141恥目 雪崩


 雪崩ーー降り積もった雪が山の斜面を急激に崩れ落ちる事。


 雪崩ーー押し崩れること。崩れ落ちる事。

 

 雪崩ーー小さな斑点のような黒い記憶が大きな黒になり、人を飲み込んで殺す事。


 雪崩ーー全てが崩壊する事。



 幸福の足音が聞こえると胸が潰れそうになる。だってそれは、私には関係の無い音だから、期待するだけ死にたくなる。


 どうして気づいてしまったの。

 どうして思い出してしまったの。


 それから私は毎日死ぬ事だけを考えて笑うようになった。


 これから希望に向かって歩こうとする、貴方を羨みながら。


 信頼も、希望も、団欒も、絆も、全部全部、無かったかのように雪崩て行くのを見て行くに違いないのだから。




 拝啓、富名腰志蓮様。

 その後、要はどんな様子でしょうか。周囲の人間の一言で記憶が思い出されると知り、またあの子が苦しむのでは無いかと不安でなりません。

 

 しかし昭和には大好きな太宰さんが居るんですから、頭のどこかで大丈夫かとも思っています。    

 あれだけあの人の本を握りしめて片時も離さなかったんです、生身の太宰さんが救ってくれると祈ります。

 

 さて、母親の話が知りたいとの事でした。周囲からは信頼され、模範人間として扱われていましたが、それは表の顔。オレ達の母親はとんでもない悪女です。

 人の人生を食い散らかして骨の髄まで吸い付くし綺麗に平らげているのに、憧れの存在として君臨し続けるのです。


 正直いいますと、思い出すだけで体に湿疹が出来たように寒気がして、とんでもなく気持ちが悪くなります。ですから言葉足らずだったり。文章が乱れていることはどうかお許しください。

 

 ーー富名腰からの手紙を受け取ってから幾日。やっとここまで書けた。一文綴り終えることに深呼吸を欠かさずやらないと、過去に飲み込まれそうになっちまうんで。

 

 強く握りしめたペンはキシキシと音を立てる。それがまるで過去の自分からの悲鳴に聞こえるんだから重症だ。


 妹を救ってくれる恩人をもう何日も待たせているんだから、今日こそ書き切らなければ。これじゃあ締切に追われる作家のようだ。詰まってしまって文字が浮かばない。


 それでも書かねばと便箋を新しいのに変えて気持ちがリセットされたと自分を騙す。


 ーー母親から初めて要の存在を聞かされたのは、まだ要が腹にいる時でした。幼かったので確かな記憶ではありませんが、毎晩父親とお経のような言葉を吐きながら自らの腹を殴っていた気がします。腹が大きくなるにつれて、外出が増え、いつの間にかいなくなったと思ったら、ぺたんこになった腹になって帰ってきたのです。


 何も考えずに「腹は」と聞くと、鼻息を荒上げた鬼の形相の父親に「二度と聞くな」と一発打たれたのを覚えています。


 それからは言いつけ通り聞くことはありませんでした。いつの間にかそのことも忘れ、中学3年生のある日、家族会議が行われましたーー。



 ーーあぁ、無理だ。

 苦しい。体のあちこちが痛む。それで机に向かってられなくて、そのまま後ろに倒れ込んだ。


 大人になってから思い出すと意味がわかるって嫌なもんだ。わからないままでよかったのに、急に理解して頭を抱えるんだから。気を紛らわすために、体をゴロンゴロンと何度も寝返りを打つ。

 

 あの時、腹を殴っていたのは要を堕ろす為だ。物理的な痛みより、精神的な痛みと世間様から向けられる視線の方が痛かったってことだろうな。まああの人ならそうか。不思議じゃない。これまで何人もの人間を人望で殺してきたんだから。


 母親の血が流れてると思うと気持ち悪くて、無性に体のどこかをを切りたくなる。今だってほら、気がついたらペン先で指先に穴を開けている。点になった赤がじんわりと滲み出ているのを見つめた。

 最近は意識して切ってはいないが、一時期はうんと酷かった。おかげで服で隠れるような場所は傷だらけ。たまに痛々しくて目を背けたくなるが自業自得。

 だって安心するんだ。傷口から血が流れるとホッとするのは、あの人の要素が体から出ていくのが目に見えるから。


 自己満足なんだからいいじゃないか。誰に迷惑かけるでもないし、それで冷静でいられるなら。


 気が紛れたらまた書く。体に勢いをつけて起き上がった。少しずつでいいから、富名腰に要を救う為のヒントを渡す為だ。


 再度机に向かうと、手元に影が落ちた。


「なんだ、また書いてんのが?」


 声と共に肩に重くのしかかる体重が苦しい。こんなことをするのは大将くらいだ。


「あーもう、家に入る時は声掛けてくださいって言ってるでしょうに」

「言ったべ! 返事しねぇの学だ!」

「ダーっ! 大将! 耳元でうるさいっすよ! ただでさえ声がデカくてやかましいんですからね」


 大将こと「菅野直」はオレの対象者である。平成で自殺を決めた時に、せめて夢の近くで死にたいと思って選んだのが宮城県角田市だった。それでまあ、大将に関係のある土地だったらしくて、花を持たされ今に至るってな感じだ。申し訳ないが大将自体に思い入れはない。


「だぁれがやかましいだ! お前のこと助けてやったのは誰だったが忘しぇだのが!」

「イダダダダダダダダ! 大将! 暴力反対! すんません! 大将には感謝しかない・・・・・・いやべつに感謝してな」

「あん!?」

「感謝してます!」


 けどそれをいうと怒って手がつけられない。思春期真っ盛りな大将の力は底を知らない。その証拠に、怒りの導線に触れるとすぐに耳を引っ張って来るんすもん。野獣に襲われるようでおっかなくて。


 確かに大将には助けられた。平成から昭和に来たときに、ぶっ倒れていたオレを見つけて世話をしてくれたのは大将だ。まるで捨て犬を保護したみたいに毎日オレのところに来ては様子を見に来てくれた。あのまま飢え死んでもよかったが、その時の大将は今ほど気性も荒く無かったから、優しさを無碍にするのが申し訳なくてのうのう生きてしまっているってだけ。


 そのおかげで今生かされている意味を理解しつつある。となれば感謝はしておくべきか。


「オメはワシの!?」

「手下です!」

「ワシはオメの!?」

「大将です!」


 ーー頬を抓られながら、こんなこと言わされて感謝したいと思います?


大将は気の済むまで説教に似せた文句を耳元でサイレンのように続けた。

 恩着せがましいなんて言えば、さらに長く大きくなるだけなんで此処は黙ってウンウン言っとけばいい。


 大将の機嫌を完璧に治すには、本を買ってやるか、阿武隈川の辺りに釣りをしに連れて行けば良い。オレは後者を選んで釣竿を2つ持ち、何周目かわからない小声を聞かされながら釣りへと連れ出した。


 春の気配を感じさせる阿武隈川にはちらほら魚の影が見える。これで大きな魚でも釣れれば大将のご機嫌も直るでしょう。

 しかし自然の事なのでそう上手くいくわけもなく。2人並んで座り、昼下がりの日光の暖かさに微睡みながら、魚が掛かるのを待つ。


「オメェはいっつも何書いてんだ?」


 大将は退屈そうに釣り糸を眺めつつ聞いて来た。


「何って・・・・・・手紙っすけど」


 見てたらわかるでしょうに。地元じゃガキ大将の癖に成績がいいと噂がわからない訳ない。

 呆れを含ませて返事を返すと片耳を軽く引っ張られた。


「んな事わがってんだ! 誰にどんな内容を書いてんだって話だべ! ワシにコソコソ隠れて・・・・・・」

「そんないちいち言わなくてもいいでしょう。オレだって友達くらい居ますよ」

「ほーう」


 大将は細目でオレを見ながら「友達ねぇ」と馬鹿にしたような口調で言うのだ。


「あの、愛子って女か? へっ、1人で東京さ行ったと思ったっけ女作って帰ぇって来やがって。女は苦手ダァ言ってた奴だとは思えねぇな」

「あのねえ大将。何度も言ってますが恋人とかそんなんじゃないんすよ。実言うと友達とも違うんすけど、なんて言うかなー、運命共同体? 的な」

「運命共同体・・・・・・? ・・・・・・ま、まさかオメ・・・・・・」

「なんとなくですけど、大将勘違いしてますよ。あ」


 顎が外れたのか、口を開けて愕然としている大将を狙ったように、彼の釣り糸が川に引っ張られている。釣竿を握っているのは大将だから、オレは「釣れてますよ」の言葉だけかけた。それでも糸を巻いとる様子はない。

 釣りといってもボロの釣竿の糸先にミミズをつけて垂らしただけなので、何もしなければ当然、魚は餌だけ食って帰って行く。

 大将が掛かっていた事に気づいたのは魚に逃げられた直後で、釣れなかったことに腹を立てると、立ち上がって竿を地面に叩きつけた。


「学のせいで逃げられたべや!」

「へいへい、すいやせんね」

「オメが・・・・・・オメが・・・・・・東京で嫁さん作ってるなんて夢にも思わねえべ!?」

「勘違いにも程がありますよ! 運命共同体はそういう意味じゃありませんて!」


 勘違いしているとはわかっていたが、まさか嫁をとったと思っているとは。いちいち大袈裟に捉える人だとはいえ、愛子を嫁にもらうなんざまっぴら御免だ。女でないからとか、そう言うんでなく「家族」が嫌いなのだ。嫁をもらったりなんかすれば、必然的に家族ができてしまうので、それでは益々息がしづらくなり窒息してしまうと思う。


 病は気から、とはよくいったもんだ。余計なことを考えるとすぐに咳が出る。咳き込んでいると、空からポツポツと雨粒が降り注いできた。


「ほら、大将が変なこと言うから雨が降ってきましたよ」

「なぁにこんな小雨! 気にすっことねえ」


 ぷいと背を向けた大将は頬を膨らましていた。魚を逃したのだから、せめて釣れるまではいるつもりなのだろう。変なところで負けず嫌いなんすよねぇ。

 帰ろうといっても、頑なに帰ろうとしない大将の頑固さが雨を酷くさせていやしませんか。肩に落ちる度ボツボツ音を立ててるんだから春の嵐ですぜ。

 ほおら、いつの間にか風も大きくなって辺りの意を持っていっちまいそうだ。こりゃあ荒れるに違いない。


 頑固な大将は帰ろうと言われれば言われるほど体に根を張る。


「この川は毎年氾濫起こして死人が出ててるんです。オレは帰りますよ。大将みたいに心臓が何個もあるんだったら、泥水に飲まれても死にやしませんがね、オレは1個しかないんで飲まれたら死んじまうんですよ。いやあ、オレも心臓がたくさんあればな」

「ワシだって1個だ!」


 茶化されたことに腹を立てた大将は食い気味で本気の回答をしてきた。


「なら帰りましょ。死にたくないっしょ」

「・・・・・・別に、氾濫しても泳いで帰れる」


 何を迷う必要があるんだか。中学生という難しいお年頃の大将ちゃんには素直に聞くという選択肢が内容でして。裕福な家庭に育ち、ガキ大将で友達も多く、優しいやつだと評判で。成績優秀で何をやるにも努力を惜しまない。周囲の期待を裏切らず、むしろ上回ってくる少年は何が不満でオレにだけ反抗してくるんだ。

 

 危ねえって言ってんのに、全く。まさか担ぐわけにもいかないので、ここは手下らしく振る舞いますかぁ。


「髪の毛伸びましたね。それじゃあ目くさいと思うんで切らせてくださいよ。大将がそう思わなくても、オレがそう思うんで」


 すると大将は濡れた髪の毛をいじり出し、確かに長くなった髪の毛をかき上げた。振り返ると、しょうがねえなぁと言いながらも嬉しそうに口角を上げて鼻の下をかいた。


「ツーカットだかってやつで切ってけろ!」


 重い腰を上げた大将はまるでオレのことなんか気にせず、釣り竿も置いたままで体を軽く早く家へと走っていった。オレは置いてけぼり。慣れたもんすけど。

 釣竿を拾い上げて駆けていく。咳が出ないような速度で、呼吸器を労りながら。


「タイショー、ツーカットじゃなくて、ツーブロックっすよ」

「んなこたぁどっちだっていい! んだ、オメん家にある本見せてけろ。だすけ、今日は泊まる、泊まるからな! 学の咳がよくねえって母ちゃんには言ってきたんだ!」


 ああ、そういうこと。いくら正直者でオレにだけは容赦ない大将でも、他人のウチ泊まりたいとは言いにくいのか。オレが手紙の内容を見られたくないがためにすぐに追い出すようになったから、もしかすると寂しいのかもしれない。雨が降ってきて帰ると言ったから、もう話せないと思ったとか?


 そういえば、小学生の頃はよく甘えてきていたっけ。眠れないと言って隣の家に住むオレのウチに入り込んで本を読ませていたなぁ、と懐かしいあの日を思い出した。


 その度に要ともそんな日々があったかもしれないーーなんて考えて、オレが選択を間違えたから生出家はバットエンドになってしまったのだと過去に飲まれて殺されそうになった。


 走りながら思い出すことじゃない。のに、考えてしまう。楽になりたい。罪の呪縛から解放されたい。

 やがて足に力が入らなくなって、泥道に足を取られて転んでしまった。地面に叩きつけられた痛みで全てが許されたら楽なのになあ。起き上がるにも咳が酷くて行けない。


「学、大丈夫か?」

「大将・・・・・・」


 手を差し伸べてくれた大将の顔が要にダブって見える。瞬きをすると、しっかり大将の顔だ。


「走るとダメですね。大将、よければーー」


 手を貸して欲しいと言いかけると、体が浮き上がって地面から足が離れた。あの大将がおぶってくれたのだ。珍しいこともあるんすねえ。


「おぶってけっから、咳良くして、それで・・・・・・たまにはワシと話もしてけろ」


 この人はガキ大将だが、優しいガキ大将だった。読み通り、寂しかったと取っていいのか。思春期の心のチグハグが素直になれないんだと思い出した気がする。


「啄木のことは知らないんで、他のことなら」


 手紙はもう少し待ってもらおう。たまには対象との時間も取らないと、いつ死なれるかわかりませんからね。



 角田の枝野村にある学の家は質素だ。家というより小屋と言った方がしっくり来る。1人で住むのには充分だと、体が凝りそうな薄い煎餅布団、それから家具は棚と机が1つずつあるだけ。


 物が無いからなのか、綺麗に整頓されている。汚れそうなトイレも、毎日使う台所だって汚れてねぇ。まるで使った事が無いようにみえる。人差し指でツツツと平な場所をなぞってみると、チリ一つ付かないで指先は綺麗なまんま。


 どこもかしこも綺麗で、学の家は少し不気味だ。人の生きている匂いがしない。四十九院学である証拠は何処にもない。


 学と一日も会わない日があれば、季節の風に連れられて居なくなっていそうな気がして、夜な夜な家の隙間から姿を確認している事なんか知らないだろうに。

 覗かなくても垓音が聞こえた時はホッとする。"生きている気配のしない"部屋に、確かに命があるんだってわかるからだ。


 毎日、学を死なせないように気を張っている。これは大将の務めだべ。手下を守ってやるのが大将の務めだべ、と信じている。


 そんな手下が雨に濡れた体を拭く為の手ぬぐいを、頭に乗せて来た。ポンと投げるようにだ。

 手下のクセして、大将に対する態度が成ってない! でもまぁ、今日は泊めてもらう訳だから大目に見てやろうと、足を崩して胡座掻いた。


「さて大将。オレんチに来たって事は飯はロクなの出ませんよ。お家に帰ってメシ食った方が腹も心も満たされるんじゃないすか」

「遠回しに帰ぇれって言ってんのわがっと」

「そりゃあ考え過ぎですよ。飯だけ食って戻ってくりゃあいいでしょう? ウチはマジに何も出せませんよ。猪肉も鹿肉も向こうの家に渡しちまいましたからね」

「此の間山さ行った時に取ったやづか!?」

「はい。俺は食いたく無いんで」


 何を涼しい顔して食いたくない、だ! 自分の顔が良いとでも思ってんのか、このおだずもっこ!

 山に入るといつもこうだ。捌いたりするのは他人にさせず1人でやるのに、自分は少しも食わないで他人様に分け与えてしまう。それはワシの口にも入るんだけど、どうしてこうも欲がないのか。


 学の飯はいつも玄米だけ。他におかずもないし、醤油もかけない。しかも1日1食。大人の男の食事と言えるか? 台所が綺麗なのもそのせいだ。玄米を炊くときは七輪と土鍋を使うんだから、汚れるはずがない。今日のような雨の日に、やっと竈を使うらしい。


 まさか飯は自宅で食うと言って出ていける程嫌なやつにはなりたくない。なので「オメと一緒でいい」と不機嫌に言うと「今日は醤油くらい垂らしますよ」なんて微笑んでらぁ。本音はせめて温かい汁モンくらい付けて欲しい。同じでいいと言っても“食事“はしたいもんだ。


「なんでオメはそんなに食わねぇんだ?」


 いつも思っていたことだったのに、今日初めて聞いた。幼い時はワシの家に来てもあまり食う印象がないから、勝手に好き嫌いが多いのかと思っていた。いつも、好きでもない物を無理矢理食わされているように遠慮する。

 学はワシの問いかけに、竈の火を焚きながら素っ気なくボソボソと答えた。


「・・・・・・小食なんすよ。体が冷えて風邪ひかれちゃあ困るんで、風呂入ってきてください」


 なるほど。そうかと納得した。言われた通り、風呂を借りて体を温める。そういえばアイツ、飯は食わないのに毎日風呂には入るんだよな。水が勿体ねぇって言って、風呂場のお湯でも啜ってんのか? そんな下品なするやつじゃねえか。

 

 10年とまでは行かずともそれに近い年月を近くにいるが、ワシは学の事を良く知らない。

 知っていることは、未来から来たと妙なことを言っていること。それから妹がいることくらいか。妹のこともいくつ離れているだとか、大まかなことも細かなことも知らない。かといって聞いても答えてくれねえ。

 何時だか、妹とは仲が良いのかと聞いたら「何もできなかった。寧ろ余計なことをしたーーだから此処にいるんすよ」と泣きそうな顔をしてたな。


 その時はワシも家庭のアレコレで寂しい時期で、1人の学が放っておけず、ワシの子分になれ! とか言って、今の関係になったんだっけなぁ。

 未来から来たと言われた時はあまり信じられねぇし、今もおかしいとは思ってっけど、髪の毛が金色なのに日本語が流暢なことや、仙台に行くと何十年後にはここに何が建つとか色々知ってるから面白い。


 ワシが面白いと思っても、学はそうでない。先の話をすると目が死ぬ。光が消える。何があったか聞けない、魂の抜けた体になる。今を生きていないと死ぬようだ。


 もしかしたら、学は妹に何かをしてあげられたら飯を食うようになるんだろうか。ワシは学ともっとはしゃいでみたい。遠くから遊んでいるのを見られてるのではなく、一緒になって遊びたい。


 思い詰めた顔をせずに、学が歯を出して笑うのを見てみたいんだ。はあ、柄にもないことを考えると体も顔もポカポカ熱ってきた。絶対口に出すもんか。


「大将、のぼせますよ」

「わかってる!」


 そうは思っているのに、ツンケン当たってしまうのは学に甘えているからだろう。



 その晩、醤油で炊いただけの玄米を食ってから、学と駄弁った後、彼が風呂に入ると言うので、ほんの5冊しかないうちのどれを読もうか悩んでいた。内容は星に関わる物ばかり。学はロマンチストだ。

 

 村の女たちは大抵学に心を惹かれている。既婚であろうがなかろうが、顔が良いから好かれている。夜空の下、星のウンチクをひとつ語れば女なんてすぐ手に入りそうなのに、学は女が苦手だというから勿体ねえ。


 顎に指を当てて棚に並ぶ本を眺めると思いつく名案。

 ワシも星について詳しくなればモテるんじゃないか? 別に困ってる訳じゃないけどな、口説くってのは将来必要なことだべ。勉強熱心なワシじゃ、これくらい知ってるんだど? すげえべ? なぁんて言えば女もイチコロってな! ガハハ! と1人高らかに笑う。


 前は急げだ! と1冊の本を取ると、同時にバサバサ音を立てて手紙が落ちてきた。もちろん読む気はない。が、1枚だけ封筒に入っていない紙を見つけると「妹」という文字に目を引かれた。


 いけないとわかっている。けれど見たい。その罪悪感を押し込もうとゴクリ、唾を飲む。

 差出人は富名腰志蓮という人からだ。


 ーー要チャンは我慢しています。毎日歯を食いしばったり、唇を噛んで過去に殺されまいと戦っているんです。何を思い出したのか、何を思っているかはは言いません。

 ボクにだけ時々、戻ったら骨を拾ってくれる人はいるのかな、と冗談のように言います。彼女が覚えているかわかりませんけど、祗候館でも似たようなことを言われました。


 今まで仲の良かった人たちと離すかどうか迷っています。愛子さんに頼んで、彼女が現状からいつでも逃げられるような手配は済んでいます。

 

 あなたの妹は限界に向かっているのかもしれません。きっと、思い出すような一言や会話があろうとなかろうと思い出して来ているんです。

 

 あなた達の母親がどんな人だったか教えてくれませんか。辛い過去を思い出させるかもしれない。けれど、例え誰もが彼女を嫌になっても、ボクだけは彼女の全てを受け入れる器でいたいのです。どんなことも引きません。嫌ったり、約束を投げ出したりすることはないと誓います。


 彼女はボクの名前通り「要」であります。あなたの妹を救うためにも、お力添えください。


 富名腰志蓮ーー


 体が震えた。学宛に来た手紙に、確かに「妹」と書いてある。

 他の手紙を拾い上げて住所を見ると、富名腰という男は東京にいるらしい。そうか、学が一生懸命書いていた手紙はこれだったのか。

 

 急にピンときて「石川啄木の物」と言われて渡されたノートを探り出してみた。

 中には「愛子」という女と学が東京で過ごした記録が綴られている。祗候館という危険な場所に妹を助けに行ったらしい。


 もしや、まさか。学の妹もこの世に存在しているのか。嘘だべ、と言いたいが最近の学を見ていると深刻な顔をしているから本当らしい。

 このことを知ったからといって、ワシに何ができるでもない。何も知らなかったことにしよう。ここで問い詰めたりしたら、学は本当に死んでしまうんでねえか。


 ワシの死ぬ日まで生きていれば、未来に戻れるといっていた。もしもそれより先に学が死んだら、昭和も未来も関係なく、学に関わった全ての人間と情報が消えてなかったことになってしまうらしい。

 だから何も知ゃねふりをしていよう。それで、近くで見張っていよう。


「タイショー、すいませんが寝巻き持ってきてくれませんかね」


 風呂場から学の声が聞こえると、打たれたように体が跳ねた。急いで元の通りに手紙とノートを片付けて、本を読んでいたフリをするために適当な場所を開いた。


「やなこった! こっちさ来て自分で取らいん!」


 いつも通りツンケンしつつ、言われた通り寝巻きを持って学の元へ行く。

 “大将”でいればボロは出ない。読んだことは悟られないようにしなくては。

 

 家族でも友達でも、光を失った目を見る事は、何もないのに恨まれている気がして恐ろしい。最初に出会った頃より距離の縮まった学を壊されたくない。



 翌朝、大将は家に帰って学校に行った。昨日の嵐は嘘のようにおてんとさんは晴れている。

 大将は夜通し喋り通すだろうと思って起きていたが、激しい雨に打たれて疲れたのかぐっすり眠っていた。オレは富名腰宛の手紙を書き終えて、ポストへ投函し、今から寝ようと思っている。


 いくら生きることに後ろ向きでも睡魔には負ける。眠りたいということは生きたいということか。心と体は相違しないね。

 徹夜のおかげで布団に入ったらすぐに眠れた。大将の家から聞こえる話し声も気にならなず、眠りは深い物だった。


 そして夜も夕飯時を過ぎた頃。大将のお袋さんのつんざくような声に叩き起こされた。


「学さん! 学さん! いるんだべ!」

「はいはい、居ますよ」


 激しく叩かれる扉を開けると、お袋さんだけでなく他の兄弟や友達も服に泥んこをつけて、ゾロゾロと眉を八の字にして後ろに隠れていらっしゃる。まるでハロウィンで家々を訪ねる子供みたいだな。


「直、来てねぇが!?」

「そういや朝に出たっきり来てませんよ。オレが寝てたんで気づいてないだけかな」


 どうやら大将が帰ってこないらしい。オレは部屋に大将が居ないか見たが、灯りをつけても人の気配はない。慌てふためくお袋さん達に友達の家や学校は探したかと聞くと、居ないと即答される。


 すると大将と一番仲の良い子が「直さん、学校に来てねえんだ」と声を震わせながら告白した。

 続けて兄弟の和子さんが「実は朝帰ってきた時、よそ行きの服をバッグに詰めてたんです。だからてっきり、今日も学さんのところにお世話になるんだと思ってお母さんにも言わないでいたら、こんなことに・・・・・・」とついに泣き出してしまった。


「何が言ってなかったすけ!? どこさ行くだか、なんか!」


 お袋さんも気が気でないから狂乱していた。悪くもないのに子供達を怒鳴り、不安を押し殺していた。


 もちろん何も聞いていない。大将は変わらない様子で学校へ行ったはずだ。朝にした会話を思い出してみる。

 飯に文句を言われて、いそいそ髪を切ってやって、本を借りると言われて貸してやってーー。


 「まさか」


 嫌な予感がした。モテるためにどうこうくだらないことを言っていたから、貸した本をきちんと見なかった。棚に走り、本の位置を見ると一冊足りないのはいいが、愛子のノートと富名腰からの手紙が1枚なくなっている。


 和子さんが“よそ行きの服を持っていた“というから、嫌な予感は的中した。


「大将、あなたって人はーー」


 ますます嫌な予感がする。こうしちゃいられないと、肩掛けカバンとマフラーを持って外に飛び出した。

 お袋さんに必ず連れ戻すと言って、行き先は敢えて告げない。


 愛子に会いに行ったか、富名腰に会いに行ったか。それともーー。



 朝に仙台を出てきた。親の金をくすねた大罪を犯したが、大人になったら倍にして返すつもりだ。東京について「妹」に会い、学が何もしなくても大丈夫だと安心させてやるんだ。


 富名腰という奴が大袈裟に書いたかもしれない。んだから、ワシが事実かどうか確かめに行く。


 ノートと手紙を読んでみると、間違いがなければ「生出要」が妹だ。

 お前に幸せになってもらわねえど、学がいつまでも笑えねえんだから、もし本当に死にそうならばワシがどうにかしてやるべ。


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