたベソを掻き始めた。と思ったら薫まで泣き始めてしまい、もう訳がわからん。
「薫も悪いんだよう。吉次くんの優しさに甘えてたんだよねえぇ」
「僕が変なヤキモチ妬いたからですよう」
「違うのぉ! 薫ね、薫が刺さなくても毎晩吉次くんが挿してくれるから、それで満足しちゃって・・・・・・」
「はっ・・・・・・!」
はっ! じゃねえわ! 人目も憚らずイチャイチャし始めやがって。店も開けっ放し、奥には爺さんもいるし、俺もいるのが見えとらんのか!?
「今日だって寝かせてくれないんでしょ? 初めは薫がガツガツしてたのに、吉次くんたら最近凄くて・・・・・・」
「だ、だってそれは薫さんが、いつも可愛いから・・・・・・」
「可愛いだなんて、そんな」
イチャイチャ、イチャイチャ。ウッゼエェ! お前ら夫婦の営みの云々なんて聞きとうないわ!
これ以上好き勝手やらせて“事“に持ち込まれても困るので、咳払いをしてこちらに興味を寄せる。
「話、終わってないんじゃが!?」
2人の世界から帰還した途端、急に照れ臭そうにして、吉次は配達へ、薫は店番をしながら俺の話の続きを聞いてくれた。
中也さんが残り2年で死んでしまうかもしれないということは伏せた。どうやら中也さんには女がいるらしい、その相手が誰か突き止めてさっさと結婚させたいと話した。
初代さんでも薫でもないとなると、ますますわからん。
「別に誰でも良くない? ていうか、女の人とは限らないんじゃないかなあ。家庭教師の仕事して真っ直ぐ家に帰ってきて、後はフランス語だっけ? それの翻訳してるんだよ? どこにそんな時間あるの」
「まさか相手が男じゃっていうのか!?」
「・・・・・・待って、大人の女の人じゃないのかもしれない!? モテなさすぎて生徒に手を出しちゃったかも!?」
「んなわけないじゃろ! 真面目に考えろ!」
流石にそれはない。いつだったかこっそり生徒名簿みたいなものを見たことがある。なんだか知らんが中也さんは女子生徒は受け持っていない。
もしあるとすれば・・・・・・。
「生徒の、お母さん・・・・・・!?」
薫と意見が一致した。平成でそういうアダルトビデオを見たことがある。子供も要らんっちゅうのは、もう生徒を自分の子供として見ているからで、結婚云々も相手の世間体を守ってのことだっていうのか? だとしたら悲恋すぎる。たまたま好きになった相手が既婚者だなんて。
中也さん、アンタ可哀想じゃ。ますます普通に幸せになってもらいたいのう。
「でもなぁ。なっちゅうさん、要くんに付き纏ってるし、やっぱり男の子が好きなんじゃない? なんなら要くんのことが好きだったりして」
「馬鹿言え、それこそないじゃろ。生徒の保護者説が濃厚じゃな」
「あ、そういえばなんだけど。檀さんが要くんのこと女の子って言ってたことがあってさ。なっちゅうさんも女の子だと勘違いしてたりしてね」
「要が女ぁ? どう見たって男じゃろ、疑う方がどうかしとるわ」
薫がおかしなことを言い始めたので、もう帰ることにする。結局、薫も何も知らんのか。
帰り際、次はいつ東京に来るのかと尋ねられたが、まあ近いうちと返しておいた。
次来る時は和服にブーツはダサいから下駄を履いておいでなんて、余計なお世話じゃ。
中也さんには時間がない。早う子孫作って貰わんと彼やお袋さんが後悔する。
親友としてやれる事はやってやらんと、俺も後悔するしのう。
しかし、薫はなんだって要を女だと思ったなんて言うんじゃ。
檀さんはぶっ飛んでいるイメージがあるから、酔った勢いで口から出まかせを言ったかもしれんじゃろうに。
ましてや中也さんが好きじゃなんて、本当に見る目がないのう。
そう言えば、要は宮城県の出身だったか。俺は消防士になる為に専門学校へ通っとったが、それが宮城県の学校だった。
東日本大震災を通して学べる事があると父親が勧めてくれた。おかげでいろいろ役に立っとるが、自殺未遂をしちゃあ意味がない。
学校でも友達はおらんかったっけ。あぁ、そういえば、気まぐれで行った宮城県で開催された太宰治展に変な女が居たなぁ。
展示パネルを見て泣いていて、中也さんとのエピソードを見ていれば「私が味方になるのに」なんて独り言をボソボソと。
あんまり気味が悪くて話しかけたら、喧嘩になったっけ。
見ず知らずの初対面の声の低い女に喧嘩を売るなんて、俺も余裕がなかったんじゃなぁ。
俺は中也さん推しじゃったし、女は太宰推しで、会場が閉まるまでああでもないこうでもないと喧嘩しながら語りあった。喧嘩していたのに、楽しかった。考えてみれば俺の話を聞いてくれた女はあいつくらいじゃったな。
学生時代の思い出なんかそれくらいじゃ。青春にもならん。
名前はなんて言ったかのう。茶髪で茶色い目をして、声が低くて・・・・・・コーヒー奢れなんて、図々しかった。
・・・・・・。・・・・・・。
・・・・・・。・・・・・・。・・・・・・。・・・・・・まさか、な。
「私は生出要。要っていうのは、由来はメロスの話からきてるんだよ」
筋金入りの太宰好きなんだ。そう言った過去に1日だけ会った女は、俺の親友だったっていうのか?
パネルの前で泣いていたあの女って、まさか、いや、そんな事はないと思いたいのに、同姓同名で済ませられる訳ない。
「でも中原中也の顔は好き。あんまり直視出来ないもん」
中也さんが要に惚れる理由はわからずとも、もしあの女が要なら、中也さんを好きになるのはわかる。
俺、過去に要と会っていたんか?
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